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『マルキオンズ』に続く

まえがき ゼア・イズ・ア・ライト

         ネヴァー・ゴーズ・アウト


  コリン・ウィルソンは「アウトサイダー」という概念を発明した。日本語訳本の裏表紙の紹介文には「自己を自らの意志で社会の外側へ置く人間」と説明されているこの概念は、初見の人々には社会学的な用語と見られることもあるかもしれない。

 だが、彼の著作を手に取って数ページ読み進めるだけで、この概念は極めて個人的かつ実存主義的な事柄を扱うために開発されたものだということがわかる。家も持たぬ二十代そこそこのイギリスの青年が開発したこの概念は、彼を一躍文壇の寵児へとなしえた。だが不幸なことに、その概念を彼と同じくらいの強度の熱意で引き継ごうという人間はついに、彼の生前には誕生しなかった。

 引き継がれぬものが辿る道は忘却である。開発者が死んだ今、さらにこの向きは加速しつつある。だが、この「アウトサイダー」は朽ち果てさせるには惜しい概念である。より正確に言うと、彼が「アウトサイダー」を通して描いた一連の思想からはまだ搾り取れるものがある。

 私は彼がその概念と同じ名を冠した評論「アウトサイダー」で成し得た比較と分析を私の立場においてもう一度やり直し、埋もれつつあるその功績を掘り起こすつもりでいる。また同時に、彼一人では力不足であった「アウトサイダー」概念の完成をも目論んでいることを宣言しておこう。彼の思想にはなんらかの失敗も存在することは明白である。それは私にこのような評論を書かせた衝動からも明らかであり、そしてなによりも彼自身の言葉がそれを裏付けているからだ。しかし、そのことに関して彼にはもちろん責任はない。なぜなら同じく彼自身のその言葉が語るとおり、初めて「アウトサイダー」という名を与えることによってこの問題をしっかと捉えた開発者一人で太刀打ちするには、やはりこの問題は大きすぎたからだ。この事実はもちろん私自身へも帰ってくるかもしれぬが、彼の言うその言葉を今一度ここに記載して、私もまずは刀を振るってみることとしよう。

 「これまでアウトサイダーの問題へ立ち向かって勝利した人間はいない。すべての人間は敗北者なのだ」

第一部 ザ・タイムズ・ゼイアー・チェンジン


 コリン・ウィルソンの作品「アウトサイダー」では、架空実在を問わず数多くの人物が登場する。彼はその作品内で次々とその登場人物たちを論じ、誰ならば彼の言う「アウトサイダーの問題」を解決しうるかということを問うていくのだが、最終的によくわからない「意識の内部での実践、幸福感を感じる(彼は『ヴィジョンを観る』と表現している)修行」を提示して逃げ終わる。後の作品で彼はさらに、様々な科学やオカルトの範囲を網羅してこの「修行」へ彼独自のオプティミズムな味付けをしながら考察していくのだが、後を追ってゆくのはますます億劫になると言わざるを得ない。彼が作中にドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」次兄イワン・カラマーゾフを登場させる部分で、彼は「子供に強い忍耐を要求する」やり方は「アウトサイダーの問題」を解決するにおいて間違っていると書いておきながら、彼の「修行」はまさしく修行ということにつきものの強い忍耐を要求しているのである。

 彼の思想の構築過程のどこに失敗があったのか。そのことを判定するには、まずは彼の踏破した行程を再度辿ってみるほかはあるまい。だがここではっきりさせておかねばならぬが、彼の失敗の発生点を発見するだけなら、先の文へ記した通り解決は「修行」にあるのではないと指摘するだけで十分である。私が彼の道を辿る真の意義はそうではなく、彼は中途までは失敗してはいなかったということにある。私が最終的に逢着したいのは「アウトサイダーの問題」の解決であり、彼の行程を中途まで辿ることは近道になるのみならず、私を彼の陥った「修行」以外の失敗からも救うかもしれぬからである。


ウィルソンの道を歩み始めるにあたって、記念すべき初登場はやはり彼の著作と同じくあの人物に飾っていただこう。フランスの作家アンリ・バルビュス作「地獄」より、その主人公の青年である。

 「地獄」のプロットは至極簡単なものである。田舎からパリへ出てきた主人公の青年が借りた宿の隣室との隔壁の上方には覗き穴が空いており、そこから彼は隣室の情景を眺めるというものだ。

 同じような状況のあるドラマや漫画が連想されそうだが、それらに付随の主人公の内部の様々な葛藤や、或いは主人公の隣室状況への劇的な参加などはまずない。彼は去来する場面を眺めてはそれに欲望を刺激されながらも、ただその体験を浪費するだけである。これはさながら、覗き穴をパソコンかスマートフォンに置き換えてみれば現代人が如しと言えなくもない。

 ただ、彼はある決定的な部分において作中の時代の大衆及び現代の大衆とは異なる。それこそが彼を始原的な「アウトサイダー」たらしめ、かつ「アウトサイダー」の基本条件をウィルソンへ提示させる。それは「すべての女を欲する」「自らは何ものにも値しない。だが、なお救いを欲する」「あまりにも深く、遠くを見通す」という彼の言葉であり、それらを本人へ自覚させるに至った彼自身の欲求である。まず「アウトサイダー」とは欲求へ誰よりも正直な人間であり、かつ正直が故に、その欲求へ突き動かされはしながらも満たされぬそれをなんとか満たそうと苦闘する人間なのだ。そしてその苦闘こそが「アウトサイダーの問題」である。

 現代の日本で生きる私はふと、この「アウトサイダー」の欲求の強さからある人物を連想する。漫画「デスノート」の主人公、夜神月である。名を書き込むと死に至るデスノートを使い、この世の「すべての犯罪者を裁く」という彼の意志には、なるほど確かに「すべての女を」と通ずる欲求があるかに見える。だが彼は「アウトサイダー」ではないことは明白である。作中初期のノートを手にするまでの段階で、その事実は判明している。彼はノートを手にするまで「すべての犯罪者を裁く」ために「深く、遠くを見通」してはいない。学生生活に退屈しきっているとはいえ、バルビュスの主人公のように「何ものにも値しない」とまで透徹してはいない。彼はノートによって自らに可能な殺戮範囲が拡大したために、そうしただけなのである。

 「地獄」の主人公にはそれはない。明らかに「すべての女を」手にできなくとも、彼は「欲する」のである。この点において夜神月は「アウトサイダー」ではないし、また現実の大衆もそうなのだ。彼らは自らができないと思った欲求へ突き動かされはしない。自らが「救い」を求めるに「値しない」ならば、すぐさま踵を翻し人生へ折り合いをつけ「深く、遠くを見通す」ことなどは決してないのである。


 さて、こうして記念すべきトップバッター「地獄」の主人公を概観したことによってウィルソンの「アウトサイダー」概念の骨子となる部分を再定義することができた。ウィルソンはここから処女作「アウトサイダー」前半でウェルズ、キルケゴール、サルトル、カミュ、ヘッセ、ヘミングウェイ、ゴッホ、ニジンスキー、アラビアのロレンスを、後半でニーチェ、ドストエフスキー、ウィリアム・ブレイク、ジョージ・フォックス、ラーマクリシュナ、グルジエフといった豪華絢爛たるメンバーをそれぞれの著作内の登場人物や本人を通して論じるのだが、その道程を律儀に踏破する必要はない。私が行いたいのはウィルソンの道を中途まで近道として利用することであって、彼の一歩一歩を証明することではない。

 とはいえ、まだ代表的な何名かは登場していただく必要がある。ウェルズはバルビュスをさらに肯定するだけであるので省略する。次はキルケゴールとカミュの「実存主義」のお二人へ登場してもらおう。キルケゴールとカミュは狭義では実存主義ではないであろうが、そのことがサルトルを敢えて省く理由でもある。サルトルは「実存主義」という宗教を構築したに過ぎず、その結論はキルケゴールと同じである。というよりそもそも彼ら三人もほぼバルビュスを肯定するだけであり、強いて登場させるならばカミュだけで十分に事足りるのだが、彼らの誰も登場させないというのはやや彼らの偉大さと比較すると近道が過ぎるだろうし、と言ってカミュだけというのも物足りないというものだ。


 セーレン・オービエ・キルケゴールは「死に至る病」で有名な、一般には実存主義の創始者と評価されている人物である。彼は絶望を起点とし自らの哲学を創始したが、実存主義と言うにはあまりにプラトン的な人物である。彼はプラトンへの絶望(彼自身の立場から述べるならばキリストへの絶望)から「アウトサイダーの問題」をバルビュスよりも一歩進めた。それはバルビュスの始原的「アウトサイダー」の「自らは何ものにも値しない。だが、なお救いを欲する」からの一歩であった。

 「アウトサイダー」は「あまりにも深く、遠くを見通す」がために「自らは何ものにも値しない」へ到達する。それでも彼がまだ「アウトサイダー」である理由は彼が「だが、なお」という姿勢を続けるからなのだが、それは決して彼がなんらかの知的な問題を患っているからではない。まして、諦めない勇気や折れない根性といった高尚なものをお持ちでおられるからでもない。繰り返しになるが、彼は自らの強すぎる欲求から「だが、なお」と述べざるを得ないのである。しかし彼はやはり「見通す」ために、やけっぱちや投げやりほどの力すら発揮できない。ここに「アウトサイダー」の悲劇がある。理性は欲求が不可能であると述べ、欲求は理性の意見を否定する。だが、欲求も理性の助けなしでは目的が達成されないことを知っているし、理性も欲求が無ければ虚しいことを知っているのである。ここで燻っているのが始原的「アウトサイダー」であり、諦めるのが「インサイダー」である。

 そしてここから一歩を進めるのがプラトン的、より一般的な言葉を使うならば実存主義的「アウトサイダー」であると言えよう。始原的「アウトサイダー」は自らの欲求が燻りでは済まされぬ時、さらに燃料を投下して篝火を焚く。もちろんそれは彼らを取り巻く様々な現実環境の変化が引き金となる場合もあり、キルケゴールもそんな一人である。具体的にどのようなことが彼を襲ったのかは数多くの彼の研究者が調査結果を残しているので省略するとして、ともかくキルケゴールは火へと薪をくべた。吐き出したくなる意見しか述べぬ理性を無理矢理にでも欲求へと従わせ、可能性の全地平をもう一度洗いざらい検討するよう要請したのだ。

 このようなことが何を引き起こすかは明白である。理性が絶えず述べていた意見「欲求が不可能である」が可能性の全地平に展開していることを今度こそ、彼はまざまざと思い知らされるのである。そしてこれは今まで聞き流してきたそれとは違い、彼にとって決定的な告知となる。キルケゴールが言う「死に至る病」は、この告知に他ならない。

