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世界が終わるその前に  作者: 深井陽介
第一章 春・夏編
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#9 晴れた日に


 家事を一手に引き受けながら、高校にも通っているわたしには、毎日の洗濯がとにかく難物だ。

 四人分の衣服を毎日洗濯するのは非効率的なので、二日に一度のペースでやっている。朝食の支度に入る前に、半分の量を洗濯機に入れて動かす。四人分の食事ができたところで脱水が終わるため、三人が食べている間に洗濯機から取り出して、残り半分を入れて再び動かす。前半の洗濯物をすべて干してから、台所に戻って食事を再開し、食器の片づけまですべて終えたところで二度目の洗濯が終わる。それらをやっぱりすべて干してから、ようやくわたしは学校に行く。

 ……先生たちはこの事情もすべて知っているから、わたしだけは多少の遅延を許している。ありがたいことである。もちろん始業時刻に送れるのは認められていないが。

 それはさておき、今日は休日なので、少し余裕をもって洗濯の作業をしている。しかも久々の晴天。絶好の布団干し日和である。

 広い庭の隅にある丈夫な物干し竿(ざお)に、洗濯機で洗った衣服を並べて吊るしていく。布団は、窓を全開にした室内で、三つ折りに畳んでから丁寧に潰す。綿にしみ込んだ汗や湿気を追い出すためだ。そして二階のベランダの柵の上にかけて、天日干しにする。一軒家は基本的に、日当たりのいいところに窓やベランダを(しつら)えているのだ。

「あー、お布団干してる」

 掛け布団を干している最中に、菜月が現れた。今日は一日じゅう暇らしい。

「菜月……暇なら勉強でもしたら?」

「えー、こんなよく晴れた日に勉強なんて野暮なことを」

 確かに、あんたに言うだけ野暮だったか。言われてもやらない奴だからな。

「でもいいよねぇ、ふかふかのお布団で寝られる幸せ」菜月は頬を押さえながら布団を見る。「都会にいた頃は月に一度もなかったよ」

「そもそも四人分の布団を干すスペースが確保できるか、極めて怪しいしね」

「土地が広くて障害物が少ない、田舎ならではの特権だねぇ」

 菜月はどちらかというと現代っ子だが、田舎での暮らしに特に不満はないらしい。包容力の高い人が身内にいると、いろいろと面倒がかからなくていい。もっとも、菜月の場合はいたずら心も旺盛なので、全く面倒がないというわけでもないのだが。

「そうだ。文香、洗濯が終わったら丈太郎の試合見に行かない?」

「えっ……試合してるのって隣町だったような……」

「だって超絶ヒマなんだもーん。丈太郎の応援しつつからかいに行こうぜー」

 要するに義兄で遊びたいだけかよ。それと、干したばかりの布団に覆いかぶさるなって。

「分かった」わたしは呆れつつ了承した。「夕貴は連れていくの?」

「それが、さっき部屋を覗いたら、一人でマッチ棒使って家を作ってた」

 暇つぶしの方法が地味すぎる……。

「なんかえらく集中してたから話しかけづらくて」

「あー、夕貴って一度ハマったらとことんだからね。いいところまで行ったらすぐにやめるから、飽きるのも早いけど」

 すると、絶好のタイミングで本人が現れた。昼間なのに髪は乱れたままである。

「あ、布団干してたのか」

「あれ夕貴、家づくりはどうなったの」菜月が誤解を招きそうな質問をする。

「もう終わったからやめた」

「本当に飽きるの早いな」短く突っ込んで、菜月はすぐ切り替える。「ねえねえ、これから丈太郎の試合を見に行こうかって話をしてたんだけど……夕貴も行かない?」

「ああ、いいけど」

 深く考えずにOKを出したな、こいつ。自分の体力を全く考慮していない。しかも今日は晴天で気温がぐんぐん上昇している。気温の変化が激しいと体力を余計に奪われるぞ。

「よし決まり!」菜月だけはやっぱり楽しそうだ。「そうだ、お弁当持っていこう? 絶対朝に渡したやつだけじゃ足りなくなるし、わたしも食べたいし」

「遠足じゃないんだから……」

 と言いつつもすぐに作り始めてしまうあたり、わたしはこの義妹に甘いのである。


 丈太郎は野球部に所属している。しかし、うちの高校には陸上用のトラックしかない。だから、陸上部と室内競技部以外の運動部は、全て学校の外で活動している。特に野球部は、まともに使えるグラウンドが町内にないため、公式戦が近くなると町外に出て練習を行うのだ。言うまでもなく、弱小である。

 弱小とはいえ、何年かに一度は丈太郎みたいに腕のいい生徒が入るため、決して負けが込んでいるわけではない。優勝経験はなくとも、近隣の高校からは一目置かれる存在だという。

