第三章「姉弟子たち」
イケズ、ぶぶ漬け、ピアノお上手でんなあ、と「京都の姉弟子」について心配していたナナだったが、実際は真逆だった。
「飛ぶ前にな、まず立ち方と歩き方からやで。そこが一番だいじやさかい」
と、始まったのが、日本舞踊の基本稽古だったが、姉弟子の一人が着物から帯から襦袢から足袋からの、衣装一式を用意してくれた。
「うちのお古やけど……サイズ合いそうやし、よかったら使う?」
と言うが、着物は何回か袖を通した程度のほぼ新品だった。それも京友禅の絵羽物で相当なお値段と推察される。襦袢と足袋はまっさらな新品。
浴衣以外の着物なんて初めて着るナナに、姉弟子たちが丁寧に着付けをしてくれた。
座敷に出たナナは、慣れない足袋が畳を滑って、盛大にすっ転んでしまったのだが、笑われるどころか、姉弟子たちは真っ青になって駆け寄ってきて、
「ナナちゃん、大丈夫やろか」
「どこか痛うない?」
「頭、打ってへん?」
危うく救急車まで呼ばれるところだった。
(板橋の姐さんたちとぜんぜん違う)
そもそも板橋は東京の中でも、優雅とか上品とは逆方向の土地柄だ。図書委員も同樣で、妹弟子への指導もガサツでラフだ。
(今はまだマシになったほうで「無理扁にゲンコツと書いて姉弟子」なんて言われた時代もあったって明姐さんが教えてくれたっけ。当時の図書委員は血気盛んで、板橋区と隣の北区と、図書委員同士が荒川の河川敷で集団決闘したこともあった、とか)
ナナの脳内イメージは、昭和時代の東映ヤクザ映画や、本宮ひろ志のまんがだ。
(京都はもっとキツイと思ってたのに。暴力よりもむしろ、精神的にいろいろと)
三歳から習ってたピアノ教室では、ナナの上達の早さに、年長の子から妬まれたり、意地悪されたりは、しょっちゅうだった。京都じゃその数倍のあれこれがあるんじゃないかと覚悟していたのが、完全に肩透かし。
(でも、ちょっと過保護すぎるんだよね)
ナナは最初の「飛行訓練」を思い出す。
日舞を1か月ほど仕込まれてから、ようやく飛べることになった。衣装は、何と振袖だ。「お古でかんにんな」だが、ほぼ新品。
(これって帯も含めたら百万円以上するんじゃないの?)
中学校のグラウンドに集合する。姉弟子五人も全員振袖だ。傍目から見れば、ぜいたくに着飾った少女たちの初詣のような、華やかな集団だが、初の飛行訓練に緊張しているナナには、それを意識する余裕はない。
(それにしても、振袖って、キレイだけど、めちゃ重いじゃん。何で飛ぶのにこんなもん着るんだろ?)
ナナは文庫本の「古事記」を用意してきた。両手で本を挟んで合掌する。意識を本に集中する。
「うぃんぶろー」
リンガ・ビブリアでウェンタの起動ワードを唱える。
本が緑の光を発し、テニスボール大の鮮やかな緑色の光球が出現する。ウェンタのマナだ。ナナは光球を両手で吸収する。ナナの全身から緑色のオーラが陽炎のように立つ。ナナは本をバッグに仕舞う。グラウンドに立って、両膝を軽く曲げて、離陸体勢を固める。
「風間ナナ、行きます! うぇんた!」
ぶわっとナナの足元に風が生まれる。ナナはそれを受けて、思いっきりジャンプする。一気に二十メートルほど上昇する。十階建てビルくらいの高さだ。
と、下を見ると、姉弟子たちが慌てた様子で、口々に何か叫んでいる。
(何? 何? あたし、何か失敗しちゃった?)