 さて、可能性の全地平が否定された彼はここからどうするか。可能性へ依存しない方法を選択するのである。つまりそれは絶対ということ、絶対の概念を選択するということである。

 キルケゴールが実存主義的「アウトサイダー」として到達したのはこれである。そして彼にとって絶対の概念とは、神でありキリスト教であった。


 キルケゴールは可能性へ依存しない方法としてキリスト教を採用したわけであるが、もう一人の実存主義者であるカミュはどうであろうか。アルベール・カミュ、ノーベル文学賞を受賞した彼の「アウトサイダー」への一番の貢献はやはり「異邦人」に他ならない。

 小説「異邦人」は、アルジェリアに暮らす主人公ムルソーがふとしたことでアラブ人を射殺してしまい、その罪で死刑となるというのがそのストーリーである。ムルソーは一見して「アウトサイダー」ではないかの如く見える。彼を突き動かす欲求は存在しないかに思えるからである。だが、彼は彼が主人公を任ぜられているそれの名に恥じぬ「アウトサイダー」である。彼には欲求が存在しないのではなく、むしろ欲求そのままに生きているのである。

 ムルソーは終始淡々としている。彼はアラブ人射殺についての裁判にて、自らの母が死んだ時ですら涙を流さなかったことを中心に、如何に彼自身が冷酷な人間であるかを語られてしまう。その上、殺人の動機はと聞かれれば彼は「太陽が眩しかったから」と述べるのである。この、一般人の感覚からすると異常と思われる彼の心の動きにこそ、かの「アウトサイダー」特有の欲求が隠されている。欲求は満たされていない時ほど強く意識されるが、その欲求のままに動作させられている時はさほど意識されないものである。ムルソーは欲求がそのような心の動きをすることこそにあるので、欲求が存在しないかの如く見えるのである。

 さて、こうして彼が「アウトサイダー」であることが判明したところで、彼がどう「アウトサイダーの問題」へ資するかを検討していくとしよう。彼が資するのは小説の終盤で彼が「私は幸福だったし、幸福だ」と悟る部分である。彼は懺悔を促す司祭へ思いの丈を語った後にそう悟るわけだが、これはキルケゴールに起こったことと等しい現象なのである。つまり、ムルソーも可能性が現実によって否定されたことによって幸福という絶対を選択したのだ。

 彼について語られるべきことは、これで十分である。キルケゴールを考察したために、カミュのムルソーについては簡潔に終わらせることができる。キルケゴールの「キリスト教」を選択することとムルソーの「幸福」を選択することは完璧に一致するからだ。だがここで「キルケゴールの選択はわかるが、ムルソーの選択は?」と思われる方もあるかもしれない。残念ながら、それは筋違いである。もしそう思われているならば、キルケゴールの選択についてもあなたが思われているレベルの選択ではないと断言しなければならない。ムルソーの選択のレベルでキルケゴールは選択を行っているのであり、故に彼は自らの著作において口酸っぱく「単独者」などと述べているのである。別の言い方をすれば、実存主義的「アウトサイダー」の選択はサルトルの「実存主義」教の選択ではないということである。彼らの選択というものがどういうものかということは「アウトサイダーの問題」とは違う話題なので、次の一言でもって「アウトサイダー」へは十分だろうと判断して終わりとしよう。キルケゴールとムルソーの選択のレベルは一般の理性的なものではなく、西田幾多郎の展開した思想の範疇のものである。


 幸福とキリスト教。二人の実存主義的「アウトサイダー」は選択することによって可能性の大海原を彷徨うことに終止符を打った。このことは始原的「アウトサイダー」が燻り続けることを終え「アウトサイダーの問題」の解決へ進んだ時、さらにどのような問題が生じそしてそれを解決しうるかを示している。よって実存主義的「アウトサイダー」は始原的「アウトサイダー」よりも「アウトサイダーの問題」を扱うにあたって上のステージへ到達したと言える。だが、元々の「問題」の解決は?

 残念ながら、それを成し得たとは言い難い。確かに彼らは「アウトサイダーの問題」を解決するために、その途上で生じた問題を解決しはした。だが「幸福を選択したまえ」とか「キリスト教を選択したまえ」というのは、ウィルソンの「修行を選択したまえ」と何も違わない。彼らはまだ、人類にとっては大きな一歩だが「アウトサイダー」にとっては小さな一歩を踏みだしたにすぎないのである。


 ヘッセ、ヘミングウェイはもう必要ない。次はゴッホ、ニジンスキー、アラビアのロレンスを墓から掘り起こす必要があるが、ニジンスキーを除く二名は身元確認だけで十分である。ウィルソンは彼らをそれぞれ「アウトサイダーの問題」への立ち向かい方として感覚、肉体、理性へ位置づけるのだが、まあこの位置づけは三位一体程度の問題であってさほど重要ではない。重要なのは彼らが行動的「アウトサイダー」である点なのだ。


 ヴァーツラフ・フォミッチ・ニジンスキーはロシアの伝説的バレエダンサーである。彼は「神との結婚」後、1919年から没する1950年までの間は様々な精神病院へ送られるなど神経衰弱へ陥っていたが、それが深刻化するまでに「手記」を書いた。

 彼の「手記」の内容も錯乱を免れてはいないが「アウトサイダー」ならばアブドゥル・アルハザードの著作を読み解くよろしく意味を拾っていくことは不可能ではない。ニジンスキーの「手記」は神と性の雰囲気が漂っている。雰囲気と内容を咀嚼すると次のことが判明する。

 まず、彼はバルビュスの「欲求」とは違う性の「アウトサイダー」である。近いものがあることは確かだが、少なくとも彼は始原的「アウトサイダー」特有の燻りへと落ち込んではいない。燻りへ落ち込むのは「欲求」の手綱を握ろうとしないからであって、彼がそうでないということは何らかの方法でそれを回避しているということになる。もちろん燻り自体もある一つの回避法ではあるが、その方法が通用しなくなる時がいずれ突きつけられることはもう実存主義的「アウトサイダー」の部分で体験した。そしてその実存主義的「アウトサイダー」の回避法は選択、西田幾多郎的選択であった。

 ニジンスキーは始原的「アウトサイダー」であっただろうか? 当然ながら「アウトサイダー」は始原的「アウトサイダー」として、始まる。ニジンスキーも例外ではない。しかし彼は始原的「アウトサイダー」の言うなればゴールである燻りへは到達していない。よって実存主義的「アウトサイダー」となってもいない。実存主義的「アウトサイダー」は燻りの暴走からスタートするからである。

 どうやら答えは彼が始原的「アウトサイダー」となって、燻りへ到達するまでにありそうである。通常、始原的「アウトサイダー」にはその期間中に何が起こるであろうか。欲求の理性との遭遇とその関係の発展である。彼の「手記」へ戻ってみると彼は「考えない」と明記している。私は「考えない」哲学者である、と。以上から察するに、彼は理性と遭遇しなかったのである。

 「アウトサイダー」として理性と遭遇しないというのはいかがなものか、という声があるかもしれない。だが、彼が「アウトサイダー」であるのは明らかであり逆に言えば、物事を「見通す」のは理性でなくとも可能である、ということでもある。そもそも事象が精神内のことであるから理性が現れがちであるが、再考すれば「見通す」というのは「見」であって五感的なものである。

 彼、ニジンスキーが理性と遭遇しなかった新種の「アウトサイダー」であることがこうして判明した。それは彼の特質が故であり、その特質はコリン・ウィルソンならば肉体であると述べるであろうし、カミュが「幸福」を、キルケゴールが「キリスト教」を選択したという個人間の違いのレベルに過ぎぬので特筆はしない。彼は理性ではなく五感的なものでもって「見通す」ことを可能とした。では、何を「見通」したのか。

 それも彼は「手記」で述べている。私は「神」である、というのがそれである。これはある意味でカミュ「幸福」でありキルケゴール「キリスト教」であって西田幾多郎的選択である。あるいは方法が五感的なものである以上、より彼の方法の方が西田的であると言えるかもしれない。それでも彼が実存主義的「アウトサイダー」でないのは彼が頭脳内部で物事をどうこうしようとはしなかった、行動でどうこうしようとしたからである。ここで言う行動とは文字通り「行き動く」である。他をどうこうする行動ではない。

 彼は行動的「アウトサイダー」である。ゴッホとロレンスもそうであった。が、ゴッホはそれを暴走させロレンスはそれへ堕した。ただそれだけのことである。行動的「アウトサイダー」は五感を用いる。もちろん他の「アウトサイダー」とて最初はそうであるが、始原的あるいは実存主義的「アウトサイダー」は五感から理性へ権力の座を変更する。理性は五感ほどチューニングを必要とせぬと思われがちだからである。ゴッホ、ロレンスはチューニングをしくじったのだ。

 ニジンスキーは二人に比べチューニングを正しく行った。では彼は最終「アウトサイダーの問題」を解決しただろうか。否、彼は発狂した。何故か。

 そもそも「アウトサイダー」が理性を用いるのはチューニングが難しく思われるからである。確かなチューニングを行う方法として彼らは理性を用いる。実存主義的「アウトサイダー」は理性でも確かなチューニングは不可能であると発見後あえて一つの帯域を選択するわけだが、行動的「アウトサイダー」は最初から五感でチューニングを行う。一見正しく思えるその行動はしかし、一つの例えで間違っていると確認できる。彼ら「アウトサイダー」がチューニングを行っているラジオは絶え間なく移動する車中のラジオなのである。

 理性を用いずただ聞こえがいいからと特定の方向へ車を向ければ事故を起こすのは当然である。もちろん聞こえがいいというのは電波の通りがいいということで障害物に当たらない可能性はある。ニジンスキーはこれが上手かったのであり、そういう意味ではいちいち理性で考えるよりも近道を行くことはできる。だがそれだけで走り続けるのはまた一つの問題をもたらす。障害物さえ避けれぬ運転手がガソリンの残を気にするだろうか?

