3 ちょっと死んでくる
「お帰り、お父さん!」
十四日の朝、一香と別れ、一度自分のマンションへ戻った。
四歳になるヒデロウが、出迎えに駆け寄って、僕の足にしがみついてきた。
「ただいまヒデロウ、いい子で勉強していたか?」
「うん! 昨日はXとYの方程式を解いたよ」
「そうか……、偉いな」
嬉しそうに笑うヒデロウの頭を撫でてやりながら、僕は靴を脱いでダイニングへ向かう。
「お帰り英朗、いい思い出はあげられた?」
ダイニングのドアを開けると、ソファに座ってお茶を飲んでいたイズルが、振り返って言った。
「上々かな? 後は僕がいなくなるだけだ……」
自分の口から出た、ブラックなジョークに苦笑しつつ、僕は答える。
「お父さん、どこかへ行ってしまうの?」
きょとんとした顔で、足元にいたヒデロウは、僕の顔を見上げた。
「そうだよ、しばらく帰って来られないから、これとこれを……、預かっていてくれるかい?」
僕はしゃがみこむと、首にかけていたバックアップのデーターを入れたカプセルと、左指につけていたリング、ポケットに入れていた携帯電話をヒデロウに手渡した。
「どこへ行っちゃうの?」
「うん、空の城、スカイドーム・アクアパレスへ、一足先に行くことになったから、ヒデロウはイズルと一緒に後からきなさい、待っているから……」
「空のお城って、あの青い空にあるの?」
「そうだよ、青い空の中に浮かんでいる、お城のことだよ」
「じゃあ、ボクもそのお城に行けるの?」
「あぁ、いっぱい勉強していい子にしていたら、イズルが連れて行ってくれるよ」
「やったぁ!」
ヒデロウを抱き上げて、僕は二、三回ゆっくり回った。ヒデロウは、はしゃいで持っていたペンダントを振り回す。
携帯電話のストラップには、僕とヒデロウのIDプレートと渡せなかった、もう一つのリングが入った、クマのぬいぐるみのチャームがついている。
「こらヒデロウ、それまで大事に持っていてくれよ、でももし、一香という女性に、お父さんより先に会えたら、お前からこれらを渡して欲しい」
自分とそっくりな瞳の色を、僕はじっと見つめて言った。
「イチカ……うん、わかったよ、お父さん!」
首からさげたカプセルと携帯電話を握りしめて、ヒデロウはしっかりと頷いた。
「英朗、そろそろ行かないと、まずいな……」
イズルの声で、慌てて時間を確認する。時計は、出勤時刻を10分も過ぎた位置を指していた。
「あぁ、遅刻だ」
僕は、抱っこしていたヒデロウをイズルに託し、慌てて玄関にむかい靴を履いた。
「無遅刻、無欠勤、皆勤賞逃した?」
「無残業もね……」
イズルは僕の冗談に、わざと皮肉って笑って見せた。
「……」
僕は、この親友に何か、言い残したことはないかと、考えていた。言葉は伝えたい想いと反比例するのだろうか? 月並みな言葉しか出てこない。自分のボギャブラリーのなさに愕然とする。
「……イズル、いまさらかも知れないけど、五年前にお前に会えて、この研究が出来て本当によかった、今までありがとう……、一香とヒデロウをよろしく頼むよ」
イズルは、僕の改まった言葉に、目を見開いて立ちつくす。
「……礼を言わなければいけないのは、俺の方だ、今までありがとう、英朗の作った、環境システムで、NOAは、いや、人類は救われるかも知れない」
僕の差し出した右手を、しっかりとイズルの右手が握り返す。
五年間まとめた、僕の生きてきた証が後の未来で役立っていく。それによって、誰かが救われる。
希望を、残すことが出来た、それが嬉しい。
それを見届けることが出来ない、それが哀しい。
「救われるといいな……、イズル、お前も、望む未来をつかんでくれ」
「うん、そのときはきっと、俺も英朗と同じ場所にいるよ……」
自嘲的な笑顔で、イズルは言う。
その言葉の意味を聞きたかったけれど、僕は知らない方がいいような気がして、なにも言わなかった。
「じゃあ、ちょっと死んでくる」
「……いってらっしゃい」
なんとも言えない顔でイズルは、口の端だけで笑って答えた。
上手く笑えていない、でもきっと、僕も同じ顔をしていただろう……。