ナナは頭を下にまっすぐ急降下して、くるりと回転して、地面に降り立つ。振袖の袖が地面に触れないように注意する。
「ちょ、ちょっとナナちゃん! そない急に上がったら危ないえ!」
姉弟子の一人が叫ぶ。顔が青ざめている。
「せやせや、あんな高いとこまで行かんでええんよ。もし落ちたら、えらいことになるし」
「見てるこっちが怖うて、心臓止まるか思たわ……」
「うち……ほんまに、ひやひやして……」
涙を流してる姉弟子もいる。
「はあ…?」とナナ。
「中一のうちはな、上がってええ高さは五メートルまでって決めてあるんよ。安全第一やさかい」と指導される。
「飛び方も違うなあ」と言われ、姉弟子が手本を示してくれる。
「うぇんた」
はんなり柔らかなリンガ・ビブリアで、足元に風を起こす。風を振袖で受けて、ふんわりと宙に浮かぶ。空中五メートルでヘリコプターのようにホバリングして、大和絵の美人画のような優雅なポーズを決める。
「これがな、ウェンタの基本の飛び方なんよ。慣れるまでは、これで十分やと思うえ」
「はあ…」
ナナには違和感以外の何物もない。
図書委員の「仕事」は学校図書館の管理のほか、週に一度の「飛行訓練」。振袖を着て五メートル浮くだけ。
それだけなら、ナナも割り切って付き合うだけで済んだ。それ以外の指導が、けっこう細かくて、正直めんどくさかった。
普段の立ち居振る舞いについては、姉弟子たちは「完璧」だ。国女のエリートお嬢さまとは違う、公立中高の生徒なのだが、皆「ええ家の娘」なんだろうとナナは思う。制服はオーダーメイドが標準。普段の服もアクセも持ち物もさりげなく高級品だし、めちゃ高い着物を「お古やけど」とナナにくれる気前の良さもある。学校では、女優や一流モデルのように振る舞って、生徒も教師も尊敬の眼差しを注いでいる。つまり「スター」で「アイドル」。
ナナもその「予備軍」扱いなのだが、どうにも心身が落ち着かない。ついついガサツな行動をとったり、乱暴な言葉遣いをして、
「違うで、ナナちゃん」と姉弟子に指導される。
また、飛行訓練初日に「古事記」からマナを取り出したのも「無作法」と指摘された。人前でやってはいけないこと、なんだそうだ。さらに課題図書をひとに見られるのもタブーであり、何を使っているかは秘密にする。そもそも「市販されてる本」を使うのは下品、と。
これはナナには理解が難しかったが、京都独特の流儀だと分かった。図書委員の多くは京都の旧家の出身だ。町家だけじゃない、格上の武家だったり、お寺さんだったり、さらに上のお公家さんだったりする。家に古くから伝わった門外不出の書物があって、その写本を自筆して、マナ源とするのだ、と。書物が秘伝なら、隠すのが当然、と。
ショックだったのは姉弟子に「太ってる」と指摘されたこと。もちろん、直接ではなく、ごくごく遠回しに、はんなりと、だが。ナナにとっては生まれて初めてのことだった。
(むしろ中学一年女子の平均よりも、ちょっとスマートなんですけど?)
姉弟子たちの身体は、とことん絞りまくられている。贅肉の一片も無い。日本人離れしたプロポーション。パリやモスクワのバレエアカデミーの研修生のような肢体だ。
「ナナちゃん、体格は悪うないんやけどな。もう少しだけ軽なったら、風の乗りがようなる思うんよ」
と言われる。
「軽く…って、何キロくらいですか?」
「うーん、三キロ…いえ、五キロくらいかな」
姉弟子のダイエットメニューを教えてもらう。野菜。鶏胸肉。プロテイン。こんにゃくゼリー。見てるだけで貧血を起こしそうになる。
「あの、ラーメンって食べないんですか? 京都には有名なラーメン屋さんが、いくつもありますよね」
ナナが姉弟子に尋ねたら、
「ラーメン…。悪魔のエサ…。地獄のカロリー…。」
暗い表情でつぶやいて、そのまま絶句されてしまった。
ナナの、日々さまざまな無作法を咎める姉弟子たちの指導の中で「天狗」という言葉が時おり交じるのに、ナナは気がついた。
「ナナちゃん、それ、天狗……いえ、ちょっと飛ばしすぎやと思うえ」
とか、
「天狗……いえ、うちらとは、また別のやり方やさかい」
という感じ。マイナス評価であるのは分かった。でも、ある姉弟子が「天狗」と口にした瞬間、別の姉弟子が「あかん」的にたしなめて、二度は言わないのが普通。何かタブーに関わることなんじゃないかと、ナナは推察していた。
中学一年の冬が過ぎ、春が来た。ナナは柳川中学二年に進級した。
二年になって、初めての「飛行訓練」。ナナと姉弟子五人がグラウンドに集合する。全員、振袖姿だ。
「さて、新学期はじめの飛行訓練やね。みんな、気合入れてやってこな。怪我だけはせんよう、そこは気ぃつけてな」
リーダー格の姉弟子が告げる。
ナナは、ちょっと体調が思わしくなかった。春休み中にダイエットを試み、野菜とこんにゃくゼリーだけの食事で体重を二キロ落としたのだが、そこから先が進まない。
(でも、二年生になったんだ。根性入れ直していくぞ)
「ああ、ナナちゃんも中学二年やったんやね。訓練も、ちょっとずつ厳しなってくるえ。心づもりしときな」
「もちろん、全力でがんばります」
「二年生が上がってええ高さはな、一年生の倍やね。十メートルまで、っちゅう決まりどす」
(十…十メートル。たった…それだけ?)
