第弐話 鏡の向こうの少女
ある夜、和真は自分の部屋の鏡をじっと見つめていた。
「鏡って、本当に左右を反転させているのかな?」
彼はそっと手を動かしながら鏡の中の自分を観察する。
和真は医学部志望ということもあり、視覚情報の処理プロセスについて考察を巡らせた。鏡の中の自分は、まるで手前の空間がそのまま続いているように見える。でも、なんだか違和感がある。
昔、理科の授業で先生が話していたことを思い出した。
***
「鏡は左右を入れ替えているんじゃなくて、単純に“表裏をひっくり返した姿”を映しているんだよ。
見る角度によっては、前後ろや上下が逆に見えることもあるんだ」
「表裏をひっくり返す……?」
***
和真は鏡の前で体を傾けてみた。すると、鏡の中の自分が、ほんのわずかに動きが遅れて見えた気がした。
その遅れが一瞬だけ“カクッ”と途切れたように見え、和真は思わず瞬きをした。
これは光の反射のせいではなく、自分の目がそう見せているだけではないか──そう考えた瞬間、
鏡の表面がゆらぎ、和真はまるで引き込まれるように倒れ込んだ。
目を開けると、和真は自分の部屋にいた――はずだった。
でも、よく見ると細かいところが微妙に違う。
鏡の中の自分の動きが、少しズレて見える気がする。これは目の錯覚なのか、それとも本当に鏡の中が変わっているのか?
時計の針は普通に動いているのに、視点を変えると、逆方向に動いて見えることがある。
これは、見る角度によってそう見えてしまうだけなのかもしれない。
窓の外の景色も普段と同じはずなのに、意識してよく見ると少し色が違って見える気がした。
色の境界が一瞬だけ“ノイズ”のように揺らぎ、すぐに元に戻った。
これは、脳が情報を処理するときにフィルターのような働きをしているのかもしれない。
「……ここ、本当に僕の部屋なのかな?」
和真がゆっくり立ち上がると、鏡の向こうで少女が微笑んでいた。
「……君は誰?」
「私は……影織。
あなた、そっち側に来ちゃったんだね」
影織は、この鏡の世界の仕組みについて話し始めた。
「そこではね、あなたが『本物』だと思ったものが、現実になるの。」
和真は、先生が話していた「鏡に映る自分の認識」について思い出した。
鏡は、映る姿をひっくり返しているだけ。
それでも、人の脳は「鏡の向こうも現実の続きだ」と考えるから、錯覚が起きる。
鏡の世界では、その認識を変えることで、見えるものも変わってしまうらしい。
「もし僕がこの世界を本物だと考えたら……世界そのものが変わる?」
すると影織は静かに微笑んだ。
「あなたがそこを現実だと信じれば信じるほど、その世界はあなたの記憶とつながっていくの。」
影織の声が響いた瞬間、部屋の空気が一瞬だけ“止まった”ように感じられた。
和真は、この世界のルールを慎重に探ろうとした。
(ここは単なる鏡の中の世界じゃなくて、僕の認識によって変わる空間だ。
でも、どうすれば元の世界に戻れるんだろう?)
彼は数学の座標の考え方を思い出した。
鏡は、映る姿の表裏をひっくり返しているだけ。
だから、基準を変えれば、前後・上下・左右のどの方向も逆にすることができる。
ただし、人の脳は「左右が逆になっている」と認識しやすいから、錯覚が生まれる。
(つまり、この鏡の世界は、実際に存在するというよりも、僕の認識によって作られた世界なんじゃないか)
「僕がここを本物の世界だと思い続けたら、ここが本物になってしまう……?」
そう考えた瞬間、鏡の表面がゆらぎ始めました。
「君は、その世界をどうするの?」
影織が問いかける。
「その世界に留まれば、あなたの認識はそこを『本物』だと受け入れてしまう。
そうすると、元の世界の記憶がどんどん薄れていくの……」
影織の輪郭が一瞬だけ“二重にぶれて”見えた。
和真は目をこすったが、すぐに元に戻っていた。
和真は静かに決断する。
「僕は帰るよ。でも、この経験は絶対に忘れない」
彼が鏡の表面に手を伸ばすと、世界が反転し、ふわりと浮くような感覚に包まれた──。
次に目を開けると、和真は元の部屋に戻っていた。
「……本当に戻れたのか?」
鏡の表面を見ると、一瞬だけ、影織の姿が映った気がした──。
その姿は“ノイズのように揺らぎ”、すぐに消えた。




