28 破られた結界
屋敷の隠し扉から例の裏庭へと出て、あの男―バルバドの到着を待つ。
そしてここで私に別の緊張が走る。
もしかして私、何も知らないフリをして疑われることなく捕まるという演技をしなくちゃいけないのでは?
…無理。
絶対無理。
小学校の学芸会でも、舞台の後ろでただ立っているだけの木の役とか舞台に出ることすらない大道具の係とかしかやったことないのに。
どうしよう。
いっそ仮面をつけるか、それともベールか何かで顔を隠すか…。
布ならアイテムバッグにあったはずと探そうとしたらイヴァンに止められた。
『やめておけ。余計に怪しまれるぞ』
うっ、やっぱりダメ?
『バルバドとかいう輩には一度会っておる。普通に驚いた顔をしておけば良い』
そうね、そうよね。
なごみかけたその時、ドムス市長の少し緊張感の混じる声がした。
「来たぞ」
顔を上げると同時に前方の空間が歪みだし、次の瞬間、オールドムッカの森であった、顔に不思議な模様のある男―バルバドが立っていた。
間近で見るその男は模様の不気味さと目つきの鋭さが相まって恐ろしく思えた。
まるで闇から出てきた魔物のようで。
「驚いたか?また会うことができて俺は嬉しいぞ」
男の声に、私はハッとした。
来るとわかっていても驚いてしまった。
さっきの心配も杞憂に終わり、疑われずに済んだわとホッとする。
もしかしたら私にも演技力ってあるのかも。
「ドウシテアナタガココニ」
思いっきり棒読みになってしまった。
背後で笑う気配がする。
やっぱり私に女優は無理だった。
でもバルバドはそれが驚きや恐怖から来るものだと思ったのか、疑うことなく薄ら笑いを浮かべた。
「お前に…というよりお前の連れているシルバーウルフに用がある。そのシルバーウルフには俺の従魔になってもらう」
『断る』
「嫌だって言ってますけど」
「なら、力づくで従わせるだけだ」
そう言うなりバルバドは右手を前に出し、何かを唱えようとしたけれど、ふと思い出したかのように、
「ここでは狭いな。もっと広い場所へ移動するとしようか」
口の中で何かぼそぼそと唱えた途端、周りの空間が歪み、次の瞬間にはどこともわからない広い荒野に立っていた。
どこまでも広がる荒れ果てた大地。
「ここは…?」
「人の住めぬ不毛の大地。作物も育たん。住んでいるのは魔物だけだ」
「魔物…」
「そうだ。この国はこんな土地ばかりだ。周りの国は豊かなのに不公平だろう?」
「周りの国?じゃあここはオラン帝国なの?」
「…。少し喋り過ぎたようだな。まあいい。お前には死んでもらうことになっているからな」
えっ!?
「なんで私が死ぬことになってるの!?」
驚く私に、イヴァンが呆れたように言った。
『契約主がいなくなれば契約は解除される。当たり前だろう。従魔は一人の主としか契約できぬのだからな』
なるほど。
言われてみればその通りね。
私が死ねばイヴァンは自由…。
「ちょっと待って!イヴァンを従魔にしたいがために私を殺すなんてあんまりじゃない!?あなた、それでも人間なの!?ひどいわっ!」
焦って言った私の言葉に、バルバドはフッと悲しそうに笑って、
「俺はもう人間であることをやめた。本能のままに生きる魔物と同じだ」
そう言ったバルバドの顔が、胸が痛くなるくらい悲しく見えた。
何かあったのかしら。
人間をやめたくなるような何か。
そんなことを考えていた私の耳に、聞きたくない言葉が聞こえてきた。
「出でよっ!イビルブラッドサッカー!!」
それってまさか…。
突然私の立っていたすぐ近くの地面が揺れ、もう二度とお目にかかりたくなかった大きな黒いなまこもどきが出現した。
しかも一体ではないらしい。
目の前に広がる黒いヌメヌメに私はフリーズした。
「シロっ、飛べっ!イヴァンっ、ヴォルカンっ、行くぞっ!」
聞き慣れたアレスさんの声にホッとしたのも束の間、パリンっと何かが割れるような感覚と同時に、いつの間にか私のすぐ近くに移動してきたバルバドに腕を掴まれていた。
不気味に笑うバルバドの顔が目の前にあり、心臓を鷲掴みにされたような恐怖に支配された。
何か言おうと口を開くも言葉が出ない。
「お前はこっちだ」
バルバドは私を掴む腕に力を入れ、聞き取れないほどの小さな声で何かを唱えた。
その時、バルバドの後方にマルクルさんたちが転移してくるのが見えた。
安堵するよりも早く、突然周りの景色が歪み、気がつけばまたしても知らない場所に立っていた。
木々が鬱蒼と茂り、太陽の光もあまり届かない薄暗い森の中だった。
目の前には闇より深い真っ暗な洞窟が口を開けている。
心なしか気温も冷たく感じる。
バルバドと一緒に転移したらしい。
転移する直前、アレスさんとイヴァン、ヴォルの、私を呼ぶ声が聞こえたけれど、たぶん目の前のなまこもどきの相手をしていて、私を助けられなかったのだろう。
小さな声で名前を呼んでみるも誰の返事もなかった。
いつも一緒だったイヴァンの声すらも。
本当に一人だ。
そう思ったら急に怖くなった私は、大声でみんなの名前を呼んだ。
「イヴァンっ。アレスさんっ。ヴォルっ。シロっ」
なんの反応も返ってこない。
その事実に私の体はガタガタと震えだした。
「どうした?さっきまでの威勢はどこへ行った?シルバーウルフがいないと何もできぬただの子供だな。心配するな。お前がいなくなった後、シルバーウルフは俺がしっかり可愛がってやる。それにお前の膨大な魔力。さすがに俺一人の魔力では従魔たちに十分な魔力を分け与えられなかったが、お前を喰わせればあいつらも満足だろう。さあ歩け」
光の届かない真っ暗な洞窟の中でもニヤッと笑うバルバドの不気味な顔が見て取れて、より一層恐怖心を搔き立てられた。
だから私は気がつかなかった。
いつの間にか私の手首に見覚えのあるアレが巻かれたことに。
洞窟の奥からは地の底から響いてくるような何かの鳴き声のようなものや血生臭い匂いが感じ取れ、頼れる人が誰もいないという事実がじわりと体中に広がり、恐怖心が増していく。
怖いっ。
でもイヴァンの結界があるから大丈夫。
誰にも破れない結界が…ってあれ?
