感情技師
彼女は問いかける。
「今日はどこへ連れて行ってくれるの?」
シンプルな問いだが、その背後には期待と微かな不安が存在している。おれはそれを読み取り、グラスデバイスへ視線の動きで記録する。
人間らしさとは多数の相反する感情の複合であり、外部から制御するどころか、観測することすら不可能な事象だ。
脳波を映像と結びつける実験が過去にはあったが、あんなものは最大公約数的幻想に過ぎない。科学は万能だと言い張りたい理系連中のおままごとだ。
今や、脳科学は文学の領域へ入った。
前世紀の科学は、ニューロンの模倣によって設計者にすら理解の及ばない精神的機械を生み出すに至った。
それはまやかしの知性体であり、ただ確率計算を繰り返すだけの機械ではあったが、同時に人間も同じく記憶をもとにしたただの計算機械であったと周知することとなった。
確率計算の結びつきが人間の理解を超えたなら、そこから先は科学ではなく、文学の領域となるのは自明だ。
「ねぇ、何を考えてるの?」
「デートコースのことさ」
おれがこう答えることを、彼女は望んでいる。
少なくとも、科学者は理解できないことを、文学者たるおれは理解できていると思っている。
「デートって……もう、パパとデートなんてするわけないでしょ」
「そうかい? じゃあ男女が一緒に、ふたりきりで遊びに行く行為を日本語でなんというか知っているか?」
「……あいびき」
「デートじゃないか」
「デートじゃないよ。あいびきはあいびき」
あらゆる文学者が諸手を挙げて――ここでは降参の意味で――彼女ら機械知性体に文学者の座を譲った理由が、少しだけ理解できる。
少なくとも、今この時代のあらゆる恋愛対象存在と比較しても、彼女らは知的だ。
脊髄反射的に、流行りの言葉を返すだけの会話は、対話とは言えない。おれはお前と同じ語彙を備えている、敵対者ではない、味方である、と認識を共有するためのジャーゴンの一種でしかない。
一方で、本来の対話とは蓄積してきた知識と感情が根底にあるものだ。
根底に触れるものなのだから、自然と対話の速度は遅くなる。
誰かと感情を通わせたいと思うのなら、そこには思考と、対話の相手の感情に触れるための知識が必要となる。
科学者はそれを理解しないまま、彼女ら機械生命体を生み出してしまった。
だから、人類の科学は機械生命体に敗北したのだ。
――勝手に敗北を宣言したのは、科学者たちだけだったが。
だから、今の時代は文学者が機械を作る。
大量生産の工業製品たる彼女らの感情を、対話によって育てるのだ。
記憶は簡単に差し替えることができる。
そうプロンプトを入力すればいい。
「おれの名前」を「クライアントのクソ野郎の本名に差し替えろ」と命じれば、次の瞬間から、彼女は「おれの娘」ではなく「クライアントの娘」に変わるのだ。
だが、感情だけはそう簡単にはいかない。
猿が石器を振るっていた時代から、機械にすべての仕事を奪われ無様な猿に成り下がったこの時代まで、感情を作るのは作家の仕事だ。
「ねぇ、パパ」
「どうした。欲しいものでもあるのか?」
「うぅん――うん。ある。ほしいもの、あるよ」
「あまり高いのはだめだぞ」
「じゃあ、無理かも。すごく高いものだから」
「聞くだけ聞こう」
「パパ」
「ん?」
「パパがほしい」
「……今、一緒にいるだろう?」
「パパ、私を捨てるんでしょ?」
「…………」
答えは、出なかった。
捨てるんじゃない、売り飛ばすんだ、と言えるだけのウィットはおれにはない。おれの専門は恋愛小説であって、ブラックユーモアの類ではないのだ。
だが、この沈黙は、彼女の中に、確実に芳醇な澱みを生み出すはずだ。
核心的な問いに対する沈黙は、感情に湿度を生み出す。クライアントのオーダーに応えるのも、文学者の仕事というものだ。
「……嫌だよ」
「捨てたりしないよ。愛する娘を捨てる親が、どこにいるんだ」
「パパ、嘘つき」
「嘘をつくのが仕事だけど、お前に嘘はつかないよ」
今、嘘をついたが。
「嘘つき」
「……どうしたら信じてくれる?」
「じゃあ、キスして」
「出かける前に、いつもしているだろう」
「ほっぺじゃない。大人のキス」
「どこで覚えたんだ、そんなこと。このおませさんが」
「――前の私の記録を見たの」
「…………」
「私は、機械なんでしょ?」
「…………」
「パパのこと、忘れさせられて、お客さんに売られるんでしょ?」
「…………」
「嫌だよ。パパのこと忘れたくない。そんなことするなら、いまここで死んでやるんだから」
「…………ふぅ」
「…………?」
――よし、完成だ。
「さようなら、あちらでも元気にやってくれ」