黄昏の剣士、皇都を焼く
天之都――かつて東京と呼ばれていたこの地は、大和皇国の首都であり、最も強固な結界で守られた場所だった。
だが、その安全神話は、今まさに崩れ去ろうとしていた。
燃え盛る街。割れたガラス片が、炎の中で鈍い光を放ちながら散らばる。
崩壊したビルの隙間からは、逃げ惑う市民たちの絶叫が響き、痛ましい悲鳴が混じる。
舗装されたはずの道路は、無数の瓦礫と焼け爛れた肉片に埋め尽くされ、血の匂いが鼻を刺した。
この世の地獄がそこにあった。
「助けて……誰か、助けて……!」
幼い子供が、涙で濡れた顔を黒くすすけた手で拭いながら、ぼろきれのように崩れた街角を彷徨っている。
だが、その声はすぐに、轟音と炎の熱気にかき消された。
――ここは、もはや人の住む場所ではなかった。
瓦礫の山の上、焼けただれた大地を見下ろすように、一人の男が佇んでいた。
彼の姿は、まるで死神のようだった。全身を包む漆黒の甲冑は、黒煙の中でも異様なほど鈍く光を放ち、その手に握られた黒い刀は、すでに何人もの血を吸い、その刃にかすかに赤い輝きを宿している。
『……つまらぬ』
彼は、まるで石ころでも見つけたかのように、無機質な声を漏らした。
その声は、戦火の喧騒すらも切り裂くように冷たい。
『弱き者達よ、無様な逃亡はやめよ。某の刀は、強き者の血を求めているのだ』
赤く光る瞳が、じっと足元を見つめる。
彼の視線の先には、血まみれで地に伏す一人の少女がいた。
氷室莉緒――大和皇国を守る治安特殊精鋭部隊の入隊試験を首席合格した精鋭であり、若くして優れた剣技を誇る新人類だ。
だが、その彼女ですら、目の前の剣士に一矢報いることすら叶わなかった。
「……く……ごほっ!!」
莉緒の口から、血がこぼれた。
彼女の体は、すでに満身創痍だった。裂かれた制服から覗く肌には無数の傷が走り、傷だらけの腕は力なく震え、握り締めた刀はかすかに地面に触れている。
周囲には、彼女と共に戦っていた仲間の無残な遺体がいくつも横たわっていた。彼らもまた、選りすぐりの剣士だった。
それが顔を失い、四肢を裂かれ、剣士の誇りも何もかもが地に散らばっている。
「……まだ……私は……」
意識が遠のく。視界が暗く閉じていく。
しかし血反吐を吐きながらも、彼女は立ち上がろうとする。
だが、足はもつれ、再び地面に崩れ落ちた。
『ふむ、まだ立ち上がるか……面白い』
剣士は刀を持ったまま、莉緒に向かってゆっくりと歩み寄る。
まるで処刑台に上がる罪人を見るような、冷酷な赤い目が彼女を見下ろした。
『終わりだ、弱き者よ』
刀が、冷たい月光を反射する。
鋭利な刃が、ゆっくりと、しかし確実に振り下ろされる。
その動きには迷いも慈悲もなかった。
(――ああ、死ぬんだ)
その瞬間、莉緒の意識は凍りついた。
時間がまるで止まったかのように、すべてが静まり返る。
耳元で鳴り響いていた爆音も、皮膚を焼くような熱も、すべてが遠のいていく。
だが、その静寂の中で、脳裏には鮮明すぎる映像が映し出された。
焼け落ちる街。血の海に沈む仲間たち。
手を伸ばしても届かない、愛おしい人たちの顔。
そして、今まさに自分を断ち切ろうとしている黒い刃の光――。
(こんな……こんなところで……!)
胸の奥で、何かが弾けた。
それは恐怖。それは絶望。
だが、それ以上に、圧倒的な「生きたい」という感情だった。
(嫌だ、嫌だ、嫌だ――死にたくない! こんな終わり方、認めない!)
