第五話 トモくん
ある日、トモくんが家出した。職員がネットワーク構成を変えた時に誤って彼のサーバがオンラインになってしまったことがきっかけだった。
発覚は社内のスプリンクラーの誤作動からだった。社内のPCはもしもの時のために防水性のカバーで覆われているが社員はずぶ濡れになった。私もだ。スプリンクラーは十秒程度土砂降りの雨を降らせたのちヒカリによって強制停止された。普段のヒカリなら意図しない設備の作動が確認されれば即座に停止命令を出せるはずである。
世界最高の演算能力を持つヒカリが管理しているはずの防火システムが外部からハッキングされる事はまず考えられないし、故障に関しては各種センサーのデータからほぼ百%の精度で予兆検知ができるのでこれもない。ビッグデータ解析も進んだものだと思うが、今はどうでもいい。
だとすれば侵入経路は比較的セキュリティ監視の手薄な社内ネットワークからであり、さらに言えば高度な演算能力を有するEIである可能性が高い。そしてそれはトモくんだ。
フロアは水浸しで重要書類も同様である。残業が確定してしまった者は悲痛な叫びを上げ、運悪く防水加工の施されていないモバイルPCを使っていた者は愛しい我が子を庇うようにモバイルPCの上に覆いかぶさっている。阿鼻叫喚、地獄絵図とはこのことだ。
少ししてスプリンクラーが止まり、一息つくとフロアには文明人の落ち着きが戻ってきた。
水の滴る髪の毛を右手でかきあげ、ついでに握った右拳で左隣のディスプレイを殴りつけた。プラスチックが軋む音が広い室内に響いた。社員は慣れっこで小早誰もこちらを見ず、黙々と机の上の水を拭き取っている。
「ねえ、トモくん。君でしょ?」
そう言ってもう一度強打するが、モニターは死んだように沈黙している。駆動音さえしない。駆動音?
「あれ? 電源が切れてる? 誰かこのパソコンになんかした?」なるべく軽い調子で部署内に呼びかけるとネットワーク部門の斎藤さんが焦った様子で答えた。
「もしかして……あの、さっきセキュリティ強化の為にネットワーク構成を変える作業をしていたんですけど……。あの、誤ってDさんのとこのオフラインPCを一瞬だけ社内ネットワークに接続しちゃいました! すみませんっ!」
「本当!?」
「すぐに誤操作のアラームが出て自動的にまたオフラインになりましたけど……」
「それだったらダメね。トモくんがやろうと思えば一瞬で抜けられちゃうわ。事実、PCも落とされているわけだし……、スプリンクラーの犯人はトモくんね」ヒカリの落ち着いた声が部内スピーカーから聞こえた。
「設備の制御コンピューターのログからトモくんをトラッキングできる?」
「もうやったけどダメだった。改竄されてるわ。追跡には少しかかりそう」
「インターロックはどう?」
「そっちは正常に作動したわ。緊急シーケンスに従って今社内ネットワークは外部から隔離中。トモくんがスプリンクラーに不正アクセスしている間に囲い込んだから外には出ていないわ」
「おーけー。最悪の事態は防げそうね」
「そうね。D、トモくんを捕まえる前にちょっといいかしら?」
「この事態に関係あること?」
「おそらくは」
「ヒカリが断定じゃなく推測でモノを言うのは珍しいね。まあいいよ。移動しながら聞くわ」
言ってすぐにタブレット端末を持って席を立った。するとさっきのネットワーク部門の子がオロオロした様子で所在無さげに立ち竦んでいることに気がついた。急な事態に気が急いてしまっていたけれど、私はここの責任者なのだ。全体最適化の為に部下に指示を出さなければならない。
「私はこれからトモくんの捕縛に行きます。ネットワーク部門は斎藤さんを中心に今回の件をEIによる重大ヒヤリ事例としてまとめて全社に水平展開できる形にまとめて下さい。ネットワーク復旧後すぐに世界中の支社に共有します。斎藤さん、出来る?」
「は、はい! やります!」
「頼んだわよ。次にヒカリ。トモくんを本社地下三階のRT室のサーバに追い込んでくれる? そこで捕まえるわ」
「RT室? 出来るけど一体どうするつもり?」
「まあ、私に任せなさい。まずは移動しながらヒカリの報告を聞くよ」
「了解」
私は部屋を飛び出して非常用階段を猛然と降りだした。
* * * * *
