恋するゴリラ
「よし、これでバッチリ!」
ナチュラル風メイクも、ゆるふわカールも完成して、
鏡に向かってニッコリと笑ってみせた。
新しく買った花柄ワンピースもよく似合っている。
猿八雲モリ子、20歳。
今日は大学の講義が休みなので、これからカフェにランチを食べに行くところだ。
しかもお相手は、モリ子が片想いをしている男性。
ついついファッションにも気合いが入るというものである。
出発しようとモリ子がバッグを手にした時、
『――ご覧下さい! あの怒涛のような川の勢いを、なんと岩でせき止めてしまいました!』
テレビには、数日前に起きた堤防決壊の映像が映っていた。
大雨による増水で決壊した川の堤防を、大岩で塞ぎ、市民の避難を助けたのは、
消防隊でも自衛隊でもなく、
巨大ゴリラだった。
身の丈およそ30メートル。
ビル10階分ほどもある、この巨大なゴリラが初めて出現したのは、今から数年前のこと。
どこからともなく現れ、地震で崩落しそうになった橋を支え、人々を救ったのだ。
それからというもの、度々現れては山火事を消し、難波した豪華客船を拾い、操縦不能となった飛行機を運んだりした。
巨大ゴリラは、いつからか「メガトンG」と呼ばれ、ヒーローのような存在になった。
子供たちにも人気が出て、ファンクラブが設立された。
人気にあやかろうとした会社がグッズ販売を手掛け、日本の新しい商品として世界中から注文が殺到した。
メガトンGの正体を探ろうと、研究をする団体もいるが、その生態や、どこからやってくるのかなどは、全て謎のままである。
「――下からのアングルだと、顔が太って見えちゃうのよね」
モリ子はテレビニュースの映像を、嫌そうな顔で眺めた。
――そう、メガトンGの正体は、何を隠そう、モリ子なのだ。
普段のモリ子は、身長155センチ。
体重は42キロ。
小柄で華奢で、商店街の美人コンテストで優勝する程度には美しい、ごく一般的な女子大生だ。
しかしひとたび変身すると、巨大ゴリラ「メガトンG」になる。
「おーい、ゴリ子~」
突然部屋のドアが開き、無遠慮に入ってきたのは弟のナオトである。
「ゴリ子、ハサミ貸してくんねえ?」
モリ子は一瞬でナオトの間合いに入り、大外刈りを仕掛けた後そのまま流れるように腕ひしぎ十字固めを決めた。
「ゴリ子言うなっていつも言ってるでしょ」
「痛い痛い痛いッ! 離せよバカ!」
「今バカって言った?」
「ごめんなさい!」
ナオトは解放された左腕をさすりながら、
「……ったく、ちょっとは手加減しろよ、ゴリラ化しなくても怪力なんだからオメーは……」
と、涙目でぶつぶつ文句を言った。
弟のナオトは、高校2年生。
勉強も運動もそつなくこなす彼だが、姉に腕力で勝てないのが唯一のコンプレックスらしい。
猿八雲一族の女性は代々、ゴリラに変身する体質なのである。
ゴリラ化した際の巨体と怪力を活かして、先祖代々、人知れず正義活動を行なっている。
だが決して正体を明かしてはならないというのが、猿八雲家のルールだ。
であるにも関わらず、モリ子は派手に登場して世間を騒がせてしまったので、親戚一同からこっぴどくお叱りを受けた。
ゴリラ化するには、ある特定の食べ物を摂取することで、変身する。
どの食べ物で変身するかは、人それぞれだ。
ひいおばあちゃんはサツマイモだったし、
おばあちゃんはバナナで、
お母さんはリンゴだ。
そしてモリ子が変身する食べ物は、
――ざるそばである。
「で、何の用よナオト。私これから出かけるんだけど」
「ハサミ貸してくれ」
「そこにあるでしょ。使ったらちゃんと戻してよ」
「つーかお前、なにめかしこんでんの?」
「犬ヶ蔵さんとランチだもん」
「またかよ。犬ヶ蔵さんも大変だねえ。俺だったらゴリラ女とランチとか食欲失せるんですけど」
そんなこと……。
「そんなこと、私が一番よく分かってるわよ!」
モリ子は瞬時にナオトの背後へ回り、チョークスリーパーを仕掛けた。
「ぐえッ!」と変な声を出して床に崩れたナオトの背中を踏みつけてから外に飛び出した。
――私みたいなゴリラ女、誰も好きになってくれない。
そんなの、私が一番分かってるんだから……。
溢れる涙をハンカチで拭いながら、モリ子は待ち合わせのカフェへと向かった。
「――ごめんよモリ子ちゃん、遅れちゃって!」