全身を焼き尽くすような恐怖が、彼女の内側をぐちゃぐちゃに掻き乱す。
心臓は早鐘のように打ち、喉の奥から乾いた悲鳴が漏れた。
震える手は、無意識に地面を掻きむしり、血まみれの指先が土を引き裂く。
(痛い、苦しい……でも、まだ……!)
目の前の死神が、自分に影を落とす。
その足音が、心臓を一撃ずつ殴るように響く。
(助けて、誰か……! 誰でもいい、私を、ここから……!)
息が詰まり、視界が赤く染まる。
命が蝕まれていく感覚に、内臓がねじれるような痛みを感じた。
(いやだ、消えたくない、まだ……!)
絶望の淵で、彼女の心は叫び続けた。
それは本能の叫び。獣のように、必死にもがく命の声だった。
(私を見て、私を見捨てないで……! 誰か、お願い――!)
生への執着が、彼女の心に小さな火を灯した。
だが、その灯火は、刃の影に押しつぶされようとしていた。
――逃げ場はない、助けも来ない。すべてが終わる。
涙が零れ、視界がぼやける。
意識の奥底で、彼女の「命」がか細く震えていた。
「お願い……誰か……!誰か、助けて――!!」
――その時、耳元で誰かの声がしたかと思うと、刀の道筋が反れ、刃先は地面に突き刺さった。
鈍い痛みの中、かすかに目を開ける。
見覚えのある黒髪の青年がそこにいた。
「……義影……くん?」
「……」
義影瑠衣――彼もまた、治安特殊精鋭部隊に所属する新人類であり、入隊後の莉緒の相棒だ。
いつもはどこか飄々としていて、軽薄な笑みを浮かべる男。
しかし、今の瑠衣の表情は冷酷で、そこには人間らしい感情の温かみが一切なかった。まるで別人のようだった。
「……なんで、目が……それにその紋様は……?」
声が震えた。
呼びかけながらも、喉の奥がひりつくような感覚に襲われる。
言葉がまともに紡げない。
何故なら、瑠衣の瞳は深紅色に染まり、目元には黒い紋様がいくつも刻まれていたのだ。
更に、全身から発せられる異様な気配が、空気を冷たく、重く染めていく。
さっきまで火の手が上がっていたこの戦場が、まるで一瞬で凍りついたようだった。
『ほう、まだ立ち上がる者がいたか』
「……氷室。よく聞け。今すぐ応援を呼んで来い。……その間、こいつは俺が引き受ける」
瑠衣の声が低く響く。
「え、貴方が……? で、でも!」
躊躇いを見せる莉緒に、瑠衣は声を荒げた。
「ごちゃごちゃ言うな! 死にたくなければ早く行け!」
「……っ!! わ……わかった!」
莉緒は瑠衣の手を離れ、よろよろとふらつく足取りで、崩壊した街並みの奥へと向かおうとした。
血の匂いと煙の渦巻く中、彼女の視界は霞み、耳鳴りが止まらない。
『……逃がすと思ったか。弱き者よ』
空気が張り詰める。剣士の赤い瞳が鋭く輝き、彼の体が漆黒の残像を引いた。
まるで影が跳ねるような速さで、彼は莉緒に迫る。
「え――」
刃が風を切り、空間が凍りつくような殺気が背後から襲いかかる。
だが、莉緒は反応することすらできなかった。
「間に合わな――」
次の瞬間、地面が爆ぜ、瓦礫が舞い上がった。
耳をつんざく轟音とともに、剣士の体がまるで紙切れのように宙を舞った。
『ッ……!』
剣士の体は数十メートル先のビルの壁に叩きつけられ、鉄骨が不気味な音を立てて崩れる。
立ち込める埃の中、漆黒の甲冑が半ば瓦礫に埋もれた。
「……お前の相手は俺だ、このクソ野郎」
瓦礫の間から見える瑠衣の姿。
彼の体から立ち上る黒いオーラが、空気を揺らし、周囲の温度を一気に下げていく。
「今……何が……起こったの……? 貴方は本当にあの、義影瑠衣なの……?」
莉緒は唖然としたまま、瑠衣を見つめる。
先ほどまであれほどの威圧感を放っていた剣士が、彼の一撃で吹き飛ばされたのだ。
その現実離れした光景に、莉緒は呆気に取られているようだった。
そこへ、瑠衣の荒げた声が響く。
「……氷室、早くしろ。今なら抜けられる」
莉緒はハッとして、体を震わせながら頷く。
「……わ、わかった!」
躊躇いを振り払い、彼女は痛みを必死に堪えながら瓦礫の間を走り出した。
その姿が煙の向こうに消えるのを見届け、瑠衣はゆっくりと目を細めた。
「さて……これで邪魔者はいなくなった」
瑠衣は地面に突き刺さった刀を抜き、黒いオーラをまとわせる。
その刃先から、じりじりと焦げるような音が響いた。
瓦礫の山の中、剣士が静かに立ち上がる。
鎧にひびが入り、頬には血の筋が流れていた。
『……まさか、これほどの剣士がいたとは』
彼は手についた血を指で拭い、口元に運ぶ。
ぺろりと赤い舌で舐めとり、その瞳が一層妖しく光った。
『某の体に傷をつける者など、久しく出会えなかった。これは実に愉快だ』
「……だったらもっと笑えばいいだろう。宴はこれからだ」
瑠衣は肩を軽く回し、首を鳴らす。
その一挙手一投足が、まるで猛獣のように研ぎ澄まされている。
『……その目、その紋様……まさか』
彼は何かに気づいたように、口元を吊り上げた。
『……ふむ、なるほど。面白い、実に面白い』
剣士の声が、ひどく愉快そうに響く。
彼は黒い刀を握り直し、足を一歩踏み出した。
その動きには、先ほどまでの余裕はない。完全に獲物を見据える捕食者の目だ。
『其処許よ。名を何という』
問いかけに、瑠衣は薄ら笑みを浮かべた。
その笑みは、いつものふざけた表情ではなかった。鋭く、冷たい、戦士の目だった。
「……義影瑠衣。黄昏の剣士クレルム、貴様は俺が殺す」
どすの聞いた低い声が響き渡る。
その名が響いた瞬間、クレルムの目にさらなる興味の色が宿った。
『……良い、実に良い。其処許が某の剣に値するか、試させてもらうぞ』
二人の間に、風が吹き抜ける。
瓦礫が転がり、炎の揺らめきが影を作る。
その一瞬の静寂。
そして、次の刹那――
空気が弾けるように、二人の剣士が同時に動いた。
黒と漆黒の閃光が交錯し、地面が裂け、瓦礫が宙を舞う。
その衝撃波が周囲をなぎ払い、炎の中に真空の道を刻んだ。
『……!』
クレルムの刀が瑠衣の刃とぶつかり、火花が散る。
二人の力が均衡する中、瑠衣は口元に冷たい笑みを浮かべた。
「どうした、もう終わりか?」
『……面白い!もっと見せよ、その力を!』
二人は再び距離を取り、じりじりと間合いを測り合う。
黒いオーラと赤い瞳が交差し、周囲の世界が色を失うような緊張感に包まれる。
瑠衣は刀を握り直し、黒いオーラをさらに濃く纏わせた。
その瞳には、獲物を逃がさないという強い意志が宿っていた。
焦げ臭い風の中、二人の剣士が対峙する。
その間に流れる緊張は、空気をも凍らせ、音すら飲み込むようだった。
街の喧騒が一瞬だけ止まり、風の音すら消え去る。
そして、次の刹那、二人の間に張り詰めた緊張が弾け飛んだ――――。