第二話 Aのこと
少し昔では銀行マンや商社マン達は苦いコーヒーを飲みながら夜遅くまで働いていたものだったが、EIが仕事の大部分を担うようになって彼らも夕方に定時退社できるようになったらしい。そんなニュースを見た。自由時間を得た高給取り達は各々の消費に走り経済に貢献してくれる。数年前に比べて街が活気に満ちているのは気のせいではないだろう。
夕日が東京のオフィス街を淡く黄昏色に染め、仕事帰りの客で駅近くの喫茶店が混み始めた頃、私は時々この店、トリスタンに来る。オフィス街の片隅にある人気の少ない喫茶店だ。白熱電球がオレンジ色に照らす喫茶店内はオーナーの趣味か、古めかしいイギリスのバーの様な趣の内装になっている。店に入った瞬間に時間の流れが変わったような感覚にとらわれる。リラックスするにはこういう店が一番いい。
「いつものよろしく」
初老のマスターにそう言って私は店全体が見渡せる奥まった席に腰掛けた。ここがお気に入りなのだ。帰宅ラッシュの少し前に退社する(私の特権だ)から大体好きなところに座ることができる。働く時間をコントロールできることはいいことだ。All things are under my control。人生の主導権は自分の手にあるべきなのだ。何かの本に書いてあった言葉は今では私の座右の銘となっていた。
カラン、とドアのベルが揺れる。
入口を見ると、古い友人が出来るOLといった風格を漂わせて入店してくるのが見えた。佐々木花、高校時代バレー部で苦楽を共にした友人だ。高い身長を活かしてアタッカーをやっていた。ちなみに私は冴えないセッターだった。長い黒髪は風にしなやかに揺らめかせながら私を探しているようだった。美しい黒髪の間から覗く整った顔は健康的に日焼けしていて、まるでスポーツ選手にスーツを着せたようながっしりした印象を受ける。
彼女とは今でも月に一度くらい会うことがある。立場もなく、気楽に付き合える数少ない親友。いつの時代も彼女のような存在は大切にしなければならないと思う。世の中がインターネットで繋がって便利になっても、人と人との繋りは大切なのである。
花はたしかEIを卸している大手商社でバリバリ働いていた気がする。彼女が夕時までに仕事を終えられることが自分の開発したEIのおかげだと思うと少し嬉しい。同時にこういう時間を作ることにも貢献している自社事業の多様性も実感した。
「やあ」私は右手を上げた。
* * * * *
「そういえば、さ。彼とはどうなの? もうずいぶんになるでしょ?」
二時間近く雑談に花を咲かせた後のことだった。話の切れ目が見えた時、花は急にそう聞いてきた。私は花が「そういえば、さ」と切り出してくる話題は彼女が一番聞きたい本題であることを長い付き合いから知っていた。
「彼?」
「Aのことだよ。あんたたちは大学生からずっと一緒に居るじゃない? 会社も一緒に作っちゃうしさ。もう10年くらい? あたしはずっと付き合ってるもんだと思っていたけど、違うの?」
「うーん、付き合ってはいないよ。キスもセックスもしてない。あんまり記憶にないけど手ぐらいは握ったことがあるかも。とにかく、私が一方的に憧れているだけって感じかな。片思いというほど強い恋愛意識は無いからそこら辺の距離感はよく分からないんだよね」
「なにそれ! 中学生じゃないんだから。お互い好意を持っているのは確かなんでしょ? もういい歳なんだから今後の身の振り方も考えた方が良いんじゃない? お節介なんだけどね」
「分かってるよ。多分。ただ今は、今のままの関係が心地よくて、仕事を含めて日々が充実してるから変化させたくないだけなの」
「なの、じゃないわよ! 乙女か! まったく……。仕事もできる、顔も悪くない、何より長い時間を苦も無く共に過ごせる存在って、結構貴重なのよ? あんたはそんな相手がいる幸せを分かっていないし……、傍から見てるあたしの身にもなってよっ」何とも形容しがたい声色で花はそう言った。
「そう言われてもな~。花はどうなのさ? ここ数年は会うたびに付き合っている男が変わっていて長続きしていないみたいだけど」
「余計なお世話! 後、話を逸らさないっ。あたしみたいなどこにでも居るキャリアウーマンの恋愛事情なんてどうでも良いのよ。世界中を股にかけて活躍する企業の、そのトップ二人の男女の恋愛事情の方が重要だし、気になるのよ。あたしがね」花はふんっ、と鼻を鳴らして一息ついた。
ちょうどそのタイミングで頼んでいたホットコーヒーとモンブランが運ばれてくる。話の区切り目にはちょうど良い。花がなにか言う前にモンブランを口に運び、その後に芳醇な香りをさせているコーヒーを口に運んだ。深い苦味は気分を落ち着ける。
親友のお節介には困ったものだと思いながらも、そうやって心配してくれる心優しい花に心のなかで感謝しておく。私は良い友人を持った。花も、AもBもCも、そしてヒカリも。彼ら、彼女らのような素晴らしい人間に比べて私はあまりにも凡庸で、我ながら情けなくなるが、それを差し引いてなお余りあるほどに私は他人との巡り合わせに恵まれている。そう思った。
* * * * *
