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本当に高貴なものには色がある。
暗く紫みのかかった紅である蘇芳。朱鷺の風きり羽のような薄いピンクである鴇。可視光のうちでもっとも波長の短い紫に似た菫。藍染の浅い、青と緑の間にある浅葱色。山間に生える赤い根をしたつる草からとった茜。そして桃の花から染めとった桃色と。
芹沢雅には色がない。高貴ではないと、柳ヶ瀬尋司は知っているということだ。
他にも気がついている人はいるのだろうか。
考えてみればそれほど難解なことではない。知っている人がいてもおかしくないことだし、気がついた人が広めるかもしれない。
甲斐雪人は与えられた部屋のベッドに腰かけながら腕を組む。部屋はそれなりに広い。甲斐が純正芹沢学園の宿舎に借りている部屋よりも広い。芹沢雅はシャワーといったが、ユニットのバスがついていて、机にテレビもある。南側に窓がついていて、今は夜で外の様子は分からないが、明るい時間であれば森の様子が一望できるだろう。
けれど、甲斐の心の中は穏やかではない。
いくつか気になるところもある。
胸を不安が渦巻いている。もし、現状を篠塚桃花に話したとしたら、彼女は甲斐が不安としていることを言い当てることができるだろうか。それとも、すでに歯車は完成し、不安を避けることはできないと冷めた口調で言うかもしれない。
ドンドンドン!
と、突然部屋の戸が激しくノックされる。甲斐の心臓が大きく振動する。
「助けてぇー」
死にそうな声が響く。夢宮さやかの声だ。とっさにベッドの枕側についているデジタルの時計を見た。12時の少し手前だ。
「どうした?」
甲斐は立ち上がると、扉を開けた。泣き顔の夢宮が立っている。
「どうした?」
もう一度聞く。
「ううう、助けてぇ」
「だからどうしたんだ?」
「課題が全然終わらないの」
見ると紙の束を胸に抱えている。言葉を失った甲斐の横をぐいと通ると、夢宮甲斐の部屋の机に紙の束を置いた。
「助けてぇ」
「……なんだよ、助けてって。手伝えってことか?」
「だってぇ、三時間必死こいてやったのに、まだ三分の一くらいしか終わってないんだよ? どう考えても間に合わないんだものー」
「三時間で三分の一ならあと六時間で終わるじゃないか」
「そんな数学嘘だぁ。どう考えても間に合わないよ。私の寝る時間は?」
「一時間くらい」
「私のお風呂の時間は? だってすんごく広いんでしょ?」
「広かったね」
「ああん、入りたいもの」
「だったら睡眠時間ゼロで」
「絶対無理ー」
「こんなところで油売ってたら間に合わないよ」
「ううう、雪くんの意地悪」
言葉とは裏腹に、すでに紙の束から一枚を選び出して、手は動いている。
「あのねぇ、自分の部屋でやってくれるかな」
「こんな哀れなわたしのために、夜食を調達してきて」
「は?」
「お・ね・が・い」
「そんな声色を変えないでくれ。たく、夜食なんてあるのかね。まあいいけど、ちょっと下を見てくるよ」
「ありがとう、やっぱり雪くんは優しいね」
「口じゃなくて手を動かせ」
はーい、と夢宮は返事をする。一応課題をこなそうという姿勢はまじめなのかもしれない。不思議だ。
甲斐は部屋を出る。ひっそりとしている。廊下はひんやりとしていて気持ちがいい。左を向くと、ずっと先に廊下は伸びている。そのずっと先に、自分の姿が映っている。けれど、あんな場所に等身大の鏡が置かれているのはどうも不自然だ。
甲斐はその角までやってきた。今はカーテンで隠れているが、右手にも同じように鏡が置かれていた。何の意味があるのだろう。分からない。
甲斐は階段を下りると、先の廊下を右に曲がる。まっすぐ行けばキッチンに繋がっているが、その廊下の先から明かりが漏れている。誰かがいるようだ。
キッチンに入ると、ダイニングのテーブルに藤枝百合子が一人座っていた。
「あれ、甲斐くん、まだ起きてたの?」
「先生も。て、何飲んでるんですか?」
「ワイン。発見したので飲んでます。だって、まだ眠たくないんだもん」
「だもんって」
「何よ、文句あるの?」
藤枝は生地の薄そうなピンクのチェックのパジャマを着ている。その前にはボトルが二本とグラスが一つ。すでにグラスには何も入っていない。
「文句はありませんけど。何かつまめるようなものってないですかね」
「チーズなら発見したわ。カウンターの下の棚にお菓子も入ってたわよ」
「ありがとうございます」
「私にも何か一つ持ってきて」
棚を覗くと確かにお菓子がたくさん入っている。インスタントのカップめんも発見し、甲斐はそれを手に取った。別の棚にヤカンを発見し、そこに水を入れるとコンロに火をつけた。それから適当にお菓子を持ち、ダイニングに移る。
「あらあら、夜食ですか、関心できませんね」
「注意されるとは思いませんでした。でも、僕じゃないですよ」
パーティーのように袋を開けると、甲斐は一枚お菓子をつまんだ。
「それよりも、甲斐くん、覚えてる?」
「何をですか?」
「約束したじゃない。図書棟の幽霊を一緒に探してくれるって」
「しましたけど、探して見つかるものかどうか。全然目的が分からないし」
「そうね。そういえば、芹沢お嬢様の首に二つの傷があったじゃない。あれって、もしかしたら吸血鬼に噛まれたのかもね」
「なんですか、急に」
「なんでも繋ぎたくなるものよ。幽霊が残した本の一つにドラキュラがあったのよ」
「そうなんですか?」
「ええ」
「先生は、幽霊が残した本を知ってるのですよね。他には何の本を残したのですか?」
「秘密」
「それでは、幽霊の本を片付けたのは先生ですか?」
「いいえ、片付けていないわ?」
「片付けたのも幽霊でしょうか、それとも他の先生でしょうか」
「そういえば、私は片付けていない。どういうことかしら、誰が片付けてくれたの?」
「それではその本を知っている人が幽霊かもしれないですね」
片付けたのは篠塚かもしれない、と思いながらも甲斐は柳ヶ瀬尋司の言葉を思い出す。関係があるのだろうか。
「方法序説、ドラキュラ、君主論、ファウスト」
「そうよ、その四冊だわ、残されてたのは。甲斐くんが幽霊ということ?」
「違いますよ」
ヤカンがピーとなり、甲斐は立ち上がる。
「でも、もしかしたら幽霊の正体が分かるかもしれません」
「さすが甲斐くんだわ」
「ええ、努力します」
分からない、何も関係がないかもしれない。
甲斐はお湯とカップに注ぐと、藤枝に挨拶をし部屋に戻った。