先にテーブルに着いていたモリ子の元へ、一人の青年が走ってきた。
犬ヶ蔵士郎、23歳。
モリ子の住む町の交番に勤務する、警察官である。
出会いは今から半年ほど前。
側溝に家の鍵を落として困っていたところ、拾うのを手伝ってくれたのが、犬ヶ蔵だったのである。
当時、巡査になりたてだった犬ヶ蔵は、それはそれは熱心に働いていた。
とは言え、平和な町のこと。
大きな事件などはなく、犬ヶ蔵の役目と言えば、
木に登って下りられなくなった子猫を助けたり、
木に登って下りられなくなった子亀を助けたり、
木に登って下りられなくなった三丁目の小松さん(48歳男性)を助けたり。
とにかく大体いつも、木に登って下りられなくなった何かを助けていた。
真面目で誠実で、子供と動物が大好き。
まるでEテレ子供番組に出てくるお兄さんのようなピュアな笑顔に、モリ子は一気に恋に落ちた。
朝から晩まで頭の中が犬ヶ蔵のことでいっぱいで、大好きなカルボナーラも、一時期全く手につかないほどだった。
「ごめんよモリ子ちゃん、道に迷っちゃってさあ。随分待ったかい?」
「そんなことないわ、私も今来たところよ。さあ座って」
犬ヶ蔵はモリ子の向かいに座り、辺りをキョロキョロと見回した。
「ここ、すごくおしゃれなお店だね」
「大学の友達と、よく来るの。手作りケーキがすごく美味しいのよ」
「僕は普段、同僚と立ち食いそばぐらいしか、行かないからなあ」
「そうなんだ?」
「だからこういうお店で、モリ子ちゃんみたいな美人とランチするのは、なんだか緊張するよ」
「もう、犬ヶ蔵さんたら」
今日は非番だと聞いたので、思い切ってモリ子の方からランチに誘ってみた。
勤務中の制服姿も素敵だが、ラフな私服姿もかっこいい。
モリ子は赤く染まった顔をメニュー表でこっそり隠した。
「犬ヶ蔵さんは、なににする? 本日のランチが3種類あるのよ」
「そうだなあ、じゃあ僕はオムライスセットにするよ」
「じゃあ私は、カルボナーラセット」
「モリ子ちゃんて、カルボナーラ好きだよね。こないだもカルボナーラ食べながら走ってるところを見かけたよ」
「やだ、見てたの? 恥ずかしいわ……。あれは寝坊して遅刻しそうだったから」
「あはは、そうだったんだ。モリ子ちゃんて美人さんなのに、お茶目なところがあるよね」
犬ヶ蔵が、カラカラと楽しそうに笑う。
犬ヶ蔵の笑顔は、まるでひまわりのようだ。
でも、分かっている。
この笑顔は、町のみんなのもの。
だけどこれからは、独り占めしたい。
モリ子は心の中でそう思った。
「――ごちそうさま! モリ子ちゃんの言う通り、美味しいケーキだったよ!」
メイン料理からデザートまでたいらげた犬ヶ蔵が、満足そうに自分のお腹をさすった。
モリ子は食後のミルクティーを飲んだ後、背筋をスッと伸ばした。
「……犬ヶ蔵さん。お話があるんだけど」
なんだい? と犬ヶ蔵が屈託のない笑顔を向けてくる。
モリ子はドキドキと高鳴る胸を抑えながら「がんばれ私!」と自分自身を励ました。
「――私、犬ヶ蔵さんのことが好きなんです! もちろん男性として!」
犬ヶ蔵が、きょとんとした顔になった。
「私の恋人になってくれませんか?」
モリ子がそう言うと、犬ヶ蔵はポカンと口を開けたまま、動かなくなった。
だがしばらくして、
「……ごめんよ、モリ子ちゃん」
振り絞るような声で言った。
「実は僕、今すごく好きな人……いや違うな、憧れみたいな。それで頭がいっぱいで。とにかく早く一人前になりたくて、恋愛とか考える余裕がないんだ」
本当にごめん、と頭を下げた。
――やっぱり。
断わられるのは、初めからなんとなく分かっていた。
犬ヶ蔵さんは、大人の男性だもの。
私なんか、相手にするはずがない。
憧れの人って、職場の美人上司とかかしら。
ああ、胸が痛くて、明日からまたカルボナーラが食べれなくなりそう。
今日が最後のカルボナーラだったのね。
さようなら、カルボナーラ。
「……謝らないで、犬ヶ蔵さん。私こそ困らせるようなことを言ってごめんなさい」
「そんなっ、困らせるだなんて、僕の方こそごめんよ」
「いいのよ。それでも私は犬ヶ蔵さんのことが……」
キャー! という悲鳴と、大勢の騒ぐ声が店の外から聞こえてきた。
すると突然、犬ヶ蔵が勢いよく立ち上がった。