コーヒーを半分ほど飲んでテーブルにカップを置く。椅子の背もたれに体重をかけ、天井を見上げると格子柄の模様のライトが吊り下がっていた。ぼんやりとした視線を送りながら、花の言ったことについて思考を巡らせる。
Aは私の憧れの存在だった。特段容姿が優れているわけではないが、所謂天才的な頭脳の持ち主だった。彼の思考は私の知る限り誰よりも早く、そして誰よりも深い洞察を含んでいた。
初めて出会ったのは大学の時だった。二回生の時に同じ専攻を選んで、彼の存在を知った。彼は大学では余り目立つタイプの人間ではなかったけれど、私には不思議な存在感を持っているように見えた。
ある講義を受けた際にAと私の二人で一つのレポートを作成することになった。内容は【日本の教育制度の概要と問題点、改善案について】だった。今でもよく覚えている。理系の大学でも一般教養の単位を取ることが義務化されており、そんな科目の中の一つだった。
塾講師のアルバイトをしていたこともあって私には得意なトピックだった。論述したいことはいくらでも思いついた。でもペアのAはどうだろう? 彼がレポートの作成を一任してくれるなら私の好きなように書き上げてしまおうと思った。逆に彼なりの意見を出してくれるなら、意見をぶつけてディスカッションしてみてもいいと。
結果は後者だった。しかもAはまるで大学教授が如く教育の歴史や海外の動向を踏まえた俯瞰的な視点で見た日本教育についての彼の見解を示してきた。情報量と理論の緻密さは私の考えていたものを遥かに上回るレベルのものだった。あまりに打ち負かされたので敗北感よりも舌を巻いて感心するところが大きかった。レポート堤出の締め切りまでは課題が出されてから二週間もあったが、Aからあふれだす意見を検証し、夢中になってディスカッションしているとあっという間に時間が過ぎてしまい締め切り二日前からは二人がかりで徹夜でレポートを仕上げる羽目になった。ただ眠かったし、忙しかったけれど、彼とのディスカッションは楽しかった。
結果として、最終的に提出したレポート枚数はA4用紙五十八枚に及んだ。自分で言うのもアレだけれど、内容は非常に高レベルでウィットに富んだ考察が加えられて、枚数は少ないが文系の修士論文のような高密度の物ができた。実際提出先の講師から電話がかかってきて、学会で使いたいという旨の相談を受けたことからその内容についてはお墨付きを貰えたと思っていいものだと思う。
さておき、これが私とAとの最初の出会いだった。その講義の後、Aと会うことは暫くなかったが、私のなかにAという切れ者が居るという事実はいつまでも残り続けた。
それから二年近くが経って研究室配属されるとき、私はAと同じ研究室に入ることになった。実はBとCも同じ研究室だったのだけど、彼らは失礼ながら私の眼中になかったし、Aの話とは関係ないからここでは置いておこう。
それからだいたい七年。ひょんなきっかけから初のEIであるヒカリを生み出し、綿密な計画のもと起業して今に至るまで、Aと私は常に良いパートナー関係を築いていた。恋愛ではなく、友情に似た関係だ。お互いの性を意識したことは殆どなかった。
花にも言ったけれど、私はAとのそんな心地良い関係に甘んじている。変えなくてもいいのなら、そのままでいいと思っている。Aは私のことをどう思っているだろう? 恋愛感情を抱いているだろうか?
まあ、どうでもいいと思う。そんな思考はよくある男女の駆け引きみたいで、私とAには当てはまりそうも無いからだ。Aが恋愛感情を抱いていようといまいと、私とAとの気持ちの位置関係は変わらないだろう。変わるのは物理的な位置関係くらいだ。駆け引きする程リスキーな関係じゃない。
それなら、一度Aに聞いてみても良い。なんだかプロポーズするみたいで恥ずかしいけれど、恥ずかしがるような間柄でもない。きっと彼の返答結果は私の人生を大きく左右することになるけれど、私ももう三十路になる。人生の分岐路は自分で決める歳だ。
* * * * *
思考の海から浮かび上がって、宙に浮いていた視線を下ろしていくと思案するようにこちらを見ていた花と目が合った。沈思黙考している私を待っていたようだ。
「あっ、お帰り! どう結論出た?」
「うん。私からAに聞いてみるよ」
「わお! あたしが思っていたよりも何ステップも飛ばして結論に行っちゃうのね、あんた!? きっとあんたのことだから、今あたしが何言っても無駄だと思うけどね? 物事には順序ってもんがあるでしょうが! 親しい中にも礼儀ありって古い言葉があるように、長年苦楽を共にして連れ添った仲であるあんたとAでも、いきなりはダメだと思うの! ねえ、聞いてる!? 事の重大性をわかってる!?」
「あー、聞いてるよ」残りのコーヒーを飲みきった。
「わかってないっ!?」
「そうかも」
「うー、どうかAさんこんなDを救ってあげてください……! これでも彼女は私の親友なんです!」そう言って花はどこか遠くの神に拝むようにあさっての方向に手を合わせた。
「大袈裟だなぁー」
近くを通りがかったマスターに追加のコーヒーを注文した。彼女との雑談はまだまだ長引きそうである。