22 母
ホテルの部屋は、スイートルームが用意されていた。圭介さんが取ってくれたのだが、部屋に入ると、「ご結婚おめでとうございます」のメッセージカードと、花束と、ワインと、フルーツの盛り合わせが入ったバスケットが置いてあった。
「わ。すげえじゃん。夜、ワイン飲もうか。あ、でも、妊娠中は良くないか。持って帰ろうかな。父さん喜ぶな」
「うん。そうして。私、フルーツ食べるよ」
「今、食べない?お腹空いてるでしょ?俺もあまり食べれなくって、実は腹ペコ」
「うん。食べよう。どれ食べる?」
私たちは、しばらくフルーツの美味しさに酔いしれた。
それから、私は、母の部屋に電話をした。一回のコールですぐさま、母が出た。ずっと待っていたんだろうな。
ラウンジで会う約束をして、電話を切った。
「じゃ、下まで一緒に行こう」
爽太君は、ラウンジまで見送ってくれて、そこからホテルを出て行った。
ラウンジの奥には、もう母が座って待っていた。松井さんは一緒ではなく、母が一人で座っていた。
「ごめんね、くるみ…。結婚式のあとで、疲れているところを」
「うん、大丈夫…」
「何か食べる?サンドイッチかケーキならあるみたいよ」
「あ、じゃ、サンドイッチ頼みたいな」
母は、ウェイターさんを呼んで、サンドイッチと、コーヒーを注文してくれたが、
「あ、私は、オレンジジュースにしてください」
と、変更してもらった。
「あら?コーヒーが好きなあなたが、めずらしくない?」
母に言われ、私は正直に全部を話そうと思い、話し始めた。
「お腹に赤ちゃんがいるの。今、6ヶ月。だからコーヒーはやめてるの」
「え?でもあまり目立たない」
「うん。まだ、そんなには目立ってないかな」
「そう…。爽太君の子が…。だから結婚を?」
「……。赤ちゃんが出来たから、結婚を決めたのは事実だけど、でも、爽太君の子じゃないの」
「え?」
「前に付き合ってた人の子」
「どういうこと?」
「会社辞めたいって電話したよね?仕事失敗したって」
「うん」
「あのあと、江ノ島で爽太君に出逢った。会社を辞めて、爽太君の家…、カフェをしているんだけど、そこで働かせてもらって…。爽太君が好きになって、付き合うようになってから、妊娠していることに気づいた」
「爽太君は知ってるの?その…、お腹の子が自分の子じゃないって」
「知ってるよ。爽太君の家族もみんな。知ってて、受け入れてくれたの。子供が誰の子かなんて関係ない。その子ごと、まるごと愛してるって…」
「……」
「私、ほんというと、怖かったの。お母さんみたいに、私もこの子のこと憎んだり、生まれてこなかったら良かったのにって、言いそうで…」
「ああ…、私はよく、あなたに言ってたものね」
「そんなこと言って、憎むくらいなら、おろそうかって思ってた」
「……」
「でも、爽太君が、一つの命なんだよって。命はかけがえのないものだって」
「それで?」
「それで、爽太君が結婚しよう、その子の父親になるって。幸せになるのを選択しようって…」
「え?」
「不幸になることを選んだら、その子を憎むことになるかもしれないけど、でも、幸せになることを選べば、みんなで幸せになれるって。この子はね、天使なんだって…。私のことも愛してくれるって…」
「天使?」
「うん。だから生む決心をしたし、結婚も決めた。それに幸せになることも決めた」
「そう…。素敵な人に出会えたのね」
「うん」
「そう。天使…」
母は、そうぽつりとつぶやくと、涙を流した。
「お母さんね、あなたが生まれた時、すごくお父さんと喜んだわ」
「お父さんも同じこと言ってた。お母さん、子供が出来ないって言われてたの?」
「そうよ。それで、婦人科に通ってね。しばらく不妊治療をしていたけど、お金もすごくかかるし、辛いし、やめたのよ。お父さんと子供がいなくても、二人で幸せになろうって言って、それから数ヶ月で妊娠したの。そりゃ、嬉しかったわね」
「なのに…、なんで?どこから歯車合わなくなったの?」
