29 死の恐怖
バルバドは何をしようとしているんだろう。
何かとてつもなく悪いことを考えている気がする。
そんな不安が頭をよぎり、なんだか落ち着かない。
そわそわする私に黒い影が落ち、ふと顔を上げると目の前にバルバドが立っていた。
首筋に冷たいものが当たる。
なるべく顔を動かさずに目だけ動かして冷たいものの正体を見る。
鋭く光るナイフだった。
一瞬、思考が停止するもナイフの冷たさに現実に引き戻される。
前に視線を戻すと残忍な笑みを浮かべるバルバドと目が合う。
「…私を…殺す…の?」
恐怖からか声が掠れる。
「ああ。お前が生きている限り、シルバーウルフは俺の物にならない。お前は…邪魔だ」
「…私を殺しても…イヴァンは…あなたのものには…ならない」
「俺の方がシルバーウルフより強い。だから問題はない」
「…そうじゃない。イヴァンにも…意思が…あるの」
「意思?魔物の意思などどうでもいい」
「どうでもいい訳ないっ。イヴァンだってちゃんと意思があるのっ。痛いっ」
首筋に小さな痛みが走り、微かに血の匂いがした。
「こんな所で興奮しないでくれ。お前が死ぬ場所はここじゃない」
ナイフを首筋に当てたまま、バルバドは私の背後に回ると、後ろ手にした私の両手首を掴み、軽く押した。
「このまま真っすぐ歩け」
言われるまま前に歩き出す。
私はここで死ぬのかな。
頭にそんなことがよぎる。
イヴァンもシロもヴォルもユラ…は役に立つかわからないけど、アレスさんだっていない。
非力な私は何もできな…い?
ううんっ、そんなはずない。
多少魔法だって使えるんだからできることがあるかもしれないわ。
何かやれること…。
あっ、転移魔法!
そうだ、私には転移魔法があるじゃない。
これがあればすぐに逃げられるわ。
どうして忘れてたのかしら。
少し余裕ができた私はギリギリまでバルバドの真意を探ることにした。
「ふん。お前にできることなどない。ここがお前の死に場所だ」
連れて来られたのは洞窟を抜けた先、そこはまた薄暗い森の中で何もないかなり開けた場所だった。
上を見上げると、灰色の空が見える。
どんよりとして、どこか現実味のない空が。
そして、何かの気配がした。
それも一つや二人ではない。
と同時に獣くさい匂い。
嫌な予感がするわ。
「出てこいっ」
ごくりと唾を飲み込む私の前に、のそりのそりと魔物が出てきた。
知っているものも知らないものもいる。
とにかくたくさんの魔物たちが、私を見て涎を垂らしているのが見える。
私を食べる気だと思ったら急に体中の体温が消え、ブルブルと震えが止まらない。
大丈夫、落ち着いて、早紀。
あなたには強大な魔法があるのよ。
大丈夫。
食べられる前に転移するの。
自分に言い聞かせる。
「お前が何を考えているのか、手に取るようにわかるぞ。残念だがお前は魔法を使えない」
えっ?
「自分の手を見てみろ」
言われるままに離された自分の手を見た。
左手首に何かついている。
それは革のような素材で腕輪のようになっており、表面に文字のような記号のようなものがびっしりと描かれていた。
どこかで見たことがあるわ。
どこだったかしら。
…そうだわ。
ニコがまだバルバドの手先だったとき、ニコの足首についていたタグのようなものに似ているんだわ。
あれにもこんな文字や記号のようなものが描かれていたわ。
そしてあのタグのようなものをつけたニコはとても凶暴だった。
…。
私も凶暴化して、目の前の魔物と戦えということかしら?
頭の中に、大きなリングの上でファイティングポーズをとる私と魔物たちが浮かぶ。
後ろを振り返るとバルバドと目が合った。
「違う」
すぐさまそう返された。
「何も言ってないのに…」
「お前の考えていることなど手に取るようにわかると言っただろう。その腕輪は魔法を封印することができる特殊なものだ。どうだ?使えないだろう?」
試しに土魔法を使ってみる。
「ぬりかべっ」
何も起こらない。
「落とし穴っ」
やっぱり何も起こらない。
本当に使えないの?
「今のはなんだ?本当に魔法を使おうとしたのか?」
少し呆れたように私を見下ろすバルバドに、私は胸を張って答えた。
「立派な魔法ですっ」
「…まあ、今更どうでもいいことだ。どのみちお前はこれからあいつらのえさになるんだからな」
…えさ。
思わず前方へ視線を戻すと、お腹を空かせた魔物たちが舌なめずりをしてこちらを見ている。
「このままではあなたも危ないのでは?」
「主を襲う従魔がいるかっ」
確かにそうでした。
「そろそろあいつらも我慢の限界だ。さあ、あいつらの腹を満たしてやってくれ」
トンと背中を押され、魔物たちの前へ転び出る。
魔物たちの息遣いも感じられるくらいの距離で、再び恐怖が襲ってきた。
ドクンドクンとやけに心臓の音が響き、じわりと手のひらに冷や汗がにじみ出る。
ごくりと唾を飲み込んだその時、目の前にいた大きな黒い熊のような魔物が威嚇するかのように二本足で立ち上がり、太くて大きな腕を振り下ろしてきた。
もうダメだっ。
目を瞑り、頭を抱えて死を覚悟したけれど、一向にその時が訪れない。
恐る恐る目を開けると、目に映ったのは赤髪の大男と銀色に光る体毛だった。
「アレスさんっ。イヴァンっ」
チラッと私に目を向けたアレスさんはニヤッと笑って言った。
「サキ。もう大丈夫だ。あとは俺たちに任せろ」
アレスさんの笑顔と言葉に安心した私は、その場に座り込んでしまう。
『…サキ。すまぬ』
イヴァンの声と同時に結界が張られたのがわかった。
!?
