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第丗玖話 無幻の洋館①

夜の森は、底知れぬ静寂に沈んでいた。

風が葉を揺らす音すら途絶え、ただ濃密な闇がどこまでも広がっている。月光は重なり合う木々に遮られ、足元の頼りない道がどこへ続くのか、それすら判然としない。


毅が財布の紛失に気づいたのは、夕刻、合宿所へ戻った直後のことだった。


「悪い、和真。道場まで一緒に取りに戻ってくれないか?」


「しょうがないなあ……。急いで行こう」

二人は来た道を遡り、無事に剣道場で財布を回収した。あとは足早に合宿所へ帰る――はずだった。


だが、歩みを進めるうちに、見覚えのない景色が混じり始める。

「……こんな道、通ったか?」

「いや……おかしい。明らかに違う」

背筋を冷たい指でなぞられたような、不吉な予感が走る。木々の隙間を吹き抜ける風が、まるで何事かを囁くように耳元でざわめいた。


やがて、深い森の奥からぼんやりと、寂れた洋館がその姿を現した。

「……なんだ、ここは」

和真と毅は顔を見合わせる。

屋敷の窓はひっそりと暗く、まるでこの世のものではない異界の気配を纏っていた。


恐る恐る重厚な扉を押し開くと、そこには想像を絶する光景が広がっていた。


ロビー奥の受付では、巨大なカタツムリの従業員が悠然とペンを握り、宿泊名簿に文字を刻んでいる。その傍らでは、ナメクジの支配人がぶよぶよとした巨体を揺らし、宿泊客を恭しく案内していた。

そして広々としたロビーを埋め尽くすのは、妖怪、八百万の神々、正体不明の異形たち。彼らはグラスを傾け、楽しげに談笑に興じている。


「……なあ毅。僕たち、本当に帰れると思うか?」

「帰れる……よな。帰らなきゃ、まずいよな」

二人は息を呑み、圧倒的な異世界の熱量に立ち尽くすしかなかった。


その時、ふと誰かが袖を引いた。

「ねえ……あなたたちも、迷い込んだの?」

振り向くと、そこには一人の少女が立っていた。


幼い彼女は「もも」と名乗った。

「……本当は、違う名前だったんだけどね。魔女に名前を奪われちゃったの」

その瞳の奥には、消えない哀しみが宿っている。

聞けば、百は家族旅行の最中、近くのホテルへ向かう途中で両親とはぐれてしまったという。吊り橋を渡った瞬間、気づけばこの奇妙な森へ迷い込んでいたのだ。


「ここはね、旅をする怪異や神様たちが集う『無幻の洋館』。この館の主——魔女に名前を奪われたら、もう二度と元の世界には戻れないの」


和真と毅は、戦慄と共に顔を見合わせた。

「つまり……魔女から名前を奪い返さない限り、脱出は不可能ってことか」


百は、絶望を噛み締めるように小さく頷く。

「私はもう、ずっとここにいるの……。お父さんとお母さんに、会いたいのに」

その震える言葉に、和真は静かに、けれど強く拳を握りしめた。

「よし。だったら僕たちがこの洋館の謎を解いて、魔女から君の『真実の名前』を取り戻してあげるよ!」

毅もその言葉に呼応し、力強く頷いた。

「三人で協力するんだ。絶対、ここから抜け出してやるんだ」


二人の決意に触れ、百の濁っていた瞳に、わずかな希望の光が灯る。

「……ありがとう。でも、気をつけて。魔女はただの怪物じゃない。恐ろしく狡猾で、知恵の回る存在だから」


忠告を聞き、一瞬の緊張が場を支配する。

だが、和真は努めて明るく笑ってみせた。

「大丈夫さ。僕たち、絶対に負けたりしない」

「ああ。俺たちの名前も、お前の名前も、これ以上好きにはさせない」


こうして——。

無幻の洋館に隠された謎を解き明かし、魔女から百の名前を取り戻すための、命懸けの冒険が幕を開けた。


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