はじまりは、中華料理。
ぺしぺしぺし。
拓也は一心不乱に固形石鹸を泡立てていた。
とはいえ、中央に牛の刻印がなされている石鹸は、ところどころひびわれ、ひびわれているものだから泡立たず、要するに拓也はあらぬ方向を見ながら、ものすごい勢いで両手を擦り合わせる運動をしていたにすぎなかったのだった。朝の洗面所で。
しかしこういうことをしているからと云って、彼が只の阿呆だというわけではない。
そら外見こそ金髪でピアスでちゃらんぽらん、環境問題になんて百年経っても思い及ばなそうな森中拓也二十二歳ではあるが、必要最低限のIQおよび世間常識くらいは身に備えているのだ。
やたら馬と鹿をくっつけて連呼してはならない。
ともあれ拓也は石鹸を両手の間でひとしきりくるくるしたあと、あらぬ方向を見ながらそれを顔に塗ったくって、水でざぶざぶした。洗顔である。所要時間三十分。
そしてやっと洗面所から出ると、時計を見やって嘆息した。
六畳一間のフローリングは、パンの包装袋、紙屑、割り箸、弁当の空き容器、ひっくり返した灰皿とたばこの吸い殻、ペットボトルなどで、まるでこの世の果ての如き、戦のあとの夢の如き、散らかり様である。
それを放置して、拓也はシャツ状の、くたくたの上着を黄色いシャツの上に羽織った。
さて、森中拓也はなぜ洗顔に三十分もかけたのか、というか、なぜこのように落ち込んでいるのか。
話は二日前にさかのぼる。
二日前、拓也は繁華街にいた。
場末のような様相を醸し出す中華料理店で、ビールを呑んで、いた。
「ちょー、ファンちゃーん、ビール足んねーよー。もってきてよー。ついでにキッスしてよー、俺にー。」
等と言いながらその店の看板ウエイトレス、雲南省出身のファンちゃんに絡んでいたのである。
「しずかにする、あんた」
ファンちゃんは眉根に皺を寄せながら、迷惑と言えども客だしな、給料入るまでがまんがまんね、といった態度で、渋々拓也にビールを運んだり、尻をさわられたりしていた。
「おーい、おやっさん、マーボー豆腐とかちょーだいよー、みたいな。」
完全に迷惑なダメ客である。
おやっさんはニコニコしながら、その裏にそれ以上騒いだら殺すぞ的な殺意をこめて言った。
「たくちゃーん、呑みすぎじゃなあい?」
「おっ?そうかなー?まだまだいけるんですけどー、みたいな。」
拓也がこのようにぐてんぐてんになるのは何も特別なことではない。
彼は大学生、しかもこの中華料理店のある界隈で、日払いのアルバイトをしていた。
そして、アルバイト先である建築現場から引き上げると、家に帰る前にこの店で飲食をするというのが彼の日課だったのである。
マーボー豆腐が運ばれてくると、拓也はまたファンちゃんにビールビール、っつーか結婚してファンちゃあん、等と言い付け、箸をもってこれを食い始めた。
と、不意に携帯電話が鳴った。
拓也は、なんだよー、うっせえな、げっ!!実家からじゃあん!と呻き、おもむろに電話機を耳にあてた。
と、同時に、ビールを持ってきたファンちゃんの横を走りぬけ、表に飛び出した。真顔で。