第五夜
一度言葉を交わしてしまうと、交わせなかった頃にはもう戻れない。
ふとした瞬間に、思い出す。
せっせと宗右衛門の家に通う幼狐を、同じあやかしものは嗤い、咎めた。
『何にもならぬ』
そう言ったのは誰だったか。
『うん、でもそれはしょうがないんだ。おれが悪いんだ』
『お前の罪も薄れぬ』
『……知ってる』
誰からともわからぬ貢ぎ物、幼狐からではないのだ。そうえにしてみればただの幸運で、伝わらない限り、償いではない。だが幼狐は、二度とあのような宗右衛門の激昂を見たくなかった。だから幼狐は、ただ宗右衛門が幸いであればよかった。
宗右衛門は幼狐を探しているようだったが、それでも姿を見せる気はなかった。
『人間に情を掛けすぎるな。身を滅ぼす』
『お前にとっては善意でも、人は決して、そうは思わぬものなのだから』
……しってる、とやはり幼狐はわらうだけだった。
すべて承知で、幼狐は長い旅路を、都まで来た。
△△ △△ △△ △△
――――掛かったのは狩猟用の罠。後ろ肢を捕られ、幼狐は怖くて震えることももがくこともできなかった。
人里の方へはいくのではなかった。ちょっとの好奇心にかけられて、近寄ったのが間違いだった。罠にかかったら、殺されて皮を剥がれ、食べられてしまうと聞く。
ああ、きっとおれもそうなってしまうと幼狐は恐怖の中で思った。息がうまく出来なくて苦しくて、声が出るのならば必死で叫んだ。
ただ迫りくるものから守りたくて、身体を丸めるのが精一杯で。近づいてくる足音に請い願った。どうかどうか、お願い助けて。
『……なんだ、仔狐か?』
ふと、頭上に影が差す。
躯を丸めて怯えているだけの幼狐の肢の罠をほどき、男は幼狐の首根っこを掴まえて持ち上げた。皮膚が引き攣れて痛い、痛い。でもまだ生きていた。
『こんなに小さくては、食いでがないな』
笑いかけてきた男の、表情の意味が幼狐にはわからない。かすかに持ちあがった口角。ほんの少し、緩ませられた目元。ひきつったようなそれはそれでも、獲物に対する笑みではなかった。
男は尻から幼狐を地面に下ろし、血の滲んだ肢に布を巻きつけてくれる。どうやら怪我をしてしまっていたらしい。
布を巻き終わると、さあ、と男は幼狐を森の奥へと押しやった。
『かあさんとこに、帰れ。もう村に近づくなよ。食われるぞ』
逃がしてくれようとしている。幼狐はただぼうと男を見上げた。
『行けよ、食うぞ』
再度押され、幼狐はようやっと萎えた後ろ肢を踏ん張って歩いた。振り返る。苦笑してひらひらと男は手を振りやった。
真意がわからない。混乱するあたまで、よろよろ走りながら考える。
幼いから、小さいから。
食いでがない、やっとその言葉を思い出す。
人間だ、人間で、きっとほかの動物なんかは撃ち殺して食っちまうんだろう。そうやって生きてきたんだろう。
でも、それでも幼狐は助けられた。
胸がいっぱいで、あつかった。
彼を好きになるには、十分だった。
それから何度も男の姿が脳裏に浮かんだ。逢いたくて逢いたくて仕方がなかった。そのたびに、食うぞ、という言葉が蘇る。けれど日に日に大きくなる想いは、いつしか食うぞ、この脅し文句を凌駕してしまった。それでも、それよりも逢いたかった。もう一度、一目逢ってみたかった。
ぎこちなくも見せてくれた、きっと得意ではないのだろうあの笑顔を、また見せてほしかったのだ。
ひとりぽっちの幼狐にそうやって笑ってくれるものなんて、今まで誰も、いなかったから。