「なんだ今の悲鳴は! 一体誰が木に登って下りられなくなっているんだ!?」
「落ち着いて犬ヶ蔵さん。そんなに毎日誰かが木に登って下りられなくなったりしないわ」
「困ってる人がいるなら助けに行かないと! モリ子ちゃんはここで待ってて!」
さっきまでの、ほんわかした犬ヶ蔵とは、まるで別人である。
猛スピードで店を飛び出したかと思うと、すぐに戻ってきて、レジで精算してから、再び走って行った。
困っている人は誰であろうと、放っておけない性格なのだ。
彼のそういうところも、モリ子は大好きなのだ。
「……でも、外で一体何が起きてるのかしら?」
モリ子も店の外に出てみると、街の人々が同じ方向を向いている。
みんなの視線の先を辿ってみると、500メートルほど先に、超高層ビルが見えた。
その最上階にあるタワークレーンが、何らかの設置ミスなのか、強風にあおられてグラグラと揺れているのである。
「アレが落ちたら大変だわ、何とかしないと!」
モリ子は急いでスマホを取り出した。
「もしもし、モリ子です! ざるそばひとつお願いします!」
「ヘイ、おまちッ!」
まだスマホを切ってもないのに食い気味でそばが到着した。
「ありがとう庄右衛門さん! 今日もめちゃくちゃ早いわね!」
「てやんでえ! 江戸一番のそばは早さが命だ、さあ食いねえ!」
自転車でざるそばを持ってきてくれたのは、庄右衛門。
古めかしい名前だが、年は21歳。
老舗そば屋「土左衛門」の跡取り息子だ。
モリ子のゴリラ体質を、唯一知っている理解者でもある。
「庄右衛門さんはどこから電話をかけても、すぐにおそばを持ってきてくれるのはどうしてなの?」
「てやんでえ! 生粋の江戸っ子だからでい!」
「うふふ、よく分からないわ」
突如、ひときわ甲高い悲鳴が聞こえた。
振り返ると、クレーンが今にも落ちそうになっている。
「時間がないわ庄右衛門さん! 走りながら食べるから、そばちょこだけ渡して! せいろは庄右衛門さんが持ってそのまま自転車で並走して!」
「てやんでえ、お安い御用だ! しかし巷じゃあ女子高生が食パンくわえて走るそうだが、モリ子ちゃんはざるそば食いながら走るなんて随分と粋だねえ!」
――私だって本当は、ざるそばじゃなくて食パンくわえて走りたい。
そして曲がり角で、好きな人とぶつかって、恋に落ちたい。
どうして神様は、私にばかり試練を与えるの?
そう思ったこともあった。
だけど……。
「クレーンが落ちるぞ! みんな逃げろおおお!!」
逃げ惑う通行人たちを掻き分け、モリ子はビルへ向かって一直線に走った。
ざるそばをすすりながら、全力で走った。
「――これが私の、使命なのよ!」
これは試練ではなく、使命だ!
ざるそばを食べながら、モリ子は自分の体がメキメキと変化するのを感じた。
『――こちらが、本日の映像です!』
もう何度目であろうか。
テレビには同じ映像が繰り返し流れている。
巨大ゴリラ・メガトンGが、高層ビルから落ちかけたクレーンを、すんでのところで救出する映像だ。
「やっぱりかっこいいなあ~! メガトンG!」
犬ヶ蔵が、テレビ画面に向かって感嘆のため息を漏らした。
録画した今夜のニュース番組を、先ほどから何度も何度もリピート再生しているのだ。
「今日も一段とかっこよかったなあ~! あんな大きなクレーンをやすやすと持ち上げちゃうんだもんなあ!」
ここは犬ヶ蔵の自宅マンション。
ローテーブルの上に置かれたファイルには、メガトンGの記事や、写真の切り抜きが、大量に保管されている。
犬ヶ蔵はコーラ片手に、ベランダに出て、夜空を仰いだ。
「僕もがんばって、いつかメガトンGと肩を並べられるくらい強くなるんだ! そして町のみんなを守るヒーローになるんだ!」
一体誰に向かって話しているのか。
犬ヶ蔵は一人暮らしなので、部屋には誰もいない。
そして巨大ゴリラと普通の人間が肩を並べるのはどう考えても無理な話なのだが。
少年のように純粋な心を持つ犬ヶ蔵は、努力すれば夢は叶うと信じ切っている。
「待ってろよ! メガトンG!」
犬ヶ蔵が星空に向かって、満面の笑みで雄叫びを上げた。
メガトンGの正体が、常日頃親しくしている近所の女子大生だとも知らずに。
モリ子と犬ヶ蔵の、すれ違う恋は、今始まったばかりなのである。
【完】
恋するゴリラ