イヴァンが謝った!?
今のは聞き間違い?
それとも幻聴かしら。
殺気とともにギロッとイヴァンに睨まれた。
『余裕だな』
だって、アレスさんとイヴァンがいればもう安心じゃない?
「我もおるのだが…」
突然耳のすぐ近くでシロの声が聞こえた。
「シロっ。シロも来てくれたの!?」
「転移魔法も使えぬ二人にお前の元にたどり着けというのは酷であろう?」
「それもそうね。ありがとう、シロ」
さっきまでの恐怖も忘れ和やかに話す私に、余裕綽々だったバルバドが一変して焦ったように叫んだ。
「何を和気あいあいと話しているんだっ。もういいっ。お前たち全員魔物のえさにしてやるっ」
バルバドは魔物たちに視線を向けると大きく手をかざし、命令した。
「お前たちっ、殺れっ。ただし、シルバーウルフは殺すなっ。生け捕りにしろっ」
バルバドの合図と同時に一斉に魔物たちが襲って来る。
アレスさんは大剣を振り回して魔物たちをなぎ倒していく。
イヴァンも空へと駆け上がり、翼のある魔物を狩っていく。
シロは私のそばで水魔法を使って敵を攻撃している。
私はイヴァンの張ってくれた結界の中だ。
もちろん、バルバドが滅裂針を持っている限り、イヴァンの結界の中も安全じゃない。
「シロ、バルバドを私に近づけないで。バルバドはイヴァンの張ってくれた結界を消滅させる道具を持っているの」
「わかった。もう二度とお前には指一本触れさせぬ」
シロの心強い言葉に安心するも、肝心のバルバド姿が見えない。
不安に駆られる私のすぐそばで呻き声が聞こえた。
見ると、水でできた縄のようなものに体を巻かれたバルバドが空中でもがいている。
シロの水魔法だ。
もがくバルバドの懐から何かが落ちた。
キラリと光るそれを拾い上げる。
滅裂針だ。
「これさえこっちにあれば安心ね。あとは私も魔法が使えるようになればいいのだけど…」
血だらけで魔物を屠っているアレスさんを見遣る。
空で魔物を倒すイヴァンも血だらけだ。
二人とも返り血だろうけど、大変なのは間違いない。
やっぱり私は守られているだけで、何の役にも立たないの?
腕にはめられたものを見る。
これさえ外れれば…。
思い切り引っ張ってみるけど、外れる気配も千切れる気配もない。
ナイフかはさみがあれば切れるかもしれないけれど、あいにくナイフもはさみも持っていない。
そうだわっ。
確かアイテムバッグに手芸用の道具が一式入っているはず。
その中にはさみもあったわ。
早速取り出そうとするも何も出てこない。
魔力が封じられているから?
落ち込む私に、シロののんびりした声が届く。
こんなときでも話し方は変わらないらしい。
「光魔法が使えたならば簡単に外せたであろうが…。結界を消滅させる道具を使ってみるのはどうじゃ?魔法を無力化するというのならば、その封魔輪にも効果があるやもしれぬ」
「封魔輪?」
「お前の腕についているそれじゃ。我の知る封魔輪とはちと形が違うが同じようなものであろう?」
さっき拾った滅裂針を手首の封魔輪に近づけた。
触れた瞬間、パリンと音がして封魔輪が外れた。
「やったわ、シロ。あなたの言う通りだった。ありがとう。これで私も少しは役に立てるかもしれないわ」
「ところでサキ。こやつはどうする?殺しても良いか?」
水の縄に捕らわれ身動きできずにもがくバルバドに目を向けた。
「ダメよ。バルバドにはちゃんと罪を償ってもらわなきゃ。シロ、この戦いが終わるまでそのままにしておける?」
「このような輩はさっさと殺した方が良かろうが…。サキがそう言うのならば仕方があるまい」
「ありがとう、シロ」
封魔輪を外すことに成功した私は、本当に魔法が使えるようになったのか試してみる。
アレスさんの背後を狙う牛のような魔物に向かって叫んだ。
「落とし穴っ!」
突然地面に開いた穴に、止まれなかった魔物が落ちた。
近くにいた魔物たちも一緒に。
「よかった。使えるようになったわ」
早速、光魔法でアレスさんやイヴァンの援護をする。
少しでも役に立てるように。
だから気がつかなかった。
すぐそばにいるシロの異変に。