 ……というのは菜月の口から聞いた話だ。丈太郎は家であまり部活の話をしない。

「おー、やってるやってる」

 隣町の市民球場に到着し、わたし達は芝生の観客スペースに入った。ここもそれほど規模は大きくないので、観客席の高さもそれほどなく、バッターボックスの反対側は芝生になっていた。

「あっ、ちょうど丈太郎が打つ番だよ」

「ホント?」

 確かにバッターボックスにバットを構えている人がいるけど、帽子のせいで顔が見えない。タッパがあるから丈太郎の可能性は高いけど……まあ、菜月が言うならそうなのだろう。

「わたし野球のルールって詳しくないけど、菜月は分かる?」

「まあねぇ。伊達に野球小僧の妹やってないから」

「義理の兄を小僧って……」本当に遠慮がないな。「ちょっとでいいから教えてくれない?」

「いやあ、わたしが文香ちゃんにものを教えるときが来るなんてねぇ」

 なんで嬉しそうなんだ。そういえば菜月に勉強を教えるのはいつもわたしだった。

「まず、真ん中にいる投手が、バッターボックスに向かってボールを投げるでしょ、でもってそれをバッターがバットで打ち返すでしょ」

「それくらいは知ってるから。打った後がいちばん重要でしょ」

「打った後はね……」菜月は間を置いてから言った。「右側の塁に向かって走る!」

 何だか初心者の確認作業みたいだなぁ……本当にルール分かるのか。

「でね、打ち返されたボールが、地面に落ちる前に守備に捕られたらアウト。地面に落ちた後で捕られても、バッターがこれから向かう塁にいる守備がボールを受け取って、バッターより先に塁を踏めばやっぱりアウト。塁にいる他の味方選手も同じで、走っていく先の塁の守備が、先にボールを取って塁を踏んだら即アウト。それらをかいくぐって、一周してバッターボックスの塁を踏めば、味方に一点が入る」

「うーん……やっぱり複雑だなぁ」

「まあ野球は見ているうちに覚えるものだからね。わたしも最初はさっぱりだったなぁ。キャッチボールとの区別がつかなくて、バッターはピッチャーに向かってボールを打ち返すものだと思ってたくらいで」

 どんだけ器用なバッターだよ。さすがにわたしはそこまで無知じゃない。

「そういうわけだから、とりあえずこの試合を見て少しずつ覚えようね」

「覚えてもどこで使えることやら……」

 などと呟いていると、突然、キンという耳に響く金属音が聞こえた。

 何事か、と思ったのも束の間、わたしと菜月の目前に、白球が猛スピードで迫ってきた。白球は鉄製のフェンスをかすめて芝生に衝突した。空気が切り裂かれ、わたしのたいして長くない髪を揺らした。

 わーわーという歓声であふれかえる球場。その中でわたしは、一瞬の恐ろしい出来事に体を固まらせていた。……これ、十センチずれたら頭にめり込んだよ、絶対。

「おー、丈太郎のやつ、初打席にしていきなりホームランかましやがった」

「……ねえ、菜月」

「ん?」

「今すっごく怖かったんですけど! え、なに? 野球ってこんなに怖い競技なの!」

 こっちは命の危機を感じたというのに、義妹は涼しげな顔をしていた。暑いけど。

「わー……こんなにマジで怯える文香、初めて見た……」

 後で菜月の口から語られたところによれば、わたしは赤く充血した目からぽろぽろと涙をこぼし、口を四角く開けて震わせていたという。まるで漫画の人物のようなリアクションだったとか。

「まあ、ホームランとかファウルの場合は実際にボールが観客に当たることもあるから、事前に注意喚起はしてるんだけどね。でも滅多にないよ、ホームランボールが間近に来るなんて。それだけで縁起がいいから記念に持ち帰る人もいるみたいだし」