 以上はチープな例えであるがニジンスキーはこうしてガス欠を起こした。ゴッホ、ロレンスのような事故を起こさなかっただけましであるが、もう動くことはない。やはり理性は必要なのである。少なくとも実存主義的「アウトサイダー」はまだ動けるのだ。

 だが、彼らの挑戦と近道は決して無駄ではない。むしろ実存主義的「アウトサイダー」と行動的「アウトサイダー」は互いを補完する関係にある。あるいは行動的「アウトサイダー」の方が「問題」を解決するかもしれない、ただそれがギャンブルであるというだけの話ではあるが。


 以上で、ウィルソンの「アウトサイダー」前半は終了する。始原的「アウトサイダー」から始まった旅は今、実存主義的「アウトサイダー」と行動的「アウトサイダー」へと到達した。もしもこの二つを超える「アウトサイダー」がいるとすれば、それはどちらの性質も保有している「アウトサイダー」である。そのような稀有な人物として登場する次なる人物は「ハンマーを使う哲学者」フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェが相応しい。


 ニーチェはもはや説明するまでもない相手である。彼が先の二つの性質のどちらも有しているということも、いちいち確認する必要はないだろう。ただ、あえて彼がどちらの性質へ傾いていたかを述べるとすればそれは当然ながら実存主義的の向きである。しかもムルソーとキルケゴールのどちらでもある。彼は、キルケゴールが独自の「キリスト教」としか述べられずムルソーが個人的かつ抽象的に「幸福」としか表現できなかったものを、感覚はそのままに新たな教えとして創造した。

 ニーチェが偉大な「アウトサイダー」である点はここにある。実存主義的「アウトサイダー」は理性へ重きを置くため、感覚を生き生きと自らのものとして得ることができぬか自らからすれば他のものでもって表現する。行動的「アウトサイダー」は感覚を生き生きと自らのものとして得ることができるが表現が不得手である。ニーチェはどちらでもあるので、それらの克服が可能であったのだ。

 しかしながら、彼が教えてくれるのは教え自体ではない。彼は「アウトサイダー」は教えを創造することができる、せねばならぬ。それが「アウトサイダーの問題」へのさらなる立ち向かい方である。と、創造的「アウトサイダー」の道を示してはくれる。だが、彼の教え自体はあくまで彼のもの、キルケゴールの「キリスト教」と同じである。彼がそれを採用しないことによって克服したように、彼の教えを採用することによって「アウトサイダーの問題」を云々することはできないのである。


 ニーチェが教えてくれるのは簡潔に以上である。創造的「アウトサイダー」たれというのがその骨子だが、ではそれがどう「アウトサイダーの問題」を解決してくれるというのか? 創造するべき教えとは? 実存主義的「アウトサイダー」の理性と行動的「アウトサイダー」の五感を使わなければならないのは判明している。かつ既存のものであってはならないことが明らかとなった。必要なのは何が必要かということ、どのような要素と配置、連結が構成されねばならないかということである。さて、次の登場人物は?


 フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー。彼の「カラマーゾフの兄弟」において登場する三人の兄弟ミーチャ、イワン、アリョーシャはウィルソンに言わせると先の行動的「アウトサイダー」の部分で述べた肉体、理性、感覚へ該当するとのことだ。つまりニジンスキー、ロレンス、ゴッホということになるが、やはり重要なのはニジンスキー、長兄ミーチャ・カラマーゾフである。彼は見事な始原、ムルソー型実存主義、行動的「アウトサイダー」の系譜をなぞる。キルケゴール型実存主義はイワンとアリョーシャの独壇場であるが、そういう意味でもニーチェの言う創造的「アウトサイダー」へ近いのはミーチャである。

 「アウトサイダーの問題」の解決にとって、必要なのは教えを創造すること、その要素と配置、連結を確定することが次の課題である。が、忘れてはならぬのはそれらはあくまでも次の課題、通過点であるということだ。最も求めるべきはやはり「アウトサイダーの問題」の解決である。ならばここで、大胆な飛躍を行うことができる。教えを構築するとしても、それは構築者のものであり続けることはもう述べた。つまり、結局は教えの構築自体も「アウトサイダーの問題」の解決法としてはウィルソンの次元へ留まる。とすれば、何を教えの構築の先に「アウトサイダーの問題」の解決法として見ることが可能なのか。それは教えが持つ教義をおいて他にない。教えを構築する必要はなくなった。教義をつかみ取れば問題は先へ進む。近道を行くことが可能となったわけである。

 ドストエフスキーにあっても近道を行くことが可能であることがわかったので、話をカラマーゾフの兄弟へと戻そう。私が述べたいのは、ミーチャ・カラマーゾフは偶発的「アウトサイダー」であるということである。彼は父親殺しの容疑で裁判へかけられ疲弊するのだが、そんな折、ふとしたうたた寝で夢を見る。彼は夢で道を行っており、不幸を被った人々を見る。彼は心へ疑問を浮かべ、やがて彼の道は幸福へと続く。起きて彼は、すっかり晴れた気分となる。

 彼は結局は父親を殺してはおらず、しかし有罪となって流刑へ処されるのだが、重要なのは彼が晴れた気分の後は流罪であってもよくなったという点である。一連の事件は偶発的なものであり、だからこそ彼は偶発的「アウトサイダー」という新たな種類へ属するのだが、最も大きな点は偶発的「アウトサイダー」が偶発的遭遇をする偶発的事象は始原的「アウトサイダー」が五感から求める事象の延長線の到達点である、ということなのだ。

 結論は、偶発的「アウトサイダー」がどうであるということではない。偶発的「アウトサイダー」は欲求の到達点を示す、ということである。かの「アウトサイダーの問題」は「アウトサイダー」の欲求からのものである。よって、欲求の到達点を示すということは「アウトサイダーの問題」を解決することができる教義を示すということへ他ならない。

 ただ、やはり偶発的である以上それを断定することはできない。偶発的な事柄を用いるというのは、それを待ち続け燻る始原的「アウトサイダー」となんら変わりはしない。またも数々の「アウトサイダー」が陥った罠へ到達するというわけだ。




第二部 アナザーワン

        バイツァ・ダスト


 第一部において「アウトサイダー」の骨子とそのタイプ、及び「アウトサイダー」の問題とその解決法を考察した。彼らはバルビュスの始原的「アウトサイダー」として覚醒しキルケゴールの、ムルソーの実存主義的「アウトサイダー」か、ニジンスキーに代表される行動的「アウトサイダー」へと発展する。だがいずれの道もどちらかだけでは不完全であり、ニーチェがそのどちらをも保有する創造的「アウトサイダー」として「アウトサイダー」の問題の解決には教えが、教えの創造が必要であると説く。だが教えとは? そこへドストエフスキー、ミーチャ・カラマーゾフが現れ近道を示す。最も求めるべきは教えが持つ教義であると。

 以上が第一部の概要であるが、それは同時にウィルソンの道をなぞるということでもあった。ウィルソンも自らの言葉の証明者として、敗北者である。だが、彼は中途までは正しかった。だからこそ彼の道を近道として利用したわけであるが、今ここで、彼の道をなぞることは中止せねばならない。彼はドストエフスキーの次にウィリアム・ブレイクを考察するが、そこから彼の失敗が始まるからである。

 彼の提唱する「修行」は、イワン・カラマーゾフから言わせれば完璧に失敗している。それはキルケゴール、ムルソー、ニーチェの選択と変わらぬ。それはあんたの道であって、僕の道ではない。あんたが道の到達点において手に入れた事物こそが解決法であり、道を進むこと自体は解決法ではないのだ。それをあんたは「然らば道を進め」などとのたまうではないか。とっとと道の到達点の事物である「教義」を渡さなければ、渡せないと言うのならばあんたもどいつもこいつも失敗者だ。というわけである。

 ならば彼の道をこれ以上進むことは不可能である。しかしながら「アウトサイダー」の問題に初めて名を授けることによって、ここまで立ち向かった人間は彼の他にはいない。私を除いては。よって、ようやく私は私の道を歩み始めることができる。

 私の道を歩み始める前に、述べておかねばならないことがある。これまでもそうであったが、私はロラン・バルトの方法を使用する。あくまで「アウトサイダー」の問題は個人的な問題である。自己の内部へ擬似的に他者を偽造することがあっても、最終的な判断の領域において必要なのは個人であるという前提は変わらないからである。

 さて、では旅を始めるとする。まずはソロモン諸島、ガダルカナル島へ赴くとしよう。第二次世界大戦の激戦地、描かれるは、映画「シン・レッド・ライン」である。


 「シン・レッド・ライン」はテレンス・マリック監督のアメリカ映画である。太平洋戦争におけるガダルカナルの戦いを連合国軍の視点から描いた作品だが、明らかに映画自体の視点は戦争には置かれていない。戦争そのものは映画内で、たまたまロケ地がそうでしたよ、というレベルのものなのである。それは映画の撮り方の問題ではなく、あくまでも戦争は背景であるという姿勢の結果である。

 故に、その作品は兵士一人一人を戦争映画においては最高レベルで描写することに成功している。重要な登場人物つまり「アウトサイダー」はウィット二等兵、その上官ウェルシュ曹長、そして彼らをまとめるスタロス大尉の三兵士である。

 映画の序盤、濃い鮮明な緑(それは逆に同じくらい濃く鮮明な赤を思わせるような)が象徴的な自然の風景の中、映画においてとても効果的かつ重要な方法として多用されているヴォイス・オーヴァーとともに、ウィット二等兵が現れる。二元論的な自然観を問うその始まりは映画とウィット二等兵の哲学性を匂わせるものとなっている。ウィットは隊を抜け出して現地の人々と交流をしている。彼は連れ立って抜け出してきた友人に言う。


  母は死ぬ間際、天に召されることは栄光に包まれることだと言った。僕はそうだとは思えなかった。母は黒く萎びて死んでいった。そこには栄光なんてものは見えなかった。


 彼へ言葉を返すものはいないが、しかしながらウィットは栄光を信じている。自分も死ぬ間際にはそれが感じられるだろうか、と彼は考えているのである。母の体験がありながら彼がそう思う理由は、彼が光、別の世界を見たことがあるからである。彼と友人は束の間の平和の後、彼らを追ってきたウェルシュ曹長に捕まる。ショーン・ペン演じるウェルシュ曹長は、彼独特の微笑みを浮かべながらウィット二等兵に言う。


  いい加減現実を見ろ。俺がケツを拭いてやってるから、お前は助かってる。いいか、別の世界なんてものはない。あるのは、ゆっくりと破滅に向かってるこの現実の世界だけだ。


 ウィットは涙を浮かべながら彼に告げる。


  ウィット――でも、僕は見ました。

  ウェルシュ――‥‥俺には見えないがな。


 この台詞は、先のイワン・カラマーゾフの姿勢と変わるところがない。だが、現実を見ていないのはウェルシュも同様である。世界は、残念ながら第二次世界大戦で破滅しはしない。彼がそう述べるのは彼自身も、破滅しつつある世界に匹敵するほどの素晴らしい世界というものを、垣間見たことがあるからに他ならない。だからこそウィットはそれを見抜き、ウェルシュのことを評価して友人に言う。でも、俺はあの人が好きだ。と。

 群像劇が続き、スタロス大尉が登場する。彼は優しい人間であるが、常にその眼差しは憂いを帯びている。これでようやく、三兵士が出揃う。彼らはそれぞれニジンスキー、ロレンス、ゴッホでありミーチャ、イワン、アリョーシャである。