ナナの視界が急速に暗くなる。足元がふらついて、地面に崩れ折れる。薄れゆく意識の中で、姉弟子たちの悲鳴に似た叫びが、かすかに聞こえて…。
貧血を起こしたナナは、姉弟子が呼んだ救急車で病院に搬送された。点滴でカロリー補給されて、意識を取り戻す。
「よかった……ほんまによかった」
「ナナちゃん、ちゃんと生きてはった……」
大泣きする姉弟子たちに囲まれて、ベッドのナナは、長い夢から、ようやく目覚めたような、極度にクリアーな意識で「あること」を考えていた。
翌週、ナナは国女を再訪した。紫蓮院百合子にメールで面会予約をとってある。
生徒指導室のドアをノックして、「失礼します」と入室する。
百合子は、前とまったく変わらぬ、優雅で柔らかな様子だった。
(いや、金髪縦ロールの輝きと巻き数が増している。「悪役令嬢」イメージ、パワーアップ?)
前回とは違い、そこまでを観察する余裕がナナに生まれている。椅子を薦められて着席する。
「メールは、確かに読ませていただきました。ナナさんのお気持ちを、あらためて確認させていただきとう思います」
「はい。あたしは本気です。あたしは『天狗』になりたい。なれなかったら、京都の図書委員を辞めて東京に帰ります」
「その……『天狗』いう言葉は、どこでお知りになったんどすか。姉弟子の方から、聞かはったんやろか?」
「いいえ、姐さんがたは関係ありません。あたしが自分で調べたんです。京都図書委員会には非公式の別働隊があって、複数の組織があるが、総称して『天狗』。一般の図書委員の仕事は、学校図書館の管理運営と、京都の年中行事への参加。でも、図書委員の『本当の仕事』は『天狗』専任」
「本当の仕事、どすか」
「マナを使っての、DQN対策とDQ獣の退治です。東京じゃ、中学生から皆やってました。あたしは小学六年からです。警察や消防とも協働して。でも、京都じゃ日舞習って、『一年生は五メートル』『二年生は十メートル』って、何なんですか、あれって。ただのお嬢さま芸じゃないですか!」
話しているうちに、ナナの気持ちはどんどんヒートアップしていく。
「あたしが図書委員を目指したのは、自分自身の可能性を試したかったから。ウェンタとして、どこまで高く、速く飛べるか、限界にまで挑戦したかった。そして、自分が獲得した力を使って、他の誰かを助けたい。かつて、あたし自身が助けられたみたいに。その恩返しをしたいんです」
ナナの脳裏を、穂村明と最初に逢った夜の記憶がよぎる。
(明さんはDQNに襲われたあたしを助けてくれた。そして、あたしたちは「夜」を歩いて、こどもたちを助け、DQ獣を撃退して、明るい「朝」へとたどり着いたんだ)
「あたしは単純だから、馬鹿だから、ガサツで細かいことは苦手だし、礼儀作法もよく分からない。でも、飛ぶことはできる。飛んで、飛んで、もっと飛んで…」
ナナの両目から涙がこぼれ落ちる。言葉が途切れて、涙に沈む。
そんなナナを、百合子は静かに、優しく見守っている。ナナの涙が尽きて、泣き止むまで。
「……わかりました。ナナさん。あなたを『天狗』に、推薦させていただきます」
「ホントですか?」
「個人的に、よう知った方がおりますの。その方々を通したほうが、話は早う進むやろ思います。紹介状、書いて差し上げますえ」
数日後、ナナは紹介状を手に、京都府立洛中高校を訪れた。
「やる気のある子は、いつでも大歓迎や」
黒いジャージの大柄な少女――備前竜子が笑う。
「せやけどな」
隣で白ジャージの少女――香坂明里が眼鏡を押し上げる。
「鞍馬天狗党は、縁故もコネも効かへんで。百合子の紹介でもゲタは履かせへん。つか、あの金髪お嬢の関係者なら、なおさらや。逆に厳しいで」
ナナは、背筋を伸ばした。
「それでも、受けます」
竜子が、にやりと笑う。
「ええ顔しとるやん」
その視線の先にあるものを、ナナはまだ知らない。
数か月後の、鴨川。
空と風の最終試験へと、物語は続いていく。




