クレイドル・4
クレイドル・4
病院の待ち時間というのはいつも暇というか、気が重いものがあると伊勢京太郎は思っている。
なぜなら、病院に行く行為そのものが自分がいくら病気が寛解に向かっているとわかっていても、まだ、医者の問診と処方される向精神薬がないと、生活はままならないわけであるからだ。
伊勢京太郎は、病院に来るたびに自身が未だ「病人」であることを自覚することとなり、それが彼の気を滅入らせる要因となっているのだ。
伊勢京太郎が通院している病院はとても小さな規模で、駅チカのビルの三階の一フロアに居を構えている。心療内科医は園山邦夫一人しか居ない。その他、アルバイトの医療事務員が三、四名ローテーションを組んで、受付業務などをこなしている。
〈園山メンタルクリニック〉は、伊勢京太郎が住む刈羽市の隣の市である池鯉鮒市にあり、彼の家からは単車や車で片道三十分ほどかかる。普通に通院しても彼の体調からすれば億劫な距離ではあるのだが、椎名と暮らすようになり、三年が経ち、鬱病も寛解に近づいてきている現在では、遠回りしてドライブがてら通院するというのが常態になっていた。
伊勢京太郎にはそれが何故なのかわかっていた。病気を治すために病院に通ってはいるのであるが、病院に行くと、自身が未だに病人であると再確認することになる。それがたまらなく辛く嫌だったのだ。一種の逃避だと彼は思っている。勿論、椎名と一緒に楽しみたいという純粋な気持ちもあるのだが。
そんなことを考えていると、隣に座っている椎名が〈テレパス〉越しに、
「大丈夫ですか?不安感といいますか、焦燥感を覚えているように感じますが?頓服薬を飲んだほうがいいのでは?」
と、助言をしてきた。
伊勢京太郎は、黙って首を振り、大丈夫だと示した。
心療内科の待合室は、それらしい雰囲気を醸し出している。壁は白いというか少しクリーム色がかった壁紙が貼られ、刺激も何もない無機質なしかし温かみがないとはいえない絶妙な、いや、無難な色をしている。観葉植物はフェイクではあるが、緑色が安心感を与えているように伊勢京太郎には思えた。待合室のBGMはクラシック音楽やジャズをイージー・リスニングアレンジにしたいかにも心に負担がかからないようなものだった。
伊勢京太郎は、もしもこの壁紙がショッキングピンクで、観葉植物の代わりにアフリカのよくわからない仮面が飾られ、音楽はアルバート・アイラーのようなフリージャズだったら、どんなに面白いだろうというか、鬱病の患者の精神状態を現実に投影したらそうなるのではないかとぼんやり夢想していた。
特に、椎名は何も〈テレパス〉で言っては来なかった。精神が安定していたのだろうかこの夢想をしている間は………?
そんなことをぼーっと考えていると、伊勢京太郎の名前が呼ばれた。伊勢京太郎と椎名は、なんとなく手持ち無沙汰だったと言う理由だけで、手には取ったものの、ろくに目を通さなかった雑誌を雑誌ラックにもどし、診察室に入った。
「それでは、前回と同じお薬を出しておきますね。お大事に。」
心療内科医、園山邦夫はそう言うと、笑顔で伊勢京太郎と椎名を見送った。二人は、軽く会釈し、診察室を出て、処方箋を貰った後、薬屋に行き、薬を処方してもらい帰路についた。
ここ、数ヶ月はこのようなルーティンワークのようなやりとりが続いている。伊勢京太郎の鬱病も、寛解に向かい、安定しているということだ。
とはいえ、まだ体はしんどい。さすがに、遠回りして帰る体力は残っていない。伊勢京太郎と椎名は、まっすぐ帰路についた。途中、昼飯をスーパーの店舗内に入っているマクドナルドで調達し、家に着くなりパクつき、伊勢京太郎は布団に横になった。
布団の中で伊勢京太郎はボーっと考える。
いつか、薬を飲まなくてもいい日が来たら本当に素晴らしいとおもうのだけど、なんというかそれはそれで不安がある。何故なら、今の彼の人格は、脳内伝達物質であるセロトニンとノルアドレナリンの濃度を薬によって高められた状態によって形作られているものであるからだ。
もしも、その薬がいらなくなったとすれば、今まで、薬によって形作られていた彼の人格はどうなってしまうのだろうか?鬱病になる以前の自分に戻るのか?いや、しかしそれは今となってはどんな人格であったかわからないし、椎名と会ってからの自分というものを手放すことになるのではないか?という疑問がわいた。
伊勢京太郎は、椎名を愛している。心の底から。
でもこの気持ちを産んだ・生成した人格は、医者から処方された向精神薬による脳内伝達物質の濃度の操作によって作られたものである。果たして、病気が完全に治り、薬が要らなくなった伊勢京太郎は椎名を愛した伊勢京太郎でいることが可能なのだろうか?そんなことを考え始めるようになった。
不安と観念奔逸が止まらない。伊勢京太郎はデパスとハルシオンとロヒプノールを飲んだ。どうにもならない時は、無理矢理にでも寝るに限る。考えてもしかたないことではあるのだ。自然と鬱病になってしまったのと同じで、恋をするのも自然とそうなるもので、薬のいらない生活と自分になったとしても、また。椎名を愛することができるに違いないと、彼は根拠もなく信じることにした。
いちいち自分の不安と観念奔逸に振り回されていては治るものも治らない。ここは一度寝て、リセットしよう。そう思い、伊勢京太郎は布団をひっかぶり、眠りに落ちていった。
一方、椎名は、〈テレパス〉によって、伊勢京太郎の心の状態を分析していたが、声をかけるのはやめておいた。そっとしておいたほうが良いと考えたからだ。これは、三年前、伊勢京太郎と彼女が出会った頃では考えられないことであった。
出会った頃は、機械的に伊勢京太郎と接し、〈テレパス〉を通じて入ってくる情報を元に、身体の具合の悪さを分析し、その都度報告し、然るべき対処を取るべきだと考えて動いていたが、今の椎名は、その頃とは大分変化をしてきていた。彼のことを慮る・慈しむ感情が彼女の中で育ってきたのだった。
布団の中で、ぐっすりと眠る伊勢京太郎の髪を撫でながら彼女は微笑み、ふっと息を漏らした。
安堵の息。慈しみのこもったとても美しい感情。
椎名は、伊勢京太郎に恋をしていた。いつのまにやら、二人は相思相愛になっていた。お互いが生活を共にし、擬似とはいえ家族として生きていく内に、彼女の中で、恋愛感情というものが目覚めたのだった。
彼女にとって、それは驚くべきことだった。機人は、確かに、人間の思考をエミュレートしているのであるが、感情の機微というのは最小限に抑えられていた。しかし、それも、戦争の前線に経つことや、こうして、退役して一般生活に溶けこむことで、徐々にその制限は解かれ、ゆるやかに人間らしさを獲得することとなったのだった。
椎名は、このことに関して少し動揺した。このような感情を、人間のような感情を獲得していくことは、自分が機人であるというアイデンティティを脅かすものになるのではないかと危惧したのだ。
機人であることと、人間に近づいてくる自分。
どっちの側が自分の立つべき姿なのか、椎名は悩みつつ、それでも、今の、伊勢京太郎に対する恋慕の感情を心地良いものとして受け止め、幸せを感じていた。
変わっていくことの不安はあれど、この生活がずっと続けばいいのにと椎名は思った。それは伊勢京太郎の病気が治らないままでいてほしいという我儘でもあったのだが、それでも、彼女は、そう望むことを辞めることはできなかった。