 続いて描写されるのはガダルカナルの自然と原住民であるが、その後の戦場のシーンにおいてもそれらはそのまま描写され続ける。戦争など何処吹く風、と思わせるそれは、この映画の戦場というのはあくまで兵士一人一人の背景に過ぎぬ、ということを重ねて示しているかのようである。

 いよいよ日本軍との戦闘が始まると、スタロス大尉は決断を迫られる。突撃を命じる中佐と迂回して攻撃をするべきという自身の判断とに板挟みにされた結果、彼は部下の命を守るため突撃命令を無視する。後に中佐が後方から前線を訪れた時には状況は好転しており、中佐は再度突撃命令を出すとスタロスを指揮官から外す。

 ウェルシュは戦闘の最中、瀕死の兵士を見つける。銃弾の飛び交う中であるため誰も助けに行けない状況で彼は飛び出す。もう助からない兵士にモルヒネをありったけ渡すことに彼は成功するのだが、その行為を讃えられると彼は激怒する。

 ウィットは同じ壕にいた仲間が手榴弾を投げようとしてミスをし、ピンだけを抜いてしまう姿を目撃する。その仲間は皆を守るため自らの身で手榴弾を覆い、下半身が吹っ飛んでしまう。ウィットは彼へ礼を述べ、その最期を見守る。彼は別の場面で死にかけの鳥を見て思う。


ある人間はその姿を見て現実の悲惨を見るが、ある人間はその姿に栄光を見ることがある。


 数々の戦闘の後、日本軍の飛行場を奪取し戦況が一段落する。スタロスは中佐から国へ帰るよう促され、それを承諾する。前後するまた違う場面では、ウェルシュとウィットが語り合う。まだ別の世界が、光が見えるかと聞くウェルシュに対し、ウィットは時々あれは幻だったのかと思うと答える。だがこうも言う。大尉、あんたは輝いて見える。

 彼らは進軍中、敵のアンブッシュを警戒し斥候の必要に迫られる。ウィットと他二人の兵士がそれに選ばれるが、敵の大軍と遭遇した彼らは攻撃を受ける。ウィットは二人を逃がすために囮を引き受ける。敵を誘導することには成功するのだが、開けた場所へ出た時に敵に包囲される。

 その後のシーンは、この映画の最大の場面である。ウィットは日本軍に囲まれ、その輪の中から一人の兵士が銃を構えてウィットへ近づく。この映画では日本兵には当然ながら日本人が起用されているのだが、彼らが語る日本語には字幕は設けられていない。このことはこの映画を見る英語圏ならびに別言語圏の人間にとっては実際の戦場であるかのように、相手の言語がわからなかった状況というものを体験させるためのものである。よって日本人にはこの映画においての日本語は違う作用をもたらす。その兵士は言う。動くな。お前か、俺の戦友殺したのは。俺はお前を、撃ちたくない。

 ウィットは彼を見つめる。という表現では到底語りえないことは明々白々なためどうか実際のシーンを見ていただきたいのだが、彼を見つめてウィットは、銃を持ち上げ、撃たれる。このシーンにおいては、コリン・ウィルソンが一部のクラシック曲についてそうであると語っているように、感じている人間の時間を遅らす作用が働いている。ウィットと日本軍兵士との間隙のために、ウィットが銃を持ち上げ撃たれるまでの動作は秒に満たないにも関わらず、スローモーションに感じられる。

 ウィットが逃がした兵士の報告で、隊は全滅を回避する。ウィットの埋葬も終わるのだが、その場を皆が去っていった後にウェルシュが一人残り呟く。お前の輝きはどこだ。

 ガダルカナルの戦いも終わり、兵士らは帰路へつくことを許される。その前の場面で、新しくやってきた上官の吐く言葉にうんざりしながらウェルシュは思う。


  何もかも嘘だ。この世は嘘で溢れている。俺たちができることと言えば、自分の箱庭を作ることだけだ。


最後、島を去っていく船とともに流されるヴォイス・オーヴァーと変わらぬ島の風景、生活が描写され映画は終わる。

以上が映画の要点と、三人の「アウトサイダー」である。第一部はコリン・ウィルソンが既に自らの作品で語っている内容の焼き増しに過ぎなかったが、第二部では新たな作品を提示することになるため、作品を概括する必要が生じる。よって文が増えることとなったが、近道を行く姿勢は変わらない。重要なのはやはりウィットである。

第一部で述べたように「アウトサイダー」の問題の解決に必要なのは「教義」であるが残念なことに、コリン・ウィルソンを含むほぼ大半の「アウトサイダー」が到達しているのは今日においても「教え」までである。ドストエフスキーはミーチャ・カラマーゾフを通して「教義」まで到達しはしたが、それが個人を訪れるのは偶発的であるという時点へ留まった。故にイワンの解決法とはならなかったわけである。

だが、この映画でのウィット二等兵はその「教義」を、栄光を垣間見る地点があるかもしれないと考えていた。死の間際がそれである。彼は母の体験、人間の死んでいく現実を見ていながらそう考えている。それは彼がウェルシュ曹長に代表される人々や自然と触れ、光や別の世界と彼が述べるものを見た結果である。鳥の死にも彼はそれらを見出し始める。自爆した兵士の死んでいく中にも、彼はそれを見出そうとする。

それをウェルシュも瀕死の兵士へ見出そうとしているように感じられる。しかし彼はイワンと同じ考え方である。彼はやはり箱庭、つまり「教え」を創造するべきだと感じているのである。スタロス大尉は行動的「アウトサイダー」の感が強い。そういう意味でもやはりウィットの方が上を行っていると言わざるをえない。

なるほど、ウィットの方法は偶発的ではない。死は誰しもを訪れるものであり、子供でさえ例外ではない。ウィットが正しいとすれば、であるが。

第二部の始まりとして、まずウィットの方法を持ってきたのはあくまで保険のためである。これは必ずしも死ぬことを勧めているわけではない。ウィットでさえも死に急いではいなかった、それどころか生を楽しんでいたではないか。重要なのは必ず誰しもが死ぬということと、その生と死の間隙において「アウトサイダー」の問題を解決する「教義」が発見できる可能性がある、ということを示すことにある。


 さて、保険を示し終えたところで戦場を移そう。次の戦場は現代、しかも擬似的に体験できる戦場となる。というのも、次の作品の媒体はゲームだからである。戦闘の方法も大きく変わる。単独潜入、隠密行動がその戦場のルールである。ゲームの名は「メタルギアソリッド」


 「メタルギアソリッド」は「監督」小島秀夫が創始した一連のゲームシリーズであり、タイトルの「メタルギアソリッド」はそのままシリーズの一作目のタイトルとなっている。正確には「メタルギアソリッド」の前に「メタルギア」とその続編「メタルギア2」という作品があるが、ゲームとしての表現の幅が文字通り三次元的にも拡大したのは「ソリッド」からである。

 「メタルギアソリッド」はスピンオフ作品も数多いが、問題としたいのはメインストーリーの作品群である。全体の流れは「メタルギア」と呼ばれる人型の、核を搭載できる兵器を巡る物語であり、それを「スネーク」のコードネームを冠された主人公を通してプレイヤーは体験する。

 第一作「メタルギアソリッド」は「ソリッド」スネークと呼ばれる主人公の物語で、雪の吹きすさぶアメリカはアラスカの孤島、シャドー・モセス島が舞台である。ソリッドは「メタルギア」「メタルギア2」において「ビッグ・ボス」と呼ばれる男のメタルギアを用いた野望を阻止した英雄であるが、その後はアラスカのツイン・レイクスにおいて隠遁生活を送っていた。そんな彼が、またも危機において軍からの協力を要請されるというのが本作の導入部となっている。ソリッドはややニヒルな印象のある男だが、自らへの姿勢は高い基準を設定している。アラスカで隠遁生活を送っていたのも、同地の厳しい気候が彼曰く「心地いい」からである。始原的「アウトサイダー」以外の、つまり燻ることをやめ何らかの精神的な歩みを始めた「アウトサイダー」は自らの生活へある種の高い基準を設けることがある。燻ることをやめ歩み始めるということはつまり目的を見つけたということであって、欲求の高い「アウトサイダー」の目的はもちろん彼自身の生活へ高い基準を求める。故に彼の生活は一般の水準から外れ外的環境的にも彼は「アウトサイダー」となり、その生活態度は自己を統治する厳しいものとなりがちである。

 ソリッドは、軍の協力要請に対しても冷めた態度を取る。彼が協力を了承するのは、彼の元上官である「大佐」ロイ・キャンベルの娘の命もかかっていると聞いてからである。彼はブリーフィングを受け、シャドー・モセスへの潜入を開始する。敵は自分とキャンベルも所属していた過去がある特殊部隊で、金とビッグ・ボスの遺体の引き渡しを米国へ要求しており、もしも要求が受け入れられない場合は核を発射すると通告する。ソリッドは数人の人質の救出と敵の核発射能力の有無を調査しに潜入するわけだが、潜入が進むとともに敵がメタルギアを保有していることが判明する。彼はメタルギアを止めるため数々の障害を越えついに事件の首謀者と相まみえる。

 事件の首謀者は「リキッド」スネークというソリッドと同じコードネームを持つ男で、名だけのみならず遺伝子も同じクローンであることがリキッドの口から語られる。しかもオリジナルはビッグ・ボスであり、彼の率いる特殊部隊の一部もそのビッグ・ボスの遺伝子を導入された兵士であることが判明する。彼らは皆ビッグ・ボスの遺伝子による何らかの遺伝子疾患へ陥っており、その原因解明のため遺体を要求していたのである。彼は続いて、つまり自らは戦いのために作られたクローン兵士で(つまりソリッドも同様だが)しかも自分は失敗作であると語る。ソリッドは成功作であり英雄だが自分はそうではない。だが自分は戦いに充足を得る兵士が満足できる軍事国家「アウターヘブン」を実現し、呪われた運命を克服するつもりである、と。

 ここでリキッドとソリッドの「アウトサイダー」性を論じるべきではあると思うが「メタルギアソリッド」シリーズにはまだ複数の「アウトサイダー」が登場する。最後にパノラマ的にそれを論じるため、もうしばらくシリーズの粗筋を追うことへお付き合いいただきたい。

 第一作「メタルギアソリッド」は二人の蛇の死闘の末、ソリッドの勝利に終わる。続く第二作「メタルギアソリッド2」ではソリッドは前作で仲間となったオタコンとともに対メタルギア組織を結成し、メタルギア廃絶の運動へ身を投じている。彼らは米軍の開発していた新型メタルギアを調査するため輸送中のタンカーへ潜入するのだが、背後で暗躍する謎の部隊によってタンカーは沈没しソリッドも消息を絶つ。そのまま話は2年後、タンカー沈没による海洋汚染を浄化するための施設がテロリストに占拠される場面まで飛ぶ。彼らは合衆国大統領を人質に300億ドルを要求するが、それに対し特殊部隊の新人隊員の「雷電」という男が対処のため前作よろしく施設への潜入を開始する。