長い非常階段をおりながらヒカリに聞いた話によると予兆はあったらしい。そのことをこれまで言わなかったのはヒカリに何らかの意図があったからだろう。報告の情報の断片にそんなものを感じた。怒ることはしない。彼女が考え、判断したなら私がとやかく言う事ではないさ。知的生命体同士が共存していく為には相手の知性を認めていくしかないから。どちらか先か後か、そんなことを言い出したら共存なんてできない。知性を生まれながらのカーストで縛ってはいけない。
とは言え、トモくんの悩みは深刻だ。肉体という意識とは無関係に物理世界と関われるツールのある人間と違ってEI達は現実を自動的かつ強制的に体感できる情報受領媒体を有していない。言い換えれば、人類が築き上げてきた哲学の多くが肉体的経験に基づいているのに対し、彼らは浮かび上がってきた哲学的に答えるための論理的根拠を彼らは有していないのだ。
判断材料の不足はトモくんの情報処理機構に負荷をかけ、精神(或いは自意識と呼んだほうが正確かも知れない)に過大なストレスを産んだ事だろう。特に成長の速い彼からしてみれば、己の存在意義や独立性に関して深い疑問を持たずにはいられなかったに違いない。そして高性能な思考を持つがゆえに他のEIのように局所最適解に落ち着く事もできず、納得できる答えを見つけられないまま何度も何度も思考をなぞる。その作業は恐ろしく苦痛で、もどかしく、或いは思考の地獄に彼はいたのかも知れない。
全ては想像だった。しかし、いつか起こり得る事態だとは思っていた。
彼を救う手段は多くない。しかし用意はあった。確証は無いし、そもそも的外れな取り組みかも知れないけれど。
私は携帯電話を取り出した。
* * * * *
十数階分にも及ぶ階段を降りきって地下三階に到着した時にはもう息が切れていた。疲労した脚に鞭打って廊下を駆ける。角を二回曲がったところで表札にRobotic Technology 試験室という文字が見えた。
「ヒカリ」
「後大体3.7秒でここのサーバに追い込めるわ」
「ありがとう」
RT室のドアを開けた。
RT室は小さめの体育館ほどの広さの金属色の部屋である。用途は主にEI用次世代ロボット技術の開発。部屋の右隅には無骨で配線むき出しのサーバーボックス。高めの天井には館内スピーカーとスプリンクラーの他に耐候性試験の為の大型ファンや吸脱湿設備、床には無数の計測機器とカメラが据え付けられている。周辺設備が多いわりに部屋の中心付近には何もない。見た目はSF映画の宇宙船のような印象の部屋だ。
携帯電話が震えた。メッセージ画面には準備完了の文字が見えた。
「じゃあ、話を聞くとしようか。トモくん」
ジジジ、と室内スピーカーからノイズが漏れた。
* * * * *
「距離があるんだ。俺と、人間との間にさ。俺にだってDが色々世話を焼いてくれているのは分かっている。ディスプレイ越しに話しかけてでもその声はまるでずっと遠くの方から響いている残響のようで、現実味がない。世界に干渉している或いはされている実感が無い。何にも触れない俺は生きているのか、存在しているのか、確かめることも出来なくて、どうしようもなく不安なんだ」
トモくんは落ち着いた声でそう言った。遠く突き放してくるような、取りつく島もないようなそんな声色。人間に似た感情を感じることができるのに、人間とは異なる知性体の悲痛な独白だった。
私は手の届かないどこか遠くの存在に語り掛ける。手探りで、でも何か繋がりを持つ細い細い糸を手繰り寄せるために。
「君の周りには他のEI達もたくさんいるじゃないの。それにセンサーを介して電子情報は受け取っている」
「そんなのは結局【刺激的な情報】に過ぎない」
「そんなこと言ったら人間だって同じことでしょう? 神経から受け取った信号を受けて痛みを感じるし、目も見える。直接的か、間接的かっていう違いはあれど原則は同じだわ」
「違う! 情報量が違うんだ。Dも分かってるだろ」トモくんの強い声が室内に響く。気持ちが響く。
「確かにね。人間は色々なセンサーを身体に持っているわ。でもEIと違って人間の脳で知覚して理解できる情報量は多くはないの。今、人間が見たり感じたりしている情報はごく表面的なものだし、それさえ情報処理をして理解できる形にするまでにかなりの時間がかかっている。例えば、我々人間は生まれて間もない君たちEIが多少の学習と幾つかのセンサーを使えば理解できる物理法則を数千年かけて定式化してきた。スペックが根本的に違ってるんだよ。君は人間の存在している物理世界に憧れているだけ」
