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世界が終わるその前に  作者: 深井陽介
第一章 春・夏編
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#3 風に匂いはない


 坂道を自転車にまたがりながら降下していく。スピードが上がりすぎないように、適度にブレーキをかけながら、澄んだ空気を体じゅうに浴びて進む。都会では決して叶わないことだ。

 わたしはこの町が、それほど嫌いではない。好きだと思ったこともないけど。暮らしやすさでいえば都会のほうが断然いいはずなのだが、わたしはどうやら、自由度の高い空間にいるのがいちばん性に合っているらしい。人はあまりいないけど、それだけに、誰かと接する時はいつも温かく迎えられる。初めてこの町に来たときから、いずれこの町に根を下ろすことになるかも、という予感はあった。

 何があるわけでもない。でも、心にのしかかるものが少ない方が、気楽でいいというものだ。

 踏切の前に接近する。見渡す限り、山と田んぼしかない。一面が緑だ。カンカンという音を鳴らしながら、遮断機がバーを徐々に下げていく。もちろんそんな所を通り抜ける真似はしない。

 二両編成の電車が遠くのトンネルから近づいてくる。自転車のサドルに跨ったまま、電車が通り過ぎるのを待つ。

「あら文香ちゃん、これから学校?」

 知っている声に振り向くと、すぐ近くの田んぼの真ん中に、わたしを見ているおばあさんがいた。

「はい。田代(たしろ)さんも朝から精が出ますね」

「雑草ちゃんと取っておかないと、稲がしっかり育ってくれないもんだから」

「これだけ広いと大変でしょう」

 田代さんの後方に視線を向ける。果てしなく遠くまで水田は広がっていた。もう少し奥に行くと野菜畑が見えてくる。

「除草剤とか使ったら楽なんじゃないですか」

「畦道の近くならともかく、稲があるところに撒くことはできんさ。そういうのは畑に撒くもんだよ。見てのとおり、ここは(ちめ)たい水が張ってあるからな」

「あー、そりゃ確かにダメですね」

「そういや、あんたんとこの菜月ちゃんと丈太郎くんも、さっきここを通ってったよ。まーたなんか喧嘩しながら並んで自転車こいでおったわ」

「いつもの事ですんで……」

 電車が通り抜ける。風を切り裂くような轟音が鳴り響く。

 わずか数秒の事なのに、わたしの髪は派手に乱れた。

「そっちこそ大変じゃないかい。家事とかぜんぶ文香ちゃんが一人でやっておるんだろ?」

「ええ、まあ……」わたしは髪を整えながら答えた。「わたし以外にやれる人がいないので」

「きつくないかい?」

「わたしが慣れればいい話ですよ。……田代さんこそ、毎日ひとりで農作業ってきつくないですか」

「わたしゃとっくに慣れておるから、それこそ今さらさ」

 慣れればきつくなくなる……世の中、そんな単純じゃない。田代さんのしていることは、わたしが家でやっていることとは明らかに程度が違う。何年か前に旦那さんを病気で亡くしてから、所有している水田をすべて一人で管理しているのだ。それに、家事のように人を相手にすることとはわけが違う。

「……でも、自然が相手だと、思い通りにいかないことはいっぱいあるのでは?」

「そりゃあそうさ」田代さんは雑草取りを続けながら言った。「おととしにひどい冷害があった時は、ここにある田んぼのほとんどで稲が育たなかった。がっくりしたもんだよ」

「……やめたいと思ったことは?」

「ん? あんたは家事をやめたいと思っているのかい」

 うっ……わたしの心の中を見透かしてきた。伊達に歳をとっていないな、この人。

「やめたいとは……正直、思ったことはありますけど」

 確かに最初のうちは、自分一人に家の仕事が押しつけられていると感じて、何度も嫌気が差したことはあった。いつかやりたい事ができて、でもそれが家事のせいでできなかったら……そんな不安はいつも付きまとっていた。ぜんぶ投げ出した親たちを憎んだりもした。……義理の親だけど。

「私だってね、やめたいと思ったことは何度もあるよ。だけど、やめようと思ったことはない」

 田代さんは腰を伸ばしてからそう言った。何が違うのだろう?

「嫌だとか、投げ出したいとか思っても、やっぱりそれはできないって思い直すのさ。大変だからやめたいと思う事なんて、誰だってあるものよ。でも大抵は、もう少し頑張ろうと思って続けてしまう」

「それはやっぱり……自分がやめたら、他に誰もやる人がいなくなるからですか」

「それよりもっと大きな理由がある。自分が嫌になるほど頑張って、それで大切な人が喜んでくれたとき、自分も嬉しくなると知っているからさ」

「…………」

「苦労して作った米だからこそ、美味しそうに食べてくれる人がいれば、そりゃあもう飛び上がるほど嬉しくなるもんさ。ああ、やめずに頑張ってよかったなぁ、ってつくづく思うもんだよ」