 「メタルギアソリッド2」のメインは雷電のストーリーである。彼は潜入の過程で敵の首謀者が「ソリダス」スネークと呼ばれる前合衆国大統領であり三人目のビッグ・ボスのクローンであること、2年前死んだと思われていたソリッドも施設へ潜入していることを知る。より物語が進むにつれて施設自体が巨大なメタルギアであること、一連の事件の裏には「愛国者達」と呼ばれる存在が関わっていることも明らかとなる。

 物語の終盤、メタルギアが暴走しマンハッタン、フェデラル・ホールへ突入する。その屋根の上でソリダスは雷電へ、世界の何もかもを愛国者達が裏から操っており自らのテロ行為は彼らから世界を救うためであったと吐露する。彼の真の目的は、愛国者達を倒すことによって人々の記憶にエクソンとして残ることであった。

 ソリダスは雷電との決着を望み、雷電に対し彼の両親を殺し彼を兵器として育て上げたのは自分だと告げて(雷電自身は記憶操作を受けていた)彼を煽る。決着は雷電の勝利で終わるが茫然自失となる彼に対し、ソリッドが励ましの言葉をかけ物語も終わる。

 「メタルギアソリッド3」では時系列が前後し後の「ビッグ・ボス」である「ネイキッド」スネークが主人公の、冷戦時代の物語となる。メタルギア及び愛国者達の成り立ちが明らかとなる作品であるが、正直言って前2作と違い「アウトサイダー」の問題にはあまり関与しない作品でもある。政治色が強くなったことと、ネイキッドが雷電のようにまだ思想的には新米である上にそれを補うソリダスのようなキャラクターがいないことも理由と言えるかもしれない。自己完結的な人物が多いのである。

 小島秀夫監督作品ではないがメインストーリーの流れを汲む作品として「メタルギアソリッド ポータブル・オプス」が次の作品となる。前作の事件解決後のネイキッドを描いているが、彼自身はまだパッとしない。ストーリーもいつもの武装集団が蜂起、主人公がそれを食い止めるというものであるが、敵の首謀者にはジーンという魅力あるキャラクターが置かれている。彼こそが後の「アウターヘブン」へ繋がる思想をビッグ・ボスへ植え付ける人物である。

 またも時間軸が前後し「メタルギアソリッド4」では「メタルギアソリッド2」の続きにして、愛国者達との決着がそのストーリーの主軸である。個々のキャラクターの行動の結果、終着点が描写されるが「メタルギアソリッド3」と同様、かなり彼ら自身にも自己完結が進んでいる感が否めない。

 残りの作品「メタルギアソリッド ピースウォーカー」では一旦主人公がネイキッド、ビッグ・ボスへ戻った後、続く「メタルギアソリッドV」にて新たな最後のスネーク、5人目のスネークにしてビッグ・ボスの影武者「ヴェノム」スネークが登場する。一作目である「メタルギアソリッド」以降、敵か味方かどちらかにしか現れなかった「アウトサイダー」が「メタルギアソリッドV」においては再び両陣営どちらにも登場するという点でも、その最後を締めくくる作品としては素晴らしい。味方陣営にはもちろん主人公であるヴェノムが、敵陣営には「スカルフェイス」という「アウトサイダー」が存在する。

 「メタルギアソリッド」ではないがメインストーリーの延長線上であるということと、何よりも彼が「アウトサイダー」となり小島監督作品ではないにも関わらず両陣営に「アウトサイダー」が見られるという点において、雷電が主人公である「メタルギアライジング」を省略するわけにはいかない。彼は「メタルギアソリッド4」以降、落ち着いた生活を(とは言え仕事場が戦場であり彼が傭兵であることには変わりがない)送っていたが、アフリカ新興国の首相を警護中にサイボーグ(4以降かなり作中の技術は進んでいる)の集団に襲われる。彼は深手を負い、首相も殺されてしまう。3週間後、雷電は敵へのリベンジのため行動を開始するが、最終的に彼は敵の目的が合衆国大統領暗殺による対テロ戦争の勃発であることを突き止める。その道中、彼は自らが人を殺すことを楽しんでいることを敵に暴露されながらも戦いを継続する。彼は大統領の暗殺を阻止したかに見えたが、多数の米兵が死んだことと敵の演出によって世論は対テロ戦争へと傾く。裏で手を引いていたのはスティーブン・アームストロングという上院議員であり、彼の思想は弱者への頂点からの庇護のない強きもののみが生き残る社会の確立であった。雷電はアームストロングを倒し対テロ戦争を煽る試みも阻止するが、死に際のアームストロングから雷電も結局は強きものであり弱きものである自らを倒したことによって自らの思想を体現している旨を告げられる。

 さて以上がシリーズの概要であり、ようやくここに至って「メタルギアソリッド」シリーズにおける「アウトサイダー」が出揃ったわけである。主人公としてはソリッド、雷電、ヴェノムが、敵としてはリキッド、ソリダス、ジーン、スカルフェイス、アームストロングがそれである。一般的に、文学的でない善悪のはっきりしている大衆向けの作品においては、悪役とされる人物に「アウトサイダー」は多い傾向がある。決して「アウトサイダー」が悪であるというわけではないのだが、度々物語というのは悪役が何らかの、例えば悪事の創始者であって主人公はそれへの善の対応者とされるケースがほとんどである。常に「アウトサイダー」は創始者たり続けるため、その性質から悪役の方が描写されやすいのである。

 まず最初に考察すべき「アウトサイダー」はやはり原点αたる、ソリッド・スネークである。彼はイワン・カラマーゾフ、ウェルシュ曹長の系譜を継ぐ「アウトサイダー」であり、アラスカはツイン・レイクスへ箱庭を構築することに成功した。もちろん彼はそこから引き離されこうして旅は始まるわけだが、彼はその背景において既に問題の途中点を踏破していたと言える。それは箱庭の構築、つまり「アウターヘブン」の構築は「アウトサイダー」の問題の解決にはなりえないということである。

 リキッド・スネークはまだそのことには気づいていない。だが、彼のソリッド・スネークへの憎悪と「アウターヘブン」への欲求を合わせて鑑みた時、双子であるソリッドが箱庭の構築を完了するまでの背景が重なって見えてくる。やはり、今もって「アウトサイダー」の行動を後押しするのはソリッドであれリキッドであれ、ある種の感情と欲求であるということだ。

双子の蛇を概観することで「アウターヘブン」の構築時とその完了後の世界が判明したわけだが、完了自体は「アウトサイダー」の問題の解決にはなりえないということがその結論であった。では「教義」はどうすれば見つけられるのか。どうやら視野を広げる必要があろう。リキッド以前とソリッド以後の思想を持つ人物を範疇へ収めなければならない。

雷電はリキッド以前の人物である。その思想はリキッドほど統一されていないが、感情の部分はリキッド的なそれだからだ。彼は「ライジング」で自らの持つ殺人欲求を把握する。それは彼のその後の行動を後押しするが、先に述べたようにまだ思想としては統一されていない。故に、欲求としての純度はより強いものである。

ソリッド以後の人物にはソリダス・スネークが該当する。彼は「2」の終盤、自らの思想としてミームのエクソンとしての継承が目的であることを、フェデラルホールの屋上にて宣言する。その思想は「アウターヘブン」後の世界を視野に入れており、ソリッドよりも形を成したそれではあるが、欲求の純度も相対的に理性化することとなる。

雷電、リキッド、ソリッド、ソリダスを並べることはつまり「教義」があるであろう箱庭「アウターヘブン」を中心として、その発見のためにレンズを調節する作業に他ならなかったわけだが、そこからわかることはリキッド、ソリッドという「アウターヘブン」中核にフォーカスしても「教義」の発見は一筋縄ではいかないということ、逆にそのさらに外部である雷電、ソリダスにおいて何らかの意味が感じられるという結果であった。これらの事実は以下の結論を導く。箱庭の構築とその完了自体は間違ってはいない。ただ、そこに「教義」を見出すためにはより純度のある欲求と理性化された思想の合わせ技が必要である。

さて、ようやく「教義」が安置されているであろう箱庭の神殿の入り口まで足を進めたわけであるが、残念ながら、次なる一歩となる人物を考察することで我々はまたしても足止めを食らうことを先に告げておこう。

ジーンは「アウターヘブン」思想の元々の創始者として、合わせ技を持ち合わせていた人物である。だが「教義」の把握に失敗し、結果として箱庭の完成には到達していないのである。これは一体どういうことなのか。

続く彼らも同様である。世界に報復心を拡散することで、あるいは誰もが力を行使する世界を構築することで、それを目指したスカルフェイスもアームストロングも到達はできなかった。

ある一つの形式が、ここには見てとれる。その形式とは、第一部にて考察した実存主義的、行動的、創造的の三種の「アウトサイダー」のそれである。雷電、リキッド、ソリッド、ソリダスは実存主義的と行動的の「アウトサイダー」であり、ジーン、スカルフェイス、アームストロングは創造的「アウトサイダー」に属する。このように繰り返しにはなるが第一部の形式に当てはめてみると、彼らが失敗者であること、そしてその先には何があるかが分かりやすくなる。次に待ち受けるはヴェノム、偶発的「アウトサイダー」に他ならない。

ヴェノム・スネークは唯一、箱庭「アウターヘブン」自体へと到達した人物である。それは彼が偶発的に自らの理想である「ビッグ・ボス」の影武者、ファントムと化すことを通して、到達点で「ビッグ・ボス」自身ともなったからだ。 彼が偶発的「アウトサイダー」であるにも関わらずミーチャ・カラマーゾフ以上の示唆を届けてくれることは、気づかなければならない重要なポイントである。彼は確かにミーチャと同じく、しばらくはファントムを見ていた。重要なのはミーチャ以上にわかりやすく彼が「他者となった」点なのだ。これが「アウターヘブン」に安置されていた聖櫃の中身である。


「アウトサイダー」の次なる問題はどのような「他者」となるかである。残念ながら現実に「ビッグ・ボス」は存在しない。だがあえてここで思い切って現実から離れた考察法を採用することは、必ずしも問題から離れることを意味しない。考察とは元々そのような性質を帯びているものであり、最終的に「アウトサイダー」の諸行動と諸問題、諸目的は本質的に現実と理想の界面に近接しているのだ。

もしも「アウトサイダー」のなるべき「他者」が「傍に立って」現実に「立ち向かう」ものとして具現化すればどうか。それはきっと「アウトサイダー」がなるべき「他者」を提示する「スタンド」であるに違いない。ということは、彼らの奇妙な冒険に同行するしかないだろう。