「あなたが、小学校入る前にね、喘息になって毎日大変な時があって…。そのころお父さんの仕事は忙しくて、帰ってこない日もあって…。入院することもあった。夜中に発作が起きて、病院にお母さんが連れて行って。不安で、怖くて、毎日寝れなかった」
「知らなかった。喘息の気があったのは、知ってたけど、でも小学校上がってから発作も出なかったし」
「そうね。水泳初めて、ずいぶんと健康になったわね」
「じゃ、そのころにはもう…」
「お父さんが家に帰るたびに、責めたわ。お母さん、一人でどんなに大変かを。でも、お父さんは自分だって仕事でどんなに大変か、お前にわかるかって…。帰ってこないのは浮気じゃないかって、探偵を雇ったこともある。それがばれて、お父さんものすごく怒ってね」
「え?」
「そのころ、お父さんは浮気なんてしてなかった。本当に仕事が大変だっただけだった。でも、お母さんが疑ってから、そんなに信じられないなら、浮気してやるよって…。そのころからかな。仕事なくても家に帰らない日もあって」
「でも、小学校の頃は、一緒に出かけたり…」
「あなたのためよ。二人で、あなたの前では仲良く見せてた。必死でね」
「……」
「それも限界が来たのね。あなたが、中学生のころ、喧嘩したの見たでしょう?お父さんはくるみの前でやめろって言った。でも、お母さんには限界が来てた。それからは、何かっていうと、あなたを責めた…」
母は、ずっとずっと、苦しんでいたのか。原因は私の喘息じゃないか。
「お母さんね、あなたが生まれてこなければ良かったのにって言っては、後悔した。自分を責めて責めて…。あなたが喘息で苦しんでいるのを見ても、自分を責めた。自分のせいだって思ってた。そう思えば思うほど、苦しくてね」
「お母さんのせいじゃないのに」
「そうね。でも、弱い体に産んでしまったって責めてた…」
「……」
知らなかった。
「お母さんもね、子供のころ言われてた。お前がいなかったらって…」
「え?おばあちゃんにってこと?」
「そう。お母さんのお父さんね、あなたにとっておじいちゃん、あなたが生まれる前に死んだって言ってたけど、嘘なの。本当は、浮気して出て行ったのよ。おばあちゃんとお母さんと、小さな妹を残してね」
「……」
「貧しかった。妹は病弱だったし。おばあちゃんはなぜか、妹のことは可愛がってた。妹の世話は全部お母さんがしてて、具合が悪くなると責められて…。なんの役にも立たないって怒られた」
「……」
おばあちゃんは、まだ私が小学校入る前に一回だけ、会ったことがある。でも、もう病気で長くないって時だった。だから、あまりおばあちゃんのことは覚えてないし、知らなかった。
「妹は、9歳の時に風邪をこじらせて、肺炎で死んだの。お母さんはね、その時16歳で、高校行きながらバイトもしてた。おばあしゃんもお母さんも家にいなくて、その間に死んじゃったの…。おばあちゃんは、半狂乱になってお母さんを責めた。あんたが死ねばよかったって…。妹の変わりにあんたが死ねばよかったって…。何回も言われた」
「……」
「お母さんね、そう言われるたびに辛くて、絶対に自分の子にはそんなこと言わないって思ってたの。それなのに、言ってるのよ。まったく同じこと。あんたなんか生まれなければ…そう言ってから、おばあちゃんの言葉を思い出し、なんで同じことを言って、くるみを苦しませるのかって思ってた」
「同じ思いをして育ってたの?」
「どんなに自分がそう言われて、傷ついていたか、どんなに苦しかったか、誰より自分が1番知っていたのに…。あなたにそう言ってる時、まるでおばあちゃんが乗り移っているかと思ったこともあるわ」
「……」
「お母さんは、自分が嫌いでね。自分が怖くてね。何度ももう言うのをやめようって思ったかしれない。それに、おばあちゃんのようにはならないって、いくらお父さんが浮気をしても、離婚だけはしないつもりだった。あなたに貧しい暮らしをさせたくなかったし、また喘息になるのも怖かった。小さな病弱な妹の二の舞だけは避けたかった」
母はそう言うと、涙をこぼした。はらはらと流れるその涙は、頬をつたいテーブルに落ちていった。
