第丗漆話 終わらない競争
静かな夜の神社。
月明かりに照らされた境内の池のほとりで、和真は再び狐面の青年と向き合っていた。
「今夜は、お前に競争をしてもらう。」
青年は地面に一本の線を引き、その先に小さな亀をそっと置いた。
「お前はこの亀より速く走れる。
だから当然、すぐに追いつけるはずだ。」
和真は思わず笑う。
「何をそんな当たり前のことを――」
「だが、それは本当に“当たり前”と言えるのかな?」
青年が袖を翻した瞬間、周囲の空気がふっと変わった。
静寂の中、亀はゆっくりと歩みを進める。
和真はその背中を見つめ、一歩を踏み出した――。
亀との距離を縮めようと、和真は走り出す。
だが、すぐに違和感に気づいた。
「……遅い?」
足は確かに動いている。
しかし、亀との距離はまったく縮まらない。
それどころか、亀の進む速度が和真に合わせて変化しているようだった。
「何、これ……?」
速度を上げても、亀はその分だけ前へ進む。
どれだけ速く走っても、どれだけ強く地面を蹴っても――距離は決してゼロにならない。
狐面の青年はニヤニヤしながら、その様子を楽しそうに眺めていた。
「さて、お前はアキレス。こいつは亀。
本来ならば、お前が追いつくはずだった……だがな。」
青年が指を鳴らすと、空間がわずかに揺れた。
「俺は時を司る神の力を持っている。
だから、この競争には少し手を加えてやったのさ」
和真は歯を食いしばりながら走り続ける。
「……どんなに速くても、追いつけないの?」
亀は前へ進む。
和真は距離を縮める――だが、その瞬間に時間がわずかに引き伸ばされる。
その結果、和真が追いかける限り、亀は決して追い越されることはない。
青年は笑いながら言った。
「お前が亀を追う限り、時間は無限に細分化される。
どれだけ短い距離でも、その分だけ時間が引き延ばされ、未来へたどり着けなくなる。」
和真は息を切らせ、ついに立ち止まった。
「これは……アキレスと亀のパラドックス……?」
青年は静かに頷く。
「そう。亀が一歩進む間に、お前が距離を縮める。
だが、お前がその距離を詰める間にも、亀はほんのわずか前へ進む。
この連鎖を無限に続ければ――お前は永遠に追いつけない」
和真は悔しさに地面を叩いた。
「だったら、僕はどうすれば……?」
青年は面白そうに微笑む。
「答えは簡単だ。お前が競争を諦めることだ」
和真はゆっくりと息を整え――歩みを止めた。
その瞬間、空間の歪みが消え、亀は静かに足を止める。
狐面の青年は満足げに頷いた。
「ほらな? 時間の流れというものは、認識の問題だ。
お前が走り続ける限り、俺は無限に時間を引き伸ばすことができる。」
和真は亀の背中を見つめ、苦笑した。
「……僕はこの競争に負けたんだよね?」
青年は首を傾げる。
「いや、負けたわけじゃない。
ただ、時間の法則に従っただけだ。」
和真は夜空を見上げた。
競争は終わった。
だが、時間の謎はまだ終わらない――。