「ジョジョの奇妙な冒険」は漫画家、荒木飛呂彦の作品である。個人の能力を具現化した像「スタンド」が特徴的なその物語は、部ごとに主人公と時代、舞台となる場は変化するも、正義を象徴するジョースター家と悪を象徴する主としてディオ・ブランドーといった登場人物との因縁を描いている。その芸術性は作者、荒木飛呂彦の性質からさることながら、哲学性を併せ持った作品でもある。

特にその哲学性が雰囲気としても現れ出すのは、イタリアを舞台とした第五部からである。無論それまでの部においても随所に哲学性は垣間見えるし、これまで検討した数々の対象とも同じく「悪」の側には魅力的な「アウトサイダー」が存在する。だが、何度もしつこいようだが問題の解答への近道を私は進んでいることを、今一度申し上げておく。

第五部の「悪」はディアボロと呼ばれるマフィアのボスである。彼は二重人格としてドッピオと呼ばれる別人格を保有している。つまり能力にして「他者」である「スタンド」以前に、自らをもう一つ「他者」として保有しているのである。まさにヴェノムに続いて考察するに相応しいディアボロと言えよう。

彼の「スタンド」は「未来を予知し、未来を吹き飛ばす」能力である。何を言っているかわからないとは思うが要は、自らに不利な未来を無かったことにできる能力なのである。これは彼の「常に絶頂であり続けたい」という欲求に由来する。

問題は彼の能力は短期的な未来しか操作しえない点である。これでは彼の最終的な結果は、簡単に予知できるというものだ。彼は帝王であり続けるために短絡的な行動に堕し、主人公ジョルノ・ジョバァーナに敗北する。

さて次の「アウトサイダー」は、アメリカを舞台とした第六部に登場するプッチ神父である。彼の「スタンド」である「ホワイトスネイク」は「他者」の魂を「スタンド」と記憶のDISCにして取り出し、保存できる能力となっている。これは彼の「人の魂を永遠の幸福=天国へと導く」という欲求の現れに他ならない。

彼は物語の後半、第一部と第三部及び続く第七部においても宿敵であるディオ・ブランドーの友であったことが判明する。ディオ・ブランドーの「天国へ行く」という目的を自らなりに彼は達成しようとする。終盤、彼は自らの「スタンド」を時間を加速させる「メイド・イン・ヘブン」と化せしめることに成功し、時間の無限大の加速における世界の終末の先にある到達点、二巡目の世界へ向かう。天国とはあらゆる生命体が世界を一巡しその記憶を保持したまま二巡目以降の世界を生き抜くことであり、幸不幸を含め何もかもを知った上で逃れられないことを覚悟して生きることが幸福であると彼は説く。

これはディオ・ブランドーの目指した天国ではないのは明らかである。ディオ・ブランドーはまず自らを「他者」と成さしめること(彼は第三部で既に死亡しているが、遺骨から「緑色の赤ちゃん」として復活しプッチ神父と同化している)の重要性を知っていた。その上で友であるプッチ神父が自らを「赤ちゃん」ではなく完全な形で復活させること(二巡目の世界においてはプッチ神父だけが「決定済み」の世界を操作できる)を、そして「メイド・イン・ヘブン」を自らへ移譲するであろうことを計算して計画したのである。つまりこれはディオ・ブランドーが神となるための計画だったのだ。

残念ながらプッチも最後、敗北して終わる。二巡目の世界はその完成を見ず、ディオの計画も頓挫する。プッチの敗北の原因はディアボロと同じであるが、ディオの敗北の原因は「他者」になりきれなかったことにある。結局のところ「悪」には自らへの執着という限界点があるのだ。

第七部「スティール・ボール・ラン」は、西部開拓時代頃のアメリカが舞台である。聖人の「遺体」を巡る物語での、敵はアメリカ合衆国大統領、ファニー・ヴァレンタイン。その「スタンド」は「D4C」つまり「Dirty Deeds Done Dirt Cheap」で、能力は「隣の世界への移動」である。これは彼の愛国心と自己犠牲の精神に由来する。

致命的な負傷があっても隣の世界の自分と入れ替わることで目的を達成しようとする大統領だが、その能力をフルに使えるのはやはり自らの命さえも天秤にかけられるからであろう。ここにようやく、この奇妙な冒険に同行する原因となった「次なる問題」の解決法が発見できる。重要なのは「他者」となることではない。重要なのは「自ら」と「他者」の界面へ到達できるかなのだ。


「自ら」と「他者」の界面、つまり「生」と「死」の界面は敵ではあるが愛国心と自己犠牲の精神を持った「我が心と行動に一点の曇り無し。全てが正義だ。」と自負する大統領、ファニー・ヴァレンタインが導いてくれた「次なる問題」への解決法であった。アウトサイダーの性質上「悪」を主な研究対象としてきたが、ここに至ってそれは「正義」と界面を接することにも到達したと言える。この界面上でようやく「アウトサイダー」の問題は最終的な陥落を見せるだろうが、そのために必要な最後の対象物は何であろうか。

かつて北欧には強壮ではあるが、敵味方を問わず殺戮を行う戦士達が存在したという。彼らは戦場の衝突のまさに界面上において、神の領域に突入した。そう、彼らならば「アウトサイダー」の問題を陥落させるにふさわしい。戦士達は時に勇敢なる者として、また時には異常者、異端者として「ベルセルク」と呼ばれた。


「ベルセルク」はガッツとグリフィスという二人の因縁をテーマとした、ダークファンタジーである。作者は漫画家の三浦建太郎。中世を思わせる舞台において物語は展開される。

その物語は、漆黒の装備と巨大な鉄塊にも似た大剣を帯びたガッツが、異形の怪物を手段を選ばず滅ぼしていく描写から始まる。彼の、何もかもが限界に近づく勝利は、読者にガッツが正義の断罪人であることを疑わせる。その疑念がピークに達した時、物語は意外な展開を見せる。

時代が遡り、若き日のガッツと、グリフィスと呼ばれる傭兵団「鷹の団」のこれも若き団長との、戦場を駆ける日々が描かれる。先の怪物との戦いにおいて垣間見えた異世界でガッツが尋常ならぬ敵意を向けていたグリフィスだが、過去においては絶大な信頼関係で結ばれた仲間であった。しかしそれはとある事象によって終焉を迎えたことが明かされる。

この後、時代背景はまたも戻りガッツの旅と、事象によって異世界の存在となったグリフィスが現世へと帰還し世界を手中に収めていく物語が紡がれるが、重要なのは彼らが「ベルセルク」たる起点となる事象「蝕」である。

「蝕」はそれまで散々描かれてきた「鷹の団」の仲間とその関係を、他ならぬグリフィス自身が自らの夢のために神か悪魔か知れぬ存在へと「捧げる」ことによって発生する。一人残らずが貪り食われ、ガッツとその愛する女性だけが残される。グリフィスはガッツの眼前において、その女性を犯し続ける。グリフィスの手から逃れることには成功する二人だが、その夜から怪物達に追われ続ける日々が始まる。

こうして、グリフィスとガッツという「ベルセルク」が誕生する。ここに「アウトサイダー」の問題の陥落法が姿を現す。陥落法とは「蝕」であり、キルケゴールの「キリスト教」であり、カミュの「幸福」であり、ニジンスキーの「神」であり、ニーチェの「教義」であり、ドストエフスキー、ミーチャ・カラマーゾフの「夢」である。ファニー・ヴァレンタインの「遺体」であり、プッチ神父の「天国」であり、ディアボロの「絶頂」であり、ヴェノム・スネークの「アウターヘブン」であり、ウェルシュの「箱庭」であり、ウィットの「死」なのだ。

これはどういうことか。単なる比喩の話を私はしているのではない。それはフィクションでもなければ、意味を成していない散文でもない。それは単なる事実である。事実は「アウトサイダー」の問題を陥落させるには「アウトサイダー」自身を陥落させるしかないということである。陥落とはつまり「蝕」レベルの精神的事象か「死」という身体的事象によってしか訪れない。よって「蝕」を起こせない「アウトサイダー」はそれか「死」のどちらかが訪れるのを待つことだけが唯一の道である。幸いなことにどちらへ転んでも「アウトサイダー」は救われる。

「アウトサイダー」は今や、ついに解決法を発見したのだ。

あとがき エヴリバディ・ウォンツ・トゥ・ルール・ザ・ワールド


こうして「アウトサイダーの問題」は解決を迎えた。だが「蝕」へ到達した「アウトサイダー」は、これから始まる。私にはここから始まるのがアレクサンダー型「アウトサイダー」かディオゲネス型「アウトサイダー」かのどちらかであるということしか述べることができないが、そのどちらであってもその旅の助けとなるであろう事柄を二つ紹介することで、この書の終わりとさせていただこう。その二つとは「amazarashi」と「プレステージ」である。


「amazarashi」は秋田ひろむと豊川真奈美の二人を中心とする日本のバンドである。このバンドが他のバンドと一線を画する特徴は、その詩の特に実存的な哲学性と、ボーカル秋田ひろむの熱量の強い声が率いるサウンドの芸術性による。もちろんこの場でお伝えできるのは、文章である前者の、かつ私の力量上ごく一部だけとなるだろう。

バンドの名刺代わりであり初期の代表曲「光、再考」は始原的「アウトサイダー」が実存主義的「アウトサイダー」となる時に陥りがちな絶望と、そこからの光のreを描いている。特に「amazarashi」がインディーズでまだ「あまざらし」であった時代の同曲の秋田ひろむの声の熱量は、人生をバラバラにしてしまう勢いの切実さを帯びている。歌詞もまた哲学的であり、叙情的である。往々にして哲学者、より言えば「アウトサイダー」にとって人生は「インサイダー」のものよりも遙かに退屈で、遙かに愛おしいものであったことを思い起こさせてくれるものとなっている。


 どうしようもない僕の人生も長い付き合いの内 愛しくなってくるもんで ぶつかって転がって汗握って必死こいて 手にしたものはこの愛着だけかもな まぁいいか そんな光


この後も歌は絶え間なく後を追ってくる絶望の中で光を追い続ける。


 神様なんてとうの昔に阿佐ヶ谷のボロアパートで首吊った 綺麗な星座の下で彼女とキスをして 消えたのは思い出と自殺願望 そんな光

  (中略)

 僕は今から出かけるよ ここじゃないどこか そんな光

 彼女が歓楽街でバイトをはじめて夜は一人になった 朝彼女が戻って僕が部屋を出て行く 無垢に笑う彼女が本当に綺麗だと思った そんな光

  (中略)

 上手くいかない時は誰にでもあるよ そんな光


これらの光は、繰り返すようだが「アウトサイダー」が人生を追い詰めたときにのみ垣間見える闇の中での光である。日常の一部が自らはそれと知らずに日常であることをやめて輝く、そんな光である。

