ひそかな制裁
あれは2006年、暑い夏だったと記憶している。今から17年前だ。
当時、外回りの仕事で、和歌山県串本町の紀伊大島を訪れた。
日本映画『海難1890』の舞台となった島である。映画の内容は、のちのトルコである、オスマン帝国の親善使節団を乗せた軍艦エルトゥールル号の遭難事件にまつわる物語だ。現在でも美談として語り継がれているので、ご存知の方も多いのではないか。
大島は、串本町から約1.8kmの沖合に浮かぶ、れっきとした有人島である。面積は9.68km2ほどしかなく、車さえあれば、小一時間ほどでグルッと名所巡りができる広さだろう。
島へのアクセスは、潮岬側から、くしもと大橋を車で渡るわけだ。
真っ青な太平洋と、海食崖(波などの侵食によってできた切り立った崖)が目立つ大島の外観は絶景に値する。
そこへは、顧客ルートを巡回しに行ったのだった。
有体に申せば、某配置薬の仕事だった。あの当時、離職率は、なんと85%を誇る真っ黒な職場だった。長時間労働、給料が低い、見なし残業という免罪符、パワハラ、昭和時代の精神論……。あげればキリがない。最近世間を騒がせている某中古車販売・買取会社ほどではないにせよ、体育会系のノリの、典型的なブラック企業だった。
今さらながら切に思う――ブラック企業は勤めるだけ時間の無駄である。さっさと他へ移らないと、あらゆる面で取り返しのつかないことになる。
なぜ一度だけ、大島へ行かされたのかは、はっきりと憶えていない。
本来は僕の担当地区ではなかった。担当者になんらかのイレギュラーがあって、代わりに足を運んだのだろう。
島の客のほとんどは、誰もがのんびりした人柄だった。現役漁師もいたし、なかには若い主婦も含まれていた。しかしながら、配置薬の顧客の7割強は老人だ。
港町をまわり、一軒の老人宅を訪ねてみた。
アポなしの突撃だった。当然、初対面。あのころは私物の携帯しかなく、電話料金をケチったにすぎない。迷惑極まりないやり方だと反省している。
玄関先でしゃがみ、客の救急箱を点検している最中だった。傍らで、眼鏡をかけたその老人は、椅子に腰かけたまま、僕の仕事ぶりを見つめてくる。
70半ばから80歳すぎぐらいだろうか。
腰も曲がっておらず、さほどお年を召されているといった感じではない。頭のしっかりした人に見えた。些細な受け答えでわかる。耳も遠くない。
やや神経質そうな内省的な面差しの人で、若いころは文学青年だったのではないか。知的な翳りをとどめていた。
なんだか深刻そうな表情をしている。
こちらは緊張しながらの点検になった。しゃべりながらチェックすることも多いが、その老人はあまり饒舌な方ではないらしい。
話の弾む人なら、長話で相手の気持ちをほぐし、栄養ドリンクや健康食品を勧めたりするのだが、どんな営業マンも無口な顧客は苦手とした。早く次のお宅へ行くに限る。
点検をすませ、薬を使用した分の代金をいただいた。
新しい薬品を補充し、お別れの挨拶をすませ、そろそろ腰をあげようとしたときだった。
「な、兄さん。ちょっとお時間、いただけないかね。折り入って、僕の話を聞いて欲しいんだが」
と、その老人は言うのである。
「別にいいですよ。今日は充分、お客さん宅を訪問しましたし」
僕はふたたび薬品と健康食品がたっぷり詰まったトランクを置いて、玄関にしゃがんだ。
幸いにして、1日の売上もそこそこあったので、内心余裕もあった。焦る必要もあるまいと思ったのだ。
まんざら人様の話を聞くのは嫌いな性質ではない。
当時は休日に小説を書く気力など欠片もなかったが、いずれは創作する日が必ず来ると信じていた。
だから客とのやり取りで、ネタになりそうなものは貪欲に吸収すべく、僕は腹を空かせたコヨーテのように狙っていた。
――ちなみに、拙作『空を飛んだおばあちゃん』(シリーズ・★オススメ短編集★に収録しています)も、同時期に顧客との会話で、ネタに使えるとして創作した話だったりする。興味を憶えた方は、ぜひご一読あれ。
◆◆◆◆◆
「実はな、僕は若いころ、戦地へ出征していたんだ。その話をしたい」
と、彼は重い口を開いた。
今となっては老人が、どこの国へ出征していたのかは失念した。配属されたのは後方支援部隊かなにかで、主に味方の兵士のご遺体を回収するような任務についていたという。
「戦争を体験したことのない君ら、若い人たちには考えられんだろう。迫撃砲やら艦砲射撃やらでバラバラにされた人体を、僕らはかき集めたもんだ。腸やら手足の部位やら、そこらじゅうに散乱して肉片と化している。戦争の前には、人間はただの挽肉にすぎんかったよ。あまりにも惨すぎた。あれこそが、この世の地獄だと僕は思った」
