2 最期の鎖
高い天井に合わせた、縦長の窓の向こうから、欅の葉を通した幾つもの日の光が館内に降り注ぐ。斜めに差し込む光を、二階のお気に入りの席で、時折見おろしながら本を読むのが好きだった。
この静かな空間を、僕は選んだ。
「どうしても会いたい、おしゃれして来いって言うから、午後の講義、自主休校したのに、図書館だなんて……、それに英朗全然本見ていないし!」
僕の隣に座った一香は、上手に重ね着したワンピース姿で、インテリアの写真集を膝の上に開いたまま、小声で僕に抗議した。
「……落ち着かない? ここ」
「え? ……うん、図書館にしては天井が高くて、開放的で居心地はいいよね、綺麗だし」
一香は、あたりを少し見回して言った。僕の欲しいリアクションとしては、50点だった。
「うん、……今日はね、僕が一番落ち着く、お気に入りの場所を、一香に知っておいてもらいたくて、呼んだんだ」
本当は、一香にもこの場所を、好きになってもらいたくて……。
一香の耳元まで顔を寄せて、僕はゆっくりとこう言った。彼女はぎこちなく、もう一度木漏れ日がさす館内を見まわした後、僕の顔を見上げて、不安そうに笑った。
「……どうして?」
僕は一香の目を、まっすぐに見つめ返す。
出会った頃からかわらない、勝気そうな大きな瞳と遊ぶようにはねるミディアムショートヘア。華奢な身体つきからは考えられない、そのバイタリティと行動力に、いつも振り回されていた。
その瞳が、今は不安そうに揺れている。
いつの間に、こんなに好きになっていたのだろう……。
「僕の所属しているチームの研究が、立て込んできてね、しばらく会えなくなりそうなんだ……」
「……どの、くらい?」
まっすぐに見つめる瞳、一香の声のトーンが、急激に落ちていく。
「二、三年くらいかな……?」
「長い、ね……、全然会えないの?」
「たぶん、結構監禁生活らしい、メールはなるべくするよ」
一香の息をのむ音が聴こえたような気がした。
とても、六年とは言えなかった。しかも、次に会えるのは本当の僕じゃない。一香は待っていてくれるだろうか? イズルが言う未来のように……。
自分自身が果たせない約束を交わしてまで、彼女を縛るほど僕は、一香を想っているのだろうか?
狂っているのかも知れない……。もう一人の自分を使ってでも、ほかの男に取られたくないくらいには。
上着のポケットに手を入れると、硬く四角い感触がする。それを拾い上げて、僕はリボンをほどく。
「これを、ここで渡したくて……」
ピンク色のケースに差し込まれた、二本のペアのリングを、一香の目の前に差し出した。
自分のわがままで、彼女を縛る罪悪感が胸の奥を締めつける。
「……何、これ?」
「……ペアの、リング、次に会う時まで、一香に持っていて、欲しくて」
受け取ってもらえるか、わからないモノをささえる指先が震える。体中が急激に熱をもった気がした。
こんな思いは一生に一度で勘弁して欲しいと本気で思う……。
「……こんなカッコイイ英朗、英朗じゃない」
ぼたぼたと涙を落とす一香は、僕のスーツの左腕に、ギュっとしがみついて震えた。
「いつも、ボサボサの髪で白衣着た、無精ひげのメガネオヤジのくせに……」
「うん」
「ずるいよ、いなくなっちゃうのに、こんなの……」
「うん」
「早く研究終わらせないと、ほかの男の所に行っちゃうからね!」
一香は、一層強く僕のスーツの腕にしがみついた。
「……うん、いや、……はい」
「浮気して、英朗なんか捨てちゃうんだから!」
「それは、嫌だな……」
「ほっとく英朗が、悪いんだもん!」
「……はい、善処します、……実は、格好つけついでに、一香さんの好きそうなホテルのディナーとお部屋、取ってみたんだけど、行く?」
めずらしく用意した、綺麗なハンカチを差し出して一香の顔を覗き込むと、真っ赤になった顔と目が、ズルイ! と睨んだ。
「……いく!」
その顔がたまらなく愛おしくて、思わず腕が、彼女を抱き寄せてしまう。
ここが図書館だということも忘れて、このまま時間が止まってしまえばいいのに、と初めて本気でそう思った。音のないざわめきを感じながら目を閉じる、一香の腕が不器用に、背中へまわる。
「英朗……、この場所に連れてきてくれて、ありがとう、すごくキレイね……」
鼻を何度もすすりながら、一香が言う。
「うん」
高い天井に合わせた窓の向こうから、欅の葉を通した幾つもの日の光が館内に降り注ぐ。抜けるような青空、斜めに差し込む光の帯。
この静かな、ざわめきの空間の中で、その言葉を聞けて、僕はもう充分だと思えた。