第二夜
ああ、よかった、と幼狐は呟いた。
とっても急いで戻ってきたお陰で、戌の刻には都に着くことができた。
宗右衛門が帰ってくる刻限より大分前。間に合って本当によかった。
幼狐はいくぶんほっとして、走るのをやめてほてほてと歩く。
だけどもそうやって、油断したのがいけなかった。
人通りなどまったくない通り。ただでさえ寂れた右京。夜党ならばとっくに出払っている。
気を抜いてほてほて歩いていると、いきなり目の前に松明の明かりがちらついた。
「誰だ!」
恐ろしく、太い声。
反射的に躯がびくりと震えて、幼狐はきつく目を瞑った。
誰、とはこちらの台詞だ。誰だ、だれ。
気づかなかった。気配には敏感なはずなのに。
きゅうと魚を抱き締めてびくびくと怖がる幼狐を見て、相手の気配は弛んだようだった。子どもだとは、思わなかったらしい。
「怯えるな。とって食おうという気はない」
「っ、あ……、」
顔をあげた幼狐は目の前にいたひとの姿に、もうすこしで腰を抜かしてしまうところだった。
(そうえ……)
何で、何で。
くるくるくるくる、そればっかりが頭のなかで踊る。
(まだ、おしごとの、時間のはずじゃ、)
「どうした童、こんな時分に出歩くは感心せんな」
「あ、えと、」
言葉の塊が喉に引っ掛かっているようで、幼狐は満足に声が出せなかった。
「ぉつ、かい。おつかい」
どうしよう、どうしよう、そう思って、咄嗟に出てきたのは嘘だった。罪悪感に心ノ臓を引っかかれるような引き攣れた痛みがあったけれど、幼狐はすぐにその嘘を貫き通そうと決めた。
宗右衛門はじっと幼狐のことを見下ろした。男の前でひとの姿に化けたことはなかったけれど、もしかしたから気づかれてしまったかもと思うと、じっとりと冷たい汗が背中を伝った。
尻尾を出してやいないだろうか、耳は?
知れず足が後退し、宗右衛門から遠ざかろうとする。
ああでも、これをそうえにあげなければ。せっかく捕まえたのだから。でも――
「お使い? こんな時間まで」
「川で、さかな、」
「それでもずいぶんな時間だぞ」
「じか、かかっ、て」
宗右衛門の声を聞くごとに、躯が小さくなっていくようだ。咎めるような響きがあるような気がして、それが幼狐の言葉を嘘と疑っている所以だと思えば声は震えた。
「……そうか。もう遅い。送っていこう。子どもが歩き回るには危ないから。家はどこだ?」
「――あげるっ」
いたたまれなくなって、幼狐は魚を宗右衛門に押し付けると踵を返して駆け出した。多分、宗右衛門は子どもとの関わり方を知らない。自分の目の前に立つ子どもが宗右衛門にひどいことをしでかした、あのときの幼狐だなんて知らないのだ。
だから優しげな素振りを見せる。
だめだ、宗右衛門は絶対に、幼狐に優しくしてはだめなのだ。
渡した魚。
あの日宗右衛門が釣っていて、幼狐が放したあの魚――――。
妻が、病で。最期に口にしたいと言ったのがあの魚だったそうだよ。
こっそり聞いた、宗右衛門の細君。
秋刀魚を食べたいと、言ったのだって。冬に秋刀魚は取れないのに、冷えた川、危機迫った形相で、宗右衛門は釣糸を垂らして。人が変わってしまったような男の姿を幼狐は見たくはなくて必死で追いすがった、その、過ち。
そのときの宗右衛門の激昂を幼狐はよおく覚えているから、宗右衛門が自分に優しいのを、幼狐は我慢できなかったのだ。
「ちょっと待て、これはお前の頼まれものだろう? 俺がもらうわけにはいかない」「い、いいんだ。一番渡さなきゃならなかったひと、もういない。だから、あげる。あげる」
宗右衛門は幼狐の前に回り込み、幼狐が逃げ出すのを阻んだ。
幼狐は躯を縮めてどうしようもできずに宗右衛門を窺う。
「どういうことだ。それは」
厳しい声に泣きそうになったけれど、幼狐は頑張って宗右衛門を見上げた。
「――……死んでしまった」
幼狐が罪を犯したその瞬間、彼女の死は届けられた。
宗右衛門は妻に秋刀魚を食べさせてやることはできなかった。失意のまま、宗右衛門は都に行った。
あのあと朝も昼も夜も、一日中、何日も、何十日も、ずっとずっと幼狐は秋刀魚を探して川の中にいて、でも、見つかることはない。
だって、冬だ。
冬に秋刀魚は捕れない――
幼狐が届けられたのは、抱えるには大きすぎる鮭やらで。
けれども宗右衛門の妻はもう死んだのだ。届けたかった人はいないのだ。犯してしまったものの大きさに、立ちすくんだ。
そうえ、おれは、――――おれは、どうしたら。
せめてもの償いに幼狐は宗右衛門を追いかけた。
そして直接は逢うことのなかったはずの宗右衛門が、今、目の前にいる――
「……そうか。――家は遠いのか、童」
一瞬だけ痛い目をして、それから宗右衛門は訊いていた。
理由が分からず心のなかで首を傾げ、でも律儀に幼狐は答えた。
「遠い、よ。でもそれがどうしたのか」
「遠いならば、童。泊まっていけ」
ぱちりと目を瞬かせて、幼狐はその言葉を聞いた。ゆるゆると氷解するように理解されていくそれにひどく驚いて、考える前に首を振る。
「いい、いい! へいき!」
駆け出そうとした幼狐の手を宗右衛門のひんやりとした手のひらが包んだ。緩やかな動作で、決して無理矢理ではない。だがただ重ねあわせているだけなのにどうしても振り払うことができず、幼狐は躯をひねって宗右衛門のほうへ顔を向け、放してほしいと目で訴えた。
けれど宗右衛門の目を見た途端、そういった気持ちは何処かに吹き飛んでいた。
松明の揺らぐ炎の奥に見える眼差しは、それも炎のせいなのかどこか揺らめいて、切ない何かと……幼狐の咎が見え隠れしている。
気づけば幼狐は宗右衛門に向き直り、傍まで歩み寄っていた。
俯いて、ちいさく呟く。
「……いく」
宗右衛門は妻を喪ったときのことを思い出してしまったのだろう。幼狐のせいだ。
ひと恋しくなってなっているのか、何にせよ、それを幼狐に重ねるのは一等に間違っていることだったが、幼狐はこの状態の宗右衛門をひとりにすることは選べなかった。
行く。
その返答に宗右衛門はわらう。幼狐の手を取って歩き出しながら、旨いものがある、とまるで人拐いの常套句のように言った。