「はい」
「ひとつだけ、長年喉に痞えて、誰かに話したくて話したくて、しようがないことがあった。特別に君にだけ、それを告白したい。君を見ていると話したくなった」と、老人は俯いて言った。そう言っていただけたのは褒め言葉なのか。顔の傾き加減で、眼鏡のレンズの奥の気弱そうな眼が見えなくなる。まるで涙をこらえているかのように、しばたたいているのだけはわかった。「僕はね――人を殺したんだ」
「戦場なら仕方のないことじゃないですか。軍の命令なんですから」
我ながら要領を得ない返事をした。
老人は首をふって、言下に否定した。
「そうじゃない。僕は同胞を殺した。同じ日本人をだ」
さすがに言葉に窮した。
老人は訥々とした口調で続けた。
戦時中、軍隊のなかでは、上官による私的制裁――つまり、リンチが横行していた。
この手の話は、僕の祖父からも聞かされていたので、さほど驚かなかった。
やはり祖父さえも、上官による憂さ晴らしのビンタをよく食らわされたと言っていた。
戦後、よく戦友会への誘いのハガキが届いたが、暴力をふるわれたことをずっと根に持っており、絶対に出席しなかった。仲の良かった戦友とも会えただろうが、一度たりとも顔を出すことはなかった。
ましてや日本が敗色濃厚になると、上官の苛立ちは、なおさら末端にぶつけがちになったという。
ちなみに祖父は台湾へ行かされ、ゼロ戦の整備士として従事した。親切な台湾人に恵まれたらしく、戦時中の話をさせると、まるで昨日のことのように眼を潤ませて生々しく語ってくれたものである。その祖父も、かれこれ14年前に92歳で他界した。
どうやらその顧客の老人も同じらしい。
二等兵たちは理由もなく叩かれ足蹴にされ、怨みつらみを抱いていた。今も昔も、軍隊は階級による厳格な縦社会。下の者が逆らえるはずもない。
やがて現地にて、終戦を知らされる。
幸いにして彼は、最前線で命を落とすことなく、日本への帰国となった。
内地へ向けて帰路についた復員輸送艦の中だった。
まさか、鬱積した若者たちの怒りが爆発しようとは――。
彼ら二等兵たちは、ひそかに結託した。
まず一人が、自分たちの上官を、夜の甲板上に呼び出した(祖父は言っていたが、察しのいい仕官なら機関室に閉じこもり、絶対に出てこなかったとのこと)。
そこへノコノコと現れた上官。終戦を迎えたにもかかわらず、相変わらず威張り散らしていたのかもしれない。
面と向かって罵倒したり、複数人で袋叩きにしてやり返してもよかったが、彼らのやり方は違った。
背後から忍び寄った若き日の彼は、小銃を構えていた。しっかり実弾を装填してあった。
いきなり、その背中を撃ち抜いた。
隠れていた二等兵らは、倒れた上官のもとに集まった。
虫の息の上官に何をしたかまでは、詳細を語ってくれなかった。いろんなドラマがあったと思う。
まだ息のある身体を、みんなして抱えあげ、夜の海に突き落とした。
結託した二等兵らは涙を流しながら、このことは秘密にし、墓場まで持って行こうと誓い合ったという。
じっさい、彼らは沈黙を続けたにちがいない。
日本にかぎらず、軍人による上官殺人は重罪である。露見すれば軍法会議にかけられ、重い懲罰を加えられるのは必至。
もしも戦時に発覚したならその場で処刑され、記録上では変死、平病死、特攻として処理されたのだ。
◆◆◆◆◆
「許せなかったんだよ。あの鬼上官の行いは目に余るものがあった。僕たちは、自分たちの手で裁いた」
老人は毅然とした口調でおっしゃられた。眼には光るものがあった。
だけどあれほど墓場まで持って行くと誓ったのに、彼は独りでは抱えきれず、誰かに吐き出したくて長年苦しんでいたにちがいない。
僕は、戦争の悲惨さの一端を垣間見た気がした。
今さらヘビーな懺悔を聞かされた僕は、なんとも言えない気持ちになった。
別にこの証言を、政府に報告するつもりなど毛頭ないし、じっさい17年間、黙ってきた。
2023年の現在、その老人も果たして健在かどうか。当時75だとしても、今は92歳。80歳だったのなら97だ。後者なら亡くなっている可能性は高い。典型的な独居老人だった。男の独り暮らしだと長くはない……。
今年の終戦記念日が来れば戦後78年。
2010年4月27日に、殺人罪などの公訴時効が廃止されたのは知られているが、この件に関しては、もはや時効だろう。エッセイとして投稿しても特定はされまい。
むしろ老人は語り終えたあと、晴れ晴れとした顔になっていたのが印象的だった。
了