 田代さんは破顔一笑してわたしを見た。しわだらけの笑顔が、やけに輝いて見える。

 そうか……わたしもきっと同じなのだ。親を憎むほどきつい思いをしても、それでもやめられなかったのは、他にできる人がいないからじゃない。わたしは……夕貴みたいに頭がいいわけでも、菜月みたいに明るく可愛らしいわけでも、丈太郎みたいに強くて真っすぐなわけでもない。そんなわたしでも、三人のためにできることがある。三人が楽しそうにすることで、嬉しくなることがある……だから、やめられない。

「……上手くいかなかったときは、どうするんですか」

「そりゃどうにもならんよ。どうにかなったらそれは失敗なんて言わないのさ。失敗したら、次はもう同じ失敗はしないって心に決めて、またやり直すしかないんだよ」

「途方もなく気長ですね……」

「文香ちゃん、周りを見てごらん」

 突然に何を言い出すのでしょう。でも、言われた通りに見渡してみた。空と、山と、田んぼばかりだ。細い道路と線路もあるけど。

「自然がいっぱいだと思うだろう?」

「ええ、そうですね……」

「だがな、山は人が定期的に手を加えているから、あれだけ綺麗な姿でいるんだ。田んぼだって、(むかす)の人たちが苦労して作ったものだ。植物とか緑が多いと、とかく人は自然が多いとか言うが、私から言わせれば、ここにあるほとんどは自然に人が手を加えたものだ」

「言われてみれば……」

「これだけのもんを作るには、それこそ途方もなく長い年月が必要だ。その間に、たくさん人は失敗してきた。でもやめなかった。私らはまさに、その苦労と失敗を重ねてきた、先達(せんだち)の恩恵に(あずか)っておるのさ」

 そんなこと、考えたこともなかった……今のわたしや田代さんのしていることとは、比べ物にならないくらいの苦労の成果が、いま目の前に広がっているなんて……。

「たくさんの失敗の上にあって、私らは何をするのが一番いいのか分かっている。失敗しても、また次に繋げられる土壌がある。失敗しそうだと思えば、引き返すための道がある。だからいつだって美味しい米が作れるのさ」

「失敗しそうかどうかなんて、どうやって判断するんですか」

「風の匂いをかぐんだよ」

「風の……匂い?」

「何か起きるときには、少しだけ風の匂いが変わるんだよ。文香ちゃん、分かるかい?」

 風の匂い……わたしはその場の匂いをかいでみた。風は止まっているけど。

「……土の匂いしかしません」

「あっはっは。まあ、今は分からなくても、いつか分かる時が来るかもしれんね」

 来るだろうか……正直、この田代というおばあさんの域には、一生をかけても及ばない気がする。

「そういえば文香ちゃん、だいぶ引き留めちゃったけど、学校は大丈夫かい」

「あっ、いっけない。じゃあそろそろ行くんで」

 わたしはペダルに足を載せて力を入れた。車輪が前方に回りだす。

「あいよ、行ってらっしゃい」

 田代さんに向かって手を振りながら、わたしは踏切を渡っていく。

 スピードに乗ってくると、風を正面に受けるようになる。少し鼻を動かしてみた。

 ……さっきと何も変わらない。そりゃあ、空気に匂いはあるかもしれないけど、風に匂いなんてあるわけがない。それとも、あれは何かの隠喩だったのだろうか。

 ハンドルを掴む左手の、手首につけた腕時計をちらっと見る。八時を過ぎていた。ホームルームまでは十分ほどしかない。だけどわたしには、急ぐ必要がなかった。

 遅刻はダメだけど、他の人より多少遅れても許される理由が、わたしにはあった。

 山のふもとにある木造の古びた校舎の敷地の中へ、自転車を走らせていく。もう他に校舎へ向かっていく生徒の姿はなかった。わたしは真っすぐ、自転車置き場へと向かっていく。

 駐輪場に自転車を停めて、鍵をかけると、わたしは校舎の裏側へと回った。教室よりも先に行きたい場所があるのだ。日中は光が差し込まない北側なので、少しだけ暗い。校舎の裏手はすぐ森林になっていて、生い茂った藪には人の手で作られた道がある。わたしはその道を歩いていく。

 十メートルほど進んでいった先に、木々に囲まれた広い空間がある。中央に巨木があって、その根元に石でできた小さな塔が立てられている。わたしはその塔の前にしゃがみ込み、瞑目して手を合わせた。

「お父さん……今日も、わたし達を優しく見守っていてくださいね」

 これが、わたしの習慣だ。先生たちもこれを知っていて、黙認してくれている。

 風が吹いて、木々がざわざわと揺れてきた。見上げると、木漏れ日が瞬き始めた。

 その時……かすかに何かを感じた。漂う匂いが変わったように思えた。

 これ、なのかな。分からないや。

 不意に笑みがこぼれる。

「日日是好日、だよね。……さて、遅刻しちゃうや」

 わたしは駆け出した。変わらず古い木の匂いが漂う、あの校舎へと向かって。

田舎の描写って、むずかしい。

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