それを拭おうともせず、母は、話を続けた。
「お母さん、あなたを不幸にしたくないって思いながら、1番あなたを苦しめてた。あなたを守りたいって思いながらも、1番傷つけてた。ごめんなさい」
「……」
母から、ごめんなさいってそんな言葉を聞くとは、思ってもみなかった。
「今は?今は幸せなの?お母さん…」
「今は幸せよ。やっと掴めたの。だから、あなたから電話があった時、壊したくないって思って、あんな酷いことを言った…。あれから、後悔した。何度も電話しようと思った。松井さんにその話をしたら、3人で一緒に暮らしたらいいって言ってくれた。今度こそ、あなたと松井さんと幸せになれるって思った矢先に、招待状が来たの」
「……」
私は、驚いた。私と一緒に暮らすことを考えてくれてたのか…。
「びっくりしたわ。いきなり結婚だもの。でも松井さんが良かったじゃないかって。せっかく招待状が来たのだから、喜んで祝福してこようって」
「いい人と、お母さんも出逢えたんだね」
「あなたもね。爽太君も、爽太君の家族もみんな、優しい人なのね」
「うん。ものすごくあったかい人たちだよ」
私はそれから、瑞希さんと圭介さんの共に死を乗り越えた話や、爽太君がどんなに愛されて育ったか、れいんどろっぷすの話、春香ちゃんの話、そして何よりも、爽太君がどんなに温かく、優しく、素敵な男性なのかを話した。
「愛してるのね、爽太君を。それに、愛されてるのね」
「うん」
「それが聞けて、本当に良かった」
「あ、爽太君がね、お母さんやお父さんに会って、私を生んでくれたことに感謝したいって言ってた」
「え?」
「だから、会いたいから、招待状を送ろうって…。私二人とも来てくれないと思って、送るのやめようとしてたの。そしたら、もしかしたらご両親は出席したいって思うかもしれないから、送るだけ送ろうって…」
「爽太君がそう、言ってくれたの?」
「うん。それでもし、来てくれなかったら、それが悲しかったら、一緒に泣けばいいって。一緒に悲しいこと、辛いことは、乗り越えりゃいいんだからって…。くるみさん一人じゃない。いつも俺がついているんだよって言ってくれた」
「そう…」
母は、また涙を流した。そして、ハンカチでそれを拭き、
「いい人に出逢えたのね…」
とまた、つぶやいた。
「だから安心して。お母さんは、お母さんの幸せだけ思えばいいんだから」
「え?」
「もう、私のことで苦しまなくてもいい。私も過去のことは忘れる。ううん、忘れるっていうのとは、少し違うかな。私ね、爽太君といて、気がついたの」
「何を…?」
「私は、お父さんのことも、お母さんのことも大好きだったって」
「……?」
母は目を丸くした。
「だから、愛されたいって思ってた。でもね、爽太君が、愛されたいって思わなくてもいいじゃないかって。愛することが、幸せなんじゃないかって…」
「……」
「それを聞いたら、ああ、今でも私は二人のことが、大好きだったんだって思って…。恨んで、憎んで、嫌ってた。でも、心の奥では大好きだった。そう気がついたら、幸せな気持ちになれた。だって、私、両親には憎しみの思いしかないって思ってたんだもん。それがちゃんと大好きって感情があったことが、なんだか、嬉しくって…」
「くるみ。お母さんは、こんな酷い母親なのよ。あなたに何もしてあげられなかったのよ。憎んでも、恨んでも仕方がないような母親なのよ…」
「でも、私を産んでくれたよ。育ててくれたよ」
「大好きになってもらうような、そんな資格ない。お母さんはね…」
「私を妊娠した時、喜んだ。私が生まれて嬉しかった…でしょ?」
「そうよ。あのころ本当に」
「じゃあ、いいよ。それ聞いて、嬉しかったよ」
「え?」
「生まれてきて良かったんだって思えたよ」
「くるみ…」
「あ。お母さん、ミスチルのCD聞いてたよね。くるみが入ってるやつ…。ミスチルの歌が好きで、私の名前くるみになったんでしょ?」
「違うわよ。くるみはね、硬くってそうそう割れないから、頑丈で健康な子になれるんじゃないかって、そう思って付けたのよ。ミスチルの「くるみ」の方があなたