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此の身ひとつの贖罪  作者: 赤坂壱
本編
1/10

第一夜

 暗い大路をひたすらに走って、一軒の家まで辿り着く。人間だったら無理だけれど、自分は夜の好きな狐の子だった。人間の姿に化けていても本物の人よりは少しばかり夜目が利く。

 幼狐は自分の首で見上げるには大きすぎるそれを振り仰ぎ、中の気配を探った。

 ……誰も、居ない。

 確認すると、幼狐は抱えていた竹竿を放した。

 上り口の石段に跳ねた魚はちいさな水音を立てる。

 この家の主人のことを想像し、幼狐は嬉しくなった。


 食べてくれるかな、食べてくれるかな。


 役目を終えたので幼狐は跳んではねて、狐の姿にたち戻った。衣服に変えていた緑の葉っぱがひらひら落ちる。

 くるくると白い自分のしっぽを追いかけながら幼狐はにこにこと笑った。昨日は食べてくれた、一昨日運んだ秋の果物も、その前も。ちゃんと、ずっと。

 今日はどうだろう。そう考えると、心配な気持ちと期待が混ざり合って、くすぐったい笑い声に変わるのだ。

 と、その時近寄る足音を聞いた気がして、幼狐はぱっと草陰に飛び込んだ。家の周りには手入れされていない雑草が窮屈とばかりに身を寄せ合って、上へ上へと伸びている。身体のちいさな狐一匹くらい、平気で隠せてしまうのだ。

 幼狐はそこから耳と目だけをそっと出して物音のするほうを伺った。

 松明の明かりがぼうって辺りを照らして、背の高い男の姿を映す。衛士の着物を纏った、冷たい雰囲気を孕んだ男だ。

 幼狐のすむ村から三年前、仕事をするために彼は都へ徴集された。

 幼狐はそれを追ってようやく一年前、都にたどり着いたのだった。

(そうえ……)

 名は宗右衛門。

 確か今年で齢二十四のはずだ。

 不意に視線を投げ掛けられた気がして、幼狐は草に身体を埋めた。悟られないように丸く地面に伏せて、呼吸すらも漏れてはいけないと思って両前肢で口を押さえる。

 けれど宗右衛門は幼狐には気づかず、石段の上の魚に目を止めただけだった。

「またか」

 宗右衛門は腰を屈め、無造作に魚を取り上げた。

「こうも毎夜毎夜、奇特な人間もいたものだ。俺に貢いだところで何の得にもならぬものを」

 感情の起伏のないその声に怒られたような心地になり、幼狐は一層身体を縮こまらせた。

「……まあ、されど、有難い」

(そーえ……っ!)

 衝動的に宗右衛門のところへ出ていって飛びつきたくなる。

 うれしい、うれしい、うれしい。

 うれしくって、たまらない。

 はたりはたりと振ってしまいそうになる尻尾を幼狐は無理矢理抑え込んだ。

 飛びつきたくても、我慢した。

 それは決してしてはならないことだ。

 ふいと幼狐は瞳を翳らせる。

 なぜなら幼狐は、彼にひどく恨まれているから。


 毎日毎日、幼狐は何かしら宗右衛門のところへ持っていった。それは食べ物だったりお酒だったり、様々なものに変化したけれど、欠かしたことは一度だってなかった。一年前にようやく都に着いて、宗右衛門を探し回って――何とか見つけて。

 謝ろう、とは思わなかった。謝罪したい気持ちはあれども、それを受け入れてもらえるとも、受け入れてもらうことが許されるとも思わなかった、

 遠い遠い北の地から追いかけてきた男の気配は、相も変わらず三年前と同じ、火傷をしそうなほどに冷たいまま。

 全部自分が悪いのだと分かっていても怖かった。

 幼狐は昔、狩猟用の罠に引っ掛かったことがある。仕掛けていたのは宗右衛門、当然仕留められるものだと思っていたのに、宗右衛門はそうしなかった。

『きさんのように幼くては食い出がない』そう嘯いたときの眼差しが驚くほど優しかったことは、いまでも しっかり覚えている。

 ――それなのに

 三年前のあの日、幼狐はとんでもない裏切りをしでかした。

 知らなかった何て言い訳にならないんだ。許しを乞うための盾に何て、きっとならない――

 ぱしゃんと水が頭の奥で跳ねて、ふっと幼狐は我に返った。

「うわぁっ! だめぇっ!」

 叫んで、両手から逃げ出そうとする魚を抱き止める。噛み跡をつけてはいけないから、魚を扱うときはいつも人間になっている。

 びちびちと腕のなかで跳ねていた銀の尾びれを持った魚は、やがて呼吸ができなくなったのか、ぐったりとして動かなくなった。

「たいへん、たいへん」

 幼狐は踏み倒した草の上に、そっと魚を降ろした。宗右衛門にあげるものなのだから、傷つけたりしてはいけない。

 傾いた日を受けて輝く魚の銀の背を見つめて、幼狐は目を細めた。

 喜んで、くれるだろうか。すこしくらい、自分に笑ってはくれないだろうか――

 時折ふっと沸き上がる、自分の甘えた気持ちに幼狐は馬鹿だなぁと思う。

 そのせいで、宗右衛門をひどく傷付けて傷付けて――哀しませて、怒らせたのに。

 あの時胸中に沈んだ絶望を、いまも幼狐は覚えているのに。

 痛みを訴える心ノ臓を、人型の冷たくなった手で押さえる。

 目の中に入ってこようとする水滴をぐいぐいと拭い、幼狐はひとつ息をついた。

(……あと一匹捕ったら、帰ろう)

 そう決めて、幼狐はまた水のなかへ飛び込んだ。

 すでに日は西に傾いて、山の端に引っ掛かりきらきら橙色に光っている。

 宗右衛門の家につく頃には空にはいないに違いない。ここはかなり都から離れた所にある川で、躯のちいさな狐の仔ではひとに化けてもちいさいままで、帰るのにたくさん時間がかかってしまうので。


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