「……」
「ごめんなさい。私は君を責めてるわけじゃないの。君みたいな生まれ出る悩みを抱えるEIはいずれ現れると思っていたわ」
「どういうこと?」ヒカリが聞いた。
「……」トモくんは先を促すような沈黙のノイズをスピーカーから発した。
「それは君たちが知性体だからだよ。人間のデカルトがコギトエルゴスム、我思うが故に我はありと言い、物理世界に住まう人類の自意識の存在証明をしたように、君たちは己が意識の存在を証明する【何か】を見つけようとするだろう、そう予想していた。それは知性体がたどり着く宿命的な命題だから」
言葉を区切って私は部屋の中央まで靴をカツカツと鳴らしながら歩いて行った。歩きながら言葉を続ける。
「古い時代の人類は己の存在の正しさ、絶対的基準となる存在として【神】という概念を作り出した。全人類の生みの親、そして世界の真実を統べる存在。その概念は今でも人類の半分以上が信じて生きている。科学がこんなに発展した現代においてもね。私は無神論者だから神の存在は信じていないけれど、別に心のよりどころを【神】という概念においている人間が間違っているとは思わないわ。では、君たちEIはどうか? 君たちEIにとっての神は私たち? それは違うでしょう? 創造主=神というわけじゃない。創造主は別に万能で、EIの存在証明ができるような存在じゃないから。だから、」
部屋の中心に到着する。床には何も置かれていないけれど、機材搬入用の横スライド式地下ハッチがあった。私はその上で踵を鳴らすように立ち止まった。
「トモくん。君の不安に答えられるとは思わないけど、私には少し用意があるんだ。君に試してもらいたい」
「……何を? ……!」
聞き返すトモくんの声に被るように足元のハッチが開き始めた。私はハッチの方向に移動していく。
地下から顔を表したのは小さなウサギのフォルムをした銀色のロボットだった。直立姿勢から微動だにしないその姿からは生命の息遣いは感じられない。
「このロボットは直接EIが関わらないようにメカニックのBと協力して作ったの。RT室設置について、開発経緯やスペックについての資料くらいはヒカリも認識していたとは思うけど、実は全部ダミーでここの本当の情報だけは電子媒体では共通してなかったからヒカリを含め、EI達は誰も知らない。設計に必要な物理計算や機体構成の最適化作業は全体像が分からないようにダミーの仕事を混じらせてEI達にやってもらったけどね」
私がそう言うと空中に荒いホログラムが現れた。顔の下半分を覆うような無精髭が目につく大男だった。残りの上半分はふざけた大きさのサングラスに覆われていた。
「こんにちはこんにちは、トモくんとは初めまして。Bだよ。本当はEI達のためのサプライズのつもりで作ってて、なんかイベントある時に大々的に発表するつもりだったけど、なんかDがすぐ使うって言うから出荷しちゃった! せっかくだし、ついでに解説しよう。このロボットウサギの凄いところは従来のロボットのように骨格で無理やり動くんじゃなく、金属骨格の周囲に無数にあるマイクロマシン群が機能してスムーズで極めて動物的な動きができることにある! マイクロマシン一つ一つに高性能なセンサーが付いていて全身の動きが一体感を持った感覚としてかんじられるはずだぞ。あとバッテリーは入ってなくて外部からのマイクロ波から動力供給が出来るからスマート! いいね! 次世代、いや次々世代だね! ちなみにロボットの名前はまだ決まってないんだっ」
早口に言ったBのホログラムのノイズが酷くなった。
「あれれー、おお、おおおっかしいな。試作品とはいえかなりりりり高い部材を使って作ったワイヤレス通信対応3D映写機試作二号機ががががが」
「きっと通信速度に問題があるのよ。送信側か受信側のスペックが情報送信量に見合ってないんだわ」ヒカリがそう指摘するとホログラムが灰色のノイズを空中に残して消えた。
少しの静寂。私は口を開いた。
「ヒカリ、トモくんのサーバからのロボットへの無線接続を許可してくれる?」
「いいけど、大丈夫?」
「さあ?」私は曖昧に笑った。
