そりゃねえぜ、パパ。
ぴっ。がちゃっ。
「もしもし、あ、ママ?」
驚くなかれ、拓也の実家は地元ではかなり有名な、代々続く、老舗の酒店であり、故に拓也はボンボン、しかも一人息子、すなわち母親はママと呼ぶようにというしつけを、幼い頃からされていたのである。
「そうよ、拓也ちゃん。もう、あなたちっとも連絡くれないんだもの。ママ心配しちゃったわ。」
ママはまるで愛人にでも甘えるが如き声音でべったりと囁いてくる。何度電話してもこれだけは慣れない。
拓也は、気持ち電話機を耳から離し、なるべく誠実そうな口調で答えた。
「う、うん、連絡しなくてごめんねママ。僕は元気だよ。」
まさか、ヘイママ、僕は今まで酒をかっくらい、ちょっと可愛いウェイトレスにちょっかい出してたんだぜ。
ヘイ。クール?男の鑑だろ?なんて言えない。
「そ?なら良かったわ。そうそう、パパが、拓也ちゃんにお話しがあるんですって。今かわっていただくわね。」
相変わらず受話口に口紅がべっとり付くんじゃねえかというくらい、受話器に近い囁きをしたあとで、がちゃっ。
ぴんこぴんこぴんこぴんこぴーん、ぴんぽろー。
向こうで保留音が流れ出した。
そこで、勘弁してくれよお。
すかさず嘆息した拓也の、嘆息の先っぽが口から出きらないうちに、
ぴんこぴんこぴ、がちゃっ。
「拓也か。パパだが。」
威厳たっぷりのくせにパパ。な声が受話器がら流れ出した。
大体において、拓也はパパが苦手なのである。
楽しげな会話をしていても、不意にそれを遮り、拓也、勉強はしているのか、或いは、こないだ、数学が五十点だったらしいな、と、わざとか何か知らないが、楽しくない方向へ捻じ曲げてしまう。
その恐るべきベクトル。
場は白け、沈黙が流れ、拓也はろくすっぽ勉強なんぞしない子供であったから後ろめたさでやりきれず、はい、とっても気詰まりな一家団欒、一丁あがり。という感じだったからである。
しかもパパは、生来頭が良いパパだったので、勉強はやらずとも出来る、よしんば出来ずとも、やれば必ず出来る。という持論の持ち主なのである。
そのため拓也は、パパと対峙すると、
パパさん、僕は勉強が出来ないよ。
しかしね、頭が良い親の子息もまた、必ず頭が良いなんて神話じみた遺伝は、ありえないんだぜ。
あるときもあるが、ないときもあるんだぜ。OK?故に愚息ですよ。僕は。
という卑屈な考えが鎌首をもたげてくるので、パパと楽しくふれあい、なんていう記憶はあまりないのである。
そんなこんなで拓也とパパの会話はどうにも噛み合わないのだ。
「で、拓也、いつ帰ってくるんだお前。」
「ええっとね、らい、来月の末?っていうか約束は出来ないんだよね、っていうか、いまレポートたまっててさっていうか。」
「いや、まあいい。それは。その話じゃないんだ。」
「えっえっ?そうなの?ああそうなんだ。じゃじゃあ何?話ってなあに?みたいな。」
沈黙。
秀才なる親父殿、すなわちパパは、愚にもつかない御子息、すなわち拓也の口調に失望したのか短く息をつき、話を切り出した。
「拓也、お前どうなんだ?」
「どっどうってなに?何が?」
「いや、つまり、決めてるか決めてないかだよ。」
パパはパパらしくなく具体性も精彩も欠いた口調でイラついたように言い放つ。
沈黙。
「・・・話が、見えないんだけど?」
絞り出したかのような拓也の言葉に、ようやっとパパは本題をはっきりと、明確に発音した。
「お前、ウチを継ぐ気は、あるのか?と、聞いているんだ。」
がーん。
目の前が真っ暗になったかのような感を抱いて、まあそれは夜だし外だから当然なのだが、拓也は酔いも醒めたというのにアスファルトにしゃがみこんでしまった。
あのデカ古い店を?俺が?俺が?どうにかやり繰りしろって?無理だよ。
潰しちまうよ。っつーかめんどくせぇよ。っつーかこえーよ。あの店の、歴史が。
拓也はよろよろと立ち上がり、ようやく問うた。
「・・本気で?」
「ああ。本気だ。パパはいつだって本気だぞ。」
「でも、僕・・何も知らないし・・」
「情けない声を出すな。知らないんだったら教えてやる。なんたってお前はひとり息子だからな。」
沈黙。
「継ぐなら一ヵ月後に帰ってこい。学校なんか辞めて。実はなあ、ママが、病気なんで人手が足りないんだ。」
拓也は仰天した。
ママが病気?じゃさっき電話にでたのは幽霊?っつーか入院してねーだけ?
「びっびょうき!?なんの??」
「なんでも糖尿病とかなんとか。まあ入院して、食餌療法をとるんだろうな。長期になりそうだからな。」
天地がひっくり返っちまいそうだ。
この楽しい生活をやめて、実家に帰れって?
パパは、継ぐんならとか言ったけど、帰らなきゃ激怒の挙句勘当、俺は文無しってことになるのは必至だ。
拓也はぐるぐる考えていた。
いつ電話が切れたのかもわからなかった。
つーつーつー。
とぼとぼと店に戻った拓也は、それまでの覇気が嘘のようにしょんぼりとして、ボソボソと金を払って、すたっ、すたっ・・・と、幽霊のような足取りで家に帰ったのだった。