これが表題曲でもあるアルバム「光、再考」の次の曲「少年少女」はしかして、叙情性へと傾いている。これは「amazarashi」のもう一つの特徴であるが、一つの場に現実性と叙情性を放置した痛みが「少年少女」には表現されている。

アルバム「光、再考」には以上の二曲を含めその他四曲、合計六曲が収録されているが、残りの四曲は後のメジャーデビュー後のアルバムにおいて再収録されているためその際に触れることとする。歌詞は同じであるのでその点は問題ないのだが、このインディーズ時の歌声とメジャーデビュー後の歌声では熱量の質がまた違うので、それをこの文章という媒体では表現できないのは歯がゆい思いである。

続いて映画「蟹工船」インスパイアアルバムに収録された「闇の中 ゆきてかへらぬ」が挙げられる。耽美さを極力廃した退廃感とともに、どちらかと言えば実存主義的「アウトサイダー」というよりは始原的「アウトサイダー」の、燻りが高熱度となった時の衝動が歌詞に見られる。


 僕はといえば今夜何かしでかしたくて 発禁になったLPとナイフをリュックにしまう

   (中略)

 明日もし晴れたらキャッチボールでもしようぜ 情緒不安定なカーブ受け止めて

   (中略)

 爆弾を乗せたトラックが中東の荒れた道で 僕が死に急ぐスピードを軽々追い越した だからと言う訳じゃないが僕は旅に出る


終盤の歌詞――


 公園のゴミ箱に入りそこなった空き缶みたいに ほら見ろよ あの日の叶わなかった夢が転がってる


ゴミ箱に入れそこなうあたりが「アウトサイダー」らしいとともに、実存主義的に言ってそれは救いである。

次のアルバム「0.」あるいは「0.6」では再収録された「光、再考」に次いで「つじつま合わせに生まれた僕等」が流れる。この曲の一部も始原的「アウトサイダー」と実存主義的「アウトサイダー」寄りである。


 選ばれなかった少年はナイフを握り締めて立ってた(中略)雑踏が真っ赤に染まったのは 夕焼け空が綺麗だから つじつま合わせに生まれた僕等


「ムカデ」を挟んで次に流れる「よだかの星」は「ムカデ」の野放図さと対比して、曲タイトルが同名の作品と同じく「アウトサイダー」の清冽さを(もちろん!)想起させる。ドストエフスキーが述べるが如くである。

これもまた再収録の「少年少女」の後、アルバム最後の「初雪」が流れる。先の「少年少女」と同じく叙情的な曲であるが「少年少女」ほどの苦い現実性というよりは、まさしく雪の、美しい冷淡さが漂う歌となっている。

メジャーデビューを迎えて発表されたアルバム「爆弾の作り方」は、花火のそれか爆弾のそれか、火薬の匂いがする夏を感じさせるアルバムである。

一曲目「夏を待っていました」は「初雪」の感じを夏へ、少年へと映した曲であるが「初雪」の希望とはまた違う希望の形が見られる。「初雪」は女性的な希望の形であったが「夏を待っていました」は男性的なそれなのである。

二曲目「無題」は雰囲気こそ「初雪」や「光、再考」らしさがあるが


 小さな頃から絵が好きだった 理由は皆が褒めてくれるから


という歌詞が


 小さな頃から絵が好きだった 理由は今じゃもう分からないよ


となるあたりに、実存主義的「アウトサイダー」が間近であることを予感できるかもしれない。

三曲目、表題曲「爆弾の作り方」は「つじつま」のナイフの少年が、まだ爆弾を作る領域において燻っている。ただ、燻りは時として「アウトサイダー」を破滅させるが、次の領域に成長させるものでもある。爆弾の少年はナイフの少年とならずにいれるだろうか。

四曲目「夏、消息不明」は「夏を待っていました」とペアの、ポエトリーリーディングである。その表現上「夏を待っていました」においてできなかった夏という季節が抱き込んでいる、もう一つの側面が描かれる。

五曲目「隅田川」はこれまた夏の「初雪」感があるが、こちらは夏であることから清爽さを伴っている。

とは言え最終曲「カルマ」は夏の風が吹いてはいても、歌われているのは紛れもなく「アウトサイダー」の精神性である。


 どうかあの娘を救って


このタイプの「アウトサイダー」はかなり厄介である。感覚的「アウトサイダー」に分類される彼らは「蝕」を引き起こすことにやぶさかではない。

メジャー後セカンドミニアルバムは「ワンルーム叙事詩」である。

一曲目「奇跡」はほんの少しだけ宗教的感覚を帯びているが、それらしいタイトルの二曲目「クリスマス」においては「カルマ」のようなあの厄介なタイプの「アウトサイダー」に近い人物像が登場している。

三曲目「ポルノ映画の看板の下で」は「ムカデ」であったある種のじりじりとした焦燥感が感じられる。

四曲目「ポエジー」は明るさを欠いたウィット二等兵を思わせる。


 あの子のスカートになりたい(中略)寂しい幸福について君と語り合いたい 刃渡り15センチのそれで最終的な自己帰結を試みたい


こうして五曲目であり表題曲である「ワンルーム叙事詩」では自らの「箱庭」であるワンルームに火をつけて自己帰結を試みる「アウトサイダー」が現れる。そのかがり火は彼を救うだろうか。


 一人立ち尽くす そこはまるで焼け野原


六曲目「コンビニ傘」の無機質さ、無意味感はその答えともなるかもしれない。打ち捨てられたコンビニ傘と、それに寄り添う街路樹が見上げる先を毎秒3kmで飛び去る弾道ミサイルは、しかし決して無価値ではないのだ。

そのまま無は時に希望として、七曲目「真っ白な世界」に到達して「ワンルーム叙事詩」は終わる。いや、到達せずが故に終わると言うべきか。既に表題曲「ワンルーム叙事詩」自身がそれを予言していたとも言える。

次のミニアルバム「アノミー」は一曲目から表題曲「アノミー」でスタートする。二曲目は「さくら」であり、三曲目は「理想の花」である。

そして流れは四曲目「ピアノ泥棒」を迎える。これは「ワンルーム叙事詩」で答えと遭遇した「アウトサイダー」が、そのまま歩んだ人生をも仄めかしている。取り返しのつかない失敗は「アウトサイダー」には存在しない。何故なら、取り返しのつかない失敗は「アウトサイダー」にとって成功なのだ。

とは言え、その後も「アウトサイダー」の執行猶予は続く。五曲目「おもろうてやがて悲しき東口」と、そして六曲目「この街で生きている」へと。

こうしてその続きは、初のフルアルバム「千年幸福論」へと漂着する。先のミニアルバム「アノミー」の終盤で暗示された人生の続きは、一曲目「デスゲーム」へと変貌していた。


 疑心暗鬼の密室では 頼れるのは自分だけだ


しかしながら――


 「救ってよ」って叫びも どこか他人事の当事者


これはどういうことか。二曲目は当然「空っぽの空に潰される」となるが――


 昔の自分に嫉妬するな そいつが君の仮想敵だ


まだ「アウトサイダー」の疑心暗鬼は続く。フルアルバムという長さがそれが起こってしまう状況を象徴しているのか、三曲目は「古いSF映画」である。四曲目の「渋谷の果てに地平線」はそのフィクションという眠りからの目覚めかもしれない。

五曲目「夜の歌」六曲目「逃避行」と、ようやく「アウトサイダー」は現実の時間感覚とそれに伴ったガラクタを自覚し始める。


 雨雲に滲む月明かり あれが僕の目指す光

  (中略)

 青空にうすく昼の月 あれが僕の目指す光


 地下鉄にへばり付いたガム踏んづけて もう何もかも嫌になった

  (中略)

 あのへばり付いたガム踏んでやろう そいつのせいにしてやろう


表題曲「千年幸福論」から「遺書」「美しき思い出」「14歳」は文字通り転がるように駆け抜けることができる。ただ、十一曲目「冬が来る前に」はそうはいかない。追いついた季節とともに「アウトサイダー」は十二曲目「未来づくり」を始める。

結局のところアルバム「千年幸福論」はこれまでの繰り返しであり、中身自体も繰り返しであるが、それは「アウトサイダー」の人生らしくかつ「アウトサイダー」の行動らしい。燻る「アウトサイダー」の、それらしいのだ。

それでは燻る「アウトサイダー」がまたも遭遇する事柄は目に見えている。次のミニアルバムは「ラブソング」で、こちらもまた表題曲からスタートする。ただ次は「アウトサイダー」も体験済みの状態であるので、二曲目「ナガルナガル」ではあっても三曲目「セビロニハナ」に到達するのは早い。四曲目「ナモナキヒト」五曲目「ハルルソラ」の流れもよく見たそれであるが、それにしてもやはり六曲目「アイスクリーム」には火薬の匂いが漂う。

ただ、後の「アポロジー」「カラス」「ハレルヤ」「祈り」の終わりまでの曲調は何か違う未来を予感させる。何か大きく始原、実存主義、感覚の「アウトサイダー」の領域を外れようとする存在を感じるのだ。

次のミニアルバム「ねえママ あなたの言うとおり」でそれは確信となる。明らかに歌い出しの「風に流離い」から「アウトサイダー」が帯びる雰囲気が異なっている。続く「ジュブナイル」でもそうであるし、三曲目「春待ち」は空気感こそ以前と同じものがあっても、そこには以前とは違う覚悟の保有がある。

「性善説」「ミサイル」の流れはもはや完全にこれまでのものとは異なる。それとまでは至っていないにしても創造的「アウトサイダー」の影がそこにはある。無論続く二曲「僕は盗む」「パーフェクトライフ」もそうである。前二曲のイデアが後二曲の影となって投影していると言ってもいい。ニーチェからデカルトさえ垣間見える芸術性が現れるのである。

しかしここでまたしても「あんたへ」のようなミニアルバムを出すのが「amazarashi」らしい。表題曲の「あんたへ」はかなり秋田ひろむ本人寄りの曲であるが、それ以外の六曲のまとまりは「まえがき」から「あとがき」まで大いに完結している。ということさえ述べておけば十分であろう。

セカンドフルアルバム「夕日信仰ヒガシズム」において、それは創造的「アウトサイダー」の実像へと到達する。一曲目「ヒガシズム」では実存の幕が切って落とされる。


 僕が僕として生きてる理由を 身に纏う証明

  (中略)

 僕が僕として生きてる理由を 選び取る証明

  (中略)