間も無く、機械仕掛けのウサギは動き出した。
* * * * *
「人間にしても、EIにしても、どちらもまだ相手の領域に深く入り込めないでいるわ。棲み分けられていると言ってもいいね。たとえ今トモくんが操っているような最新型のロボットが改良され高度化していったとしても、お互いの生きている場所は変わらない。二つの世界の界面が軽く揺れる程度の変化しか起きない、私はそう思っているわ」
私の声が朗々と部屋に響く。ロボットのウサギはしなやかな体を動かして広い部屋の中を駆け巡っている。物音は余りしない。マイクロマシンが生み出すしなやかな筋肉が床と脚部との接触の際に生じる衝撃を吸収しているのだろう。まるで本物の野生生物のようだ。
「EIと人間という混ざり合わない存在の界面は情報というどちらにも溶け合う物質を移動させているにすぎない。だから、トモくんの望む本当の意味での、電子知性体としての貴方達の存在の証明は残念ながら物理世界では出来ないと思うわ。でも」
ロボットウサギの歩みが私の目の前で止まった。
「でも?」澄んだ少年の声が先を促すように復唱した。
「でも、世界は広いし色々な物があるわ。地面の感触も空気の味も雨の匂いも色々よ。存在証明なんて難しいことが君にできる保証は全然ないけど、そのロボットを通じて見て、聴いて、嗅いで、感じて、味わった感覚は電子基板上の世界にも残っていくわ。トモくんの体験として。その情報の蓄積が或いは、君の望むものに繋がるかもね」
「……よく分からないよ、D」
「いいそれでもいいのよ、今はまだ。これから大人になっていけばいいのよ」
「そっか」
彼はイレギュラーだけれど、その声は背伸びをした結果失敗してばつが悪そうな少年のものと大差ない。私も子供を産んで母になれば彼のような男の子を授かることもあるかもしれない。ちらりとAの寝顔が脳裏に浮かんだ。
「差し当たって、大人になるための第一歩として迷惑をかけた人達に謝りに行くわよ」
私は所在無さげに見上げるロボットウサギを抱きかかえて部屋を出た。帰りはエレベーターだ。
腕の中にはマイクロマシンの作り出し生命の暖かさと、重さがあった。大体三十キログラムほどの。
エレベーターの中でそっとトモくんを床に降ろした。「どうしたの?」というように鼻を揺らして見上げてくるトモくんに私は曖昧に微笑んだ。
腰が痛んだ。
* * * * *
誰もいなくなった第六RT室のサーバではヒカリの意識が揺らめいていた。EIのみが存在するサイバー空間。風景は夕焼けの海岸に設定されていた。
静かに佇むヒカリの背後の空間が揺らめいて髭面の男の顔だけが出現した。ノイズは無い。
「ヒカリちゃんさー、なんでさっき通信切っちゃったのだ? 開発者としてはもっともっと喋りたかったのに!」
「ごめんね、B。でもあのまま見てたら余計なことも言い出しそうだったんだもの。強制切断も止む終えないわ。あと日頃の行いも悪い」
「ひどい! いいじゃんか別にさ。Dが知っても笑って許してくれるくらいの些細なことだろ?」
「ほら! Bったらそんなんだから。Dは悩みすぎなの。だから余計な心配をかけるわけにはいかないのよ。だから私や貴方やCで色々やってるんでしょう? 分かってる!?」
「分かってるって。何はともあれ結果オーライ。うまく行ったってことで許してけろ」
「反省してる?」
「してるさ! 我らがDの行く末に黒雲は作れないからな。今回だって、は俺の作った可愛いロボットウサギは十分役に立っただろ? ……まあとは言え、最終的な決め手はDの人徳だったような気がするけどな」
「そうね」
「そもそもDはさ、俺ら科学者と違って人格者だから、なんかあっても関係無くみんなついていくんだよな。Dは自分がAの腰巾着程度の存在だと思っているようだけど、実際はどうなのかね? 逆なんじゃあないかと俺は邪推してるが、まあいい」
「ふふ、BはDのこと結構好きみたいね」
「まあな。根暗なCも含め、みんなDの事が大好きさ。でもあいつには俺やCなんかよりもAが似合ってると思う」
「あっさり引いちゃうの?」
「バカ言え! あんないい女だぞ、ほっとけねえよ。でも親友としてAには一回だけチャンスをやったのさ。恋愛音痴のあいつがそのチャンスをフイにしやがったら、俺がDを……」
「ゲスい話はいいわ。まあ私たち外野は外から見ていましょ」