模擬戦闘
長い廊下を歩き続け、瑠衣と莉緒がたどり着いたのは、広大な訓練場だった。
冷たい金属の扉が開かれた先に広がるのは、剣士たちの戦場。石造りの床には無数の傷跡が刻まれ、かつてここで繰り広げられた激闘の名残を伝えていた。
壁際には訓練用の武器が整然と並べられ、遠くには模擬影の設備がそびえている。それらは黒く不気味な人型の的を模して作られており、ただの訓練用とは思えない異様な迫力を放っていた。
瑠衣は辺りを見渡しながら、飄々とした口調で言う。
「へぇ、なかなか洒落た場所じゃねぇか。血と汗と涙の香りが染みついてそうだな」
しかし、そんな軽口を叩く瑠衣とは対照的に、新人たちの表情はこわばっていた。
「これからお前たちには、影を模した敵と戦ってもらう」
訓練官が鋭い目で新人たちを見渡しながら続ける。
「この訓練の目的は、実際に影と対峙した時に怯まず戦えるようになることだ」
その言葉が発せられると、場の空気が一段と引き締まる。
「かつてこの訓練がなかった頃、新人類たちはいきなり実戦に向かっていた。だが、影を見た瞬間、恐怖で動けなくなり、そのまま死んだ者がどれだけいたか……」
一瞬の沈黙が流れる。
「この訓練は、そうした無駄な死を防ぐために設けられたものだ」
その言葉に、新人たちの中からごくりと唾を飲む音が聞こえた。
瑠衣はふと隣の莉緒をちらりと見る。
「氷室さんは影を見たことはあるのか?」
「……」
無視。
明らかに聞こえているのに、全くのスルー。
「……今の俺、空気扱いされてる?」
「だって話す必要がないもの」
「会話ってのは心の交流だからさ、そういうの大事にした方がいいぞ?」
「そんなもの、私には必要ないわ」
「そうか、なら俺は氷室さんの心に寄り添うために精進するとするしかないな」
「……はぁ。勝手にして」
会話になっているようで、なっていないやり取りに、周囲の訓練生が微妙な顔をする。
「与えられる課題は、模擬影を1体以上討伐することだ」
訓練官の声が響く。
「この条件を達成すれば、お前たちは今の職位である見習い剣士級から下位剣士級へと昇格できる。そして、下位剣士級に昇格できなかった者は、実戦には行けない。皆、心してかかるように」
瑠衣たちは今、治安特殊精鋭部隊の職位の中でも最下級である見習い剣士級に位置している。
そこから昇格していくごとに下位剣士級、中位剣士級、上位剣士級、精鋭剣士級、超越剣士級、伝説剣士級と職位が上がっていくのだ。そして先程瑠衣が戦った長宗我部は超越剣士級。約1万いる新人類の中でもたった7人しかいない、エリート中のエリートだ。殉職する者が多い中、そこまで上り詰めたのは並々ならぬ修羅場を超えてきた証だろう。
教官の説明に、皆ざわつき始める。
「1体くらい余裕だろ!」
「そうだよ、こんなの簡単じゃないか!」
そんな楽観的な声が上がるが、瑠衣は苦笑しながら莉緒にこう言った。
「いやぁ、こいつら影のこと何も知らねぇんだな。まあ、俺も大口叩けるほど詳しくはないけどさ」
「……無知とは恐ろしいものね。皆が楽観的なのも今だけだわ。どうせすぐにリタイアするだけ」
「なんだ、知ってんじゃねえか、影の事」
「さあ、どうかしらね」
その時、訓練官が手を挙げ、静かに命じた。
「この訓練では、ペア同士それぞれ交互に戦ってもらう。2人が模擬影を倒して初めて合格とする!では、模擬戦を開始する!!」
訓練場の中央に、黒い霧が現れた。
霧はゆっくりと渦を巻きながら、次第に形を成していく。その姿は人型に近いが、2メートルを超える巨体。全身が漆黒に染まり、鋭い爪を持つ異形の存在。
そして、その目。
赤く、冷酷に輝く双眸が、新人たちを見下ろす。
「うわっ……なんだ、あれ……」
「これが、影……?」
先ほどまで威勢の良かった新人たちの表情が、恐怖と驚愕に染まる。
緊張が、訓練場全体を支配した。
模擬影は実戦と違い、致命傷を負わせる攻撃をしてきても寸前で止まるようプログラムされている。しかし、動きが止まるという事はすなわち、実戦では死を意味するということでもあった。そしてそうなった場合訓練は中止となり、昇格もできない。
模擬影と対戦していく候補生たち。しかし、影のあまりの早い動きに翻弄され、中止になる者が続出した。
先程莉緒の言ったとおりになったというわけだ。
やがて、瑠衣と莉緒の番がやってくる。それぞれ目の前に影が現れた。
「氷室さん、ついに俺たちの番がやってきたみたいだ――」
そう言いながら瑠衣が莉緒の方を向いた瞬間、彼女は冷たい視線で影を見据え、静かに刀を抜いた。その動作には一切の無駄がなく、ただ鋭い殺気が漂うのみだった。
そして、次の瞬間――
「ッーー!」
莉緒が一閃を放つ。
その動きはあまりに速く、周囲の新人たちが何が起きたのか理解する前に、影の頭部と心臓にある核が真っ二つに砕け散っていた。
影は音もなく崩れ去り、黒い霧となって消えていく。試験官も含め、その場の全員が思わず息を呑んだ。
「……えっと、影、死んだよな?」
誰かがぽつりと呟く。試験官はわずかに目を見開きながら、静かに頷いた。
「間違いない。核を破壊した……見事だ。今年は不作だと思ったが、こんな逸材がいたとはな」
その言葉を聞いた新人たちは、ざわざわとした声を上げ始める。
「すごい……! あんな一瞬で!?」
「さすがトップ合格者だな……!」
「俺たちも負けてられないな!」
そんな周囲の反応にも、莉緒は無表情のまま刀を鞘に収め、背を向けた。
「……これで模擬試験は終わりでしょうか?」
淡々とした声に、試験官が少しだけ戸惑いながら答える。
「あ、ああ。後は義影が倒せば、2人とも合格だ」
莉緒はそれを聞くと、軽く肩をすくめた。
「そう」
そう言うと、つまらなさそうに、訓練場の端に腰を下ろす。
「次は貴方の番よ。さっさと終わらせてくれるかしら? こんなところでしくじったら、ただじゃおかないから」
その冷たい声に、瑠衣は肩をすくめながら笑みを浮かべた。
「おいおい、俺は補欠合格だぜ? 無茶言うなよ。氷室さんも見ただろ? 俺よりも上位で受かったやつが皆ボコボコにされてるんだぞ」
「それが何なの? 言い訳はみっともないわよ」
「手厳しいな。まぁいい、頑張るよ」
周囲が感嘆と緊張に包まれる中、瑠衣はゆっくりと模擬影と向き合った。
「さぁて、ぼこぼこにしてやるぜ」