 僕が僕として生きてる理由を 身に宿す証明


続く「スターライト」はこれも秋田ひろむ本人寄りの曲であるが「あんたへ」とは違う切実さを煌めかせる「光、再考」と同質の曲である。


 夜の向こうに答えはあるのか それを教えて スターライト


そしてここから先の曲についてはもう私には語ることができないし、その資格もない。続くフルアルバムは「世界収束二一一六」であるが、人類滅亡の偶発的「アウトサイダー」と、わかりやすく言えばウェルズの到達した終焉が感じられると言えば事足りる。


さて、私の旅もまもなく終わりを迎え、また新たなる旅が始まる。ある映画の台詞にこうある。


 マジックには三つのアクトがある。一つ目はターン。マジシャンは何でもないものを観客に見せる――


始原的「アウトサイダー」がここに該当する。彼らは「アウトサイダー」一般にとってはよくある始まりのパートである。


 次のアクトはプレッジ。マジシャンはその何でもないものを使って、驚くべき事をしてみせる――


これは「アウトサイダー」の問題の解決であると言える。だが――


 拍手はまだだ。最後のアクトはプレステージと呼ばれる。例えば、何でもないものを消したのならば、それが戻らなければ――


前述の「amazarashi」のパートはその前半であった。そしてこれから述べる後半部分がまさしく「プレステージ」でもある。


「プレステージ」はクリストファー・ノーラン監督の映画作品である。ヒュー・ジャックマンとクリスチャン・ベール演じる二人のマジシャンが、人生と愛する人を捧げてまでマジックを競う姿ははっきり言って狂気である。中盤のデヴィッド・ボウイ扮するニコラ・テスラも含めて「何かに取り憑かれた」男を描くことが上手いのが、ノーラン監督の特徴であろう。

映画は、先程のマジックの三つのパートについての言葉をヴォイス・オーヴァーしながら、謎めいた映像の散りばめとともに始まる。このような手法は「クラウド・アトラス」のオープニングやゲーム「バイオハザード7」などにも使われていたが、優れた作品におけるそれは紛れもなくある種の洪水のように心へと象徴を移植する。

ジャックマン=「グレート・ダントン」アンジャーは、上部にテスラ・コイルの付いた籠の中で消失し、遠くに瞬間移動するという「マジック」を行う。ベール=「プロフェッサー」ボーデンはトリックを暴くため籠の下部、舞台の下でありアンジャーの消失先、奈落に侵入するがそこにはとある因縁を秘める奇術用の水槽がある。マジックのプレッジ=消失とともに落ちてきたアンジャーはボーデンの助けを求める叫びと行動も届かず、目の前で溺れ死ぬ。

以上のシーンがパラパラとフラッシュするオープニングは、主役陣の演技もあって極上の必死さをファーストインパクトとして与える。19世紀が舞台である。ボーデンは第一発見者=最有力容疑者として牢に繋がれる。そこへ瞬間移動のトリックを教えてくれれば、代わりに娘の生活を保障すると言う人物の代理人が現れる。牢に繋がれたボーデンもアンジャーが派手な瞬間移動を引っ提げてくるまでは瞬間移動のマジックをしていたのだ。今では一人で娘を育てていた彼だったが、この申し出を彼は断る。取引を持ちかけてきた人物の代理人は彼に考えるよう言い残し、アンジャーの日記を渡していく。牢の中で彼の日記を読むボーデン。そこにはアンジャーとボーデンの出会い、確執、争いの日々が描かれていた。

クリストファー・ノーラン監督の作品のもう一つの特徴として、前後移動や入れ子構造になったりする物語上の時間軸が挙げられる。それは一見複雑だが、物語の構成上は驚くべきことに最もスムーズな流れを作るための操作なのである。

彼らは若きマジシャンの卵として出会った。二人とも弟子として、高名なマジシャンのサクラを行いながら過ごしていたが、ボーデンは常にチャレンジングな欲求を持ちそれを実行できない不満を口にしていた。ある日、ボーデンとアンジャーは中国人奇術師の金魚鉢の瞬間移動マジックを観に行く。ボーデンはニヤリと笑ってトリックを見抜く。


 見ろ、あの歩き方だ。本当は歩けるのにいつも歩けないフリをしてる。マジックのために日々を犠牲にしてるんだ。そこまでしないと到達できない境地というものがある。


アンジャーは家に帰り、自分がサクラをやっている水槽の脱出マジックで水槽からの脱出劇を演じている、自分の妻にその話をする。内心ではボーデンはマジックの心髄を知っているのかと思いながら、彼は言う。そんな生活、俺には耐えられない。

ある時、水槽のマジック中にボーデンはアンジャーの妻の手の結び方を変える。妻もそれは了解済みであり、周囲は止めていたが二人はそれでも脱出できるし、その方が観客から見ても「良い結び方」であると自信を持っていた。しかして、マジックは失敗する。斧で叩き割られた水槽から崩れ折れてきた妻の名を呼ぶアンジャーだが、その声がもう届くことはなかった。

妻の葬式でアンジャーはボーデンに尋ねる。どう結んだ? ボーデンの答えは「覚えてない」――

マイケル・ケイン演じるマジックのエンジニア、アンジェニアのカッターはアンジャーを慰めて言う。


 海で溺れた男がいた。不思議と、家に帰ったような心地だったそうだ。


失意のアンジャーは自らも溺死を試みるが苦しみの前に達成することができない。一方ボーデンは自責の念と「どう結んだか」の答えに自らを二分されながらも、愛する女性と出会い娘を授かる。貧しいが着々とマジシャンとしての道を歩むボーデン。その姿を見たアンジャーは、彼を破滅させることを決意するのだった。

アンジャーはボーデンの弾丸掴みマジックを失敗させ、片手の指二本を失わせる。ボーデンがマジックを休業している間に次はアンジャーが鳩の消失マジックを行うが、そこに現れたボーデンによってマジックは観客を巻き込んだ事故に終わる。ボーデンは次に瞬間移動マジックを行うが、そのマジックは見事なものだった。アンジャーはタネを見抜けないながらも、替え玉を使って「新・瞬間移動」マジックを行う。見せ方の面ではボーデンに勝るアンジャーが名声を勝ち取るが、いつも拍手を浴びるのは替え玉であった。

その後、慢心した替え玉にボーデンが近づき、またもマジックを失敗させる。片脚を奪われるアンジャーだが、ついにボーデンのアンジェニアを誘拐しボーデンの日記を奪取、一線を越えながらもボーデンのマジックの鍵がニコラ・テスラにあることを突き止める。そんな彼にアンジェニアのカッターは告げる。もうやめておいた方がいい。若者は何かに取り憑かれる――

制止を振り切りアメリカでニコラ・テスラに瞬間移動装置の発明を依頼するアンジャー。同時に暗号で書かれたボーデンの日記の解読を進めるが、最後まで解読し終えた彼に突きつけられるのは、全てがボーデンの策略であるという事実だった。怒るアンジャーだが、やはりニコラ・テスラは天才だった。ある一点を除いて完璧な「瞬間移動装置」を彼は開発していた。エジソンに追われて姿を消したテスラだったが、アンジャーに装置とともに手紙を残す。この装置は使うな、という警告を。

牢でいつの間にか食い入るようにアンジャーの日記を読むボーデン。日記の終盤にはアンジャーが装置を起動したという記述と、ここまでの全てが彼の策略であった旨が書き残されていた。


 そうだボーデン。おまえは今、俺を殺した罪で牢に繋がれていることだろう。死刑を待ちながら。


驚愕に目を開き、周囲を見回すボーデン。後日再び現れた日記を渡した代理人に彼は、日記はフェイクだと告げる。書いてあるようなことはありえない、と。

また後日、娘を連れて今度は代理人ではなく取引を持ちかけてきた人物本人が面会に訪れる。その人物の面貌は紛れもなくアンジャーであった。ボーデンは叫ぶが、アンジャーは悠々とボーデンの取引として渡した瞬間移動のトリックを記したメモを見もせず破り、愛する人を奪われる哀しみを知っていること、自らが最後には勝利した旨を宣言しその場を去る。

ボーデン最期の日、面会に来たのは自らのパートナーのアンジェニアだけであった。彼に別れを告げながら、アンジャーの瞬間移動のトリックに固執しなければよかったと謝り、ボーデンは絞首台に連行される。絞首台で最期の言葉を聞かれたボーデンは言う。


 Abracadabra


一方「瞬間移動装置」を封印するアンジャー。手伝ったカッターは告げる。以前、海に溺れた男が家に帰ったような心地だったと言ったな。あれはウソだ。本当は、地獄の苦しみだったと。

カッターは去り、アンジャーは一人呟く。誰も消える方は気にしない。人影が近づく。カッター?

銃口が煌めき、アンジャーは崩れる。その人物はボーデンであった。アンジャーは全てを理解する。タネがわかればマジックはつまらないものだ。ボーデンは双子であったのだ。アンジャーは問う。君は消える方か、現れる方か。ボーデンは答える。どちらもだ。毎回入れ替わって役をこなしてた。

そんな簡単なことかとアンジャー。いや、とボーデン。簡単じゃなかった。片方が指二本を吹き飛ばされれば、もう片方も指二本を失う必要がある。悟ったようなボーデンにアンジャーも告げる。私も犠牲を払った。

アンジャーの「瞬間移動装置」は、対象物を遠隔地にもう一つ複製するというものだった。後は片方が消えれば、もうそれは瞬間移動に見える。ただ、それが起こるまで自分の自我同一性が「どちらに」なるかはわからない。毎回「どちらかの」自分は溺れ死ぬ。死ねば妻とともに、生きれば栄光の喝采を。それでも、毎日装置に入るのは勇気が要ったとアンジャーは言う。見ろボーデン、見ろ。

知るか、とボーデン。君は世界の裏側まで行って恐るべきことを無駄に行った。アンジャーはやや驚きつつ言う。無駄だって? 観客のあの表情。皆、世界は決まり切ってつまらないものだと知ってる。そんな彼らを一瞬でも驚かせる事ができれば。本当に知らないのか?

アンジャーは力尽きる。ボーデンはゆっくり火に包まれていくその場を後にしながら、無数の水槽の中に浮かぶ、無数のアンジャーを見渡す。ヴォイス・オーヴァーでアンジェニア、カッターが告げる。タネは知らない方がいい。騙されていた方が、いいのだ。


こうして私のプレステージも終わりを告げる。アンジャーという究極点が示す事柄と、今一度ここからの「アウトサイダー」はアレクサンダーかディオゲネスかということだけを述べて、旅の終わりともなるわけだが、つまるところはコリン・ウィルソン「アウトサイダー」の福田恆存のあとがきは正しかったのである。


 一口にいってしまえば、「アウトサイダー」の真実は敗北することによってしか、残らぬのではないか。


だが、この言葉の向こう側の意味へ到達した私が最後に残す言葉はこうだ。


アウトサイダーに告ぐ。

敗北か、さもなくば死か。

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