「ちっとも縁起よくないよ! 危うく怪我するとこだったんだよ?」

「そりゃあ、初めて野球観戦に来ていきなりホームランボールの洗礼を受けたら、多少のトラウマにもなるだろうけど……」

 多少どころじゃない。これっきりにしようかと思ったくらいだ。

「てか、ホームランボールって持って帰っていいの?」

「代わりのボールはいくらでもあるし、むしろ戻さないのがルールだから」

「ふーん、よく分からないなぁ。……あれ、そういえば夕貴はどこに行ったの?」

 今になってようやく、夕貴がいないことに気づいた。元から若干影の薄い奴だからな……。

「あー、道にでも迷ったか?」菜月は周囲を見回したが、すぐやめた。「まあほっとけ。あれが野球に興味示すとも思えんし」

 それは偏見じゃないかな……。とはいえ、わたしも夕貴の趣味はよく知らないけど。

 すると。

「ひゃっ」

 頬に突然冷たい感触がして、わたしは思わず喉から声を上げた。何かと思って振り向くと、夕貴が缶ジュースを持って立っていた。

「ほら、暑いから飲み物買ってきた」

「なんだ、それでいなかったのか。気が利くなぁ」

 さっそく菜月は夕貴の手からジュース缶を手に取って、開けて飲み始めた。

 全く、夕貴は人知れぬところで機転を利かせることが多い。自己主張の少ない性格は昔からだ。

「はい、文香も」夕貴がジュースを一本渡してきた。

「ありがと……」

「ていうかさっきの文香の『ひゃっ』って声、マジ可愛かったんですけど」

 菜月が口元を押さえて笑い始める。途端に周囲の気温が上昇した気がした。うああああ。

「夕貴! 変なことしないでよね!」わたしは夕貴に抗議した。

「すまん、思わず」

 思わず義理の姉の頬に缶ジュースを押しつけるって、結構たちが悪くないか? よく分からんなぁ、こいつの言動は。

「あ、丈太郎のチーム、勝ってるんだ」

 夕貴がスコアボードを見て言った。今は四回の裏が終わって、丈太郎のチームが二点リードしている。まだしばらく試合は続きそうだ。丈太郎はどれだけチームに貢献するかな……?


「うああ、日に焼けたあ。日焼け止め塗ってくればよかったぁ」

 わたしは家に帰ってから、真っ赤になった腕と首筋にオロナインを塗るはめになった。普段から外に出て遊ぶことが多い菜月や丈太郎と違って、わたしは日に焼けやすい体質なのだ。ちなみに夕貴も日焼けには弱いが、こっちは事前に入念な対策をしていたため、無事だった。

 くそお、終わってみればわたしがいちばん大変なことになっているじゃないか、ちくしょうめぇ。

「まあ、今度から丈太郎の応援に行くときは、日焼けの対策を忘れずにね」

 きつね色に焼けた菜月は、わたしの頬にオロナインを塗りながら笑って言った。ああ、お前のメラニン色素を分けてほしい。

「こりゃあ、今夜は熱いお風呂に入れないね」

「仕方ないよ。どうせ今日は少しぬるめにするつもりだったし」

 気温が上がることは分かっていたので、今日は夕飯も冷やし中華にする予定だった。しかし、この状態では湯気がかかると痛いので、麵をゆでるのは夕貴に任せている。鍋を見てくれているのは嬉しいが、さっきからこっくりこっくりと舟を漕いでいる……寝ているのではなかろうな。

「はい、OK」軟膏を塗り終わって、菜月は容器のふたを閉めた。「そういえば、朝に干してた布団、まだ取り込んでないよね?」

「あー、そうだった。早く外してクリーナーかけないと。ダニのエサを残すことになりかねん」

「やーだー、それは嫌だー」

 そういうわけで、わたしと菜月は二階に上がった。ベランダにかけていた布団を次々に取り込んでいくが、途中でおかしなことに気づいた。……三人分しかないのだ。

「ひょっとして、風に飛ばされた?」縁起でもないことを言う菜月。

「敷き布団が吹き飛ぶほどの強風はなかったと思うけど……」

 もしかしたら誰かが取り込んだのか。でも一人分だけというのは……ん、まさか。

 思い当たることがあって、わたしは隣の丈太郎の部屋に入った。ベランダから。案の定、丈太郎が床に布団を敷いて寝転がっていた。どうやら自分の布団だけ取り込んで眠ったらしい。

「あらあら……」菜月が口元を押さえて目を細めた。「疲れて眠っちゃったのかしら」

「まるで母親みたいなセリフだね」

「いやあ、兄妹づき合いが長いと色んな表情を見るからね。でもこんなに安心しきった顔は初めて見たかも。文香がちゃんと干してくれたおかげだね」

 気持ちよすぎたのか……まあ、今日はチームの勝利に貢献する大活躍だったからな、家に戻ってきてどっと疲れが出たのだろう。もうすぐ夕飯だけど、もう少し休ませてやるか。

 残りの布団はもう取り込んだので、わたしと菜月は、丈太郎を起こさないようにゆっくりと、部屋を通り抜けて廊下に出ていった。

 その寸前、何か聞こえた気がして、わたしは振り向いた。丈太郎が寝返りを打ったらしい。安息の場所を持っていると、こんなにも嬉しそうな顔をするのだな……寝ていても表情が分かりやすい。

 これがあるから、多少大変でも布団を干してよかったと思える。晴れた日には、日に焼けて嫌だと思うこともあるけど、こういうささやかなイベントもあって、やっぱり晴れるのが一番なのだ。

 明日も晴れるといいな。そんなことを思いながら、わたしは引き戸をゆっくりと閉めた。

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