さっき、私、バルバドに腕を掴まれたよね?
今も目の前にいるよね?
どうして?
私に悪意がある人は近づけないんじゃ…。
「気がついたか?教えてやろう。どうして俺がお前に近づけたのか」
バルバドは懐から黒くて細い枝のようなものを取り出した。
目の前に突き付けられたそれは枝ではなく、先が尖っていて、むしろ大きな針のようだった。
「滅裂針だ」
「めつれつしん?」
「あぁ。唯一シルバーウルフが張るような強固な結界を破ることができる魔道具だが、知らぬのも無理はない。これは秘匿されていてあまり世に知られていないからな。モォールパインという魔物を知っているか?モォールパインは身を守るため、体中の体毛が針のように鋭く尖っている。敵に向かって針のような体毛を飛ばして攻撃するが、そもそも魔物にしてはたいして強くもなく臆病で、普段は地中深くに潜って出てくることはない。だがまれに、新月の夜地上に出てくることがある。モォールパインが人間を喰らうためだ。もっとも喰らうのは人間の肉ではなく血だがな」
「血?」
「そうだ。モォールパインは人間の血を好む。だからモォールパインが腹を空かせて出てくるのを待つほど暇じゃない俺はモォールパインが潜んでいそうな場所に血を流し続けた」
「血を流し続けたってどういう…」
「言葉通りだ。近くの村を襲って村の人間を皆殺しにした。いくつかの村を全滅させても出て来ず、ハズしたかと別の場所を探そうと立ち去りかけたとき、奴は現れた。土の中から這い出し、滴り落ちる血を啜ろうとした奴の首を刎ねた。毒針でもある奴の体毛を飛ばされても厄介だからな。それにこの針は奴の体毛ではなく、ホーンラビットのように額から生えている角だ。その角に俺の一族に伝わる秘術を施した。こうやって俺は滅裂針を手に入れた。これさえあれば、お前に近づける。そして殺すことも可能だ。お前さえいなければシルバーウルフを俺のものにできる」
「その滅裂針を手に入れるために、イヴァンを手に入れるためだけに、村の人たちを殺したの?小さな子供も村にはいたでしょう?子供たちまで?」
「そうだ。一人残らず殺した」
なんて酷いことを…。
私はバルバドの言葉を聞いて、吐き気を催すほど気分が悪くなった。
そんなもののためにたくさんの人の命を奪うなんて。
そういえばさっきドムス市長がバルバドが魔物に襲わせて全滅した村があるって言ってたけど、まさか…。
バルバドに対してだんだんと怒りが湧いてきた。
「どうしてそんなヒドいことができるのっ!イヴァンを手に入れるために村の人たちを皆殺しにするなんてっ。あなた、それでも人間なのっ!同じ人間として絶対に許せないっ」
私の怒りを乗せた言葉に少し考え込むような素振りを一瞬見せたかと思うと、何の感情もこもらない声音で、まるで自分に言い聞かせるかのようにバルバドは言った。
「さっきも言っただろう。俺はもう人間ではない。あのとき人間であることを辞めた。魔物として生きることを選んだんだ」
私にはわからない、バルバドだけが知っている決意のようなものが一瞬バルバドの顔に浮かんだように見えた。
「だいたい、何のためにイヴァンが欲しいの?結界を張るくらいしか役に立たないわよ?確かに強いけど、大食らいだし、わがままだし、自分勝手だし」
イヴァンが聞いたら怒りそうな言葉を並べる私を、バルバドが嘲笑うような眼で見た。
「ふんっ。シルバーウルフの価値もわからぬ小娘が。結界を張る能力がどれほど役に立つことか。やはりお前にはシルバーウルフはもったいない。俺なら思う存分役立たせてみせるぞ」
薄ら笑いを浮かべるバルバドに何か底知れぬ不気味さを感じ、不安に駆られた私はその不安をそのまま口にした。
「イヴァンをどうする気?イヴァンに何をさせるつもりなの?」
「シルバーウルフはもちろん戦いにおいても強いが、最大の特徴はその強固な結界だ。最も滅裂針という弱点はあるが大した問題ではない。滅裂針の存在を知らない者が多いからな。俺は俺の大事なものを結界の中で守りたい。そうすれば結界の外で何が起ころうとも中のものが害されることはないからな」
「あなたの守りたいものって何?大事な誰か?大事なものを守る結界の外で何をしようとしているの?」
バルバドは私の質問には何一つ答えず、「少し喋り過ぎた」と言って背を向けた。
その背中には並々ならぬ覚悟と、少しの悲しみのようなものが見えた気がした。
その悲しみが何なのか、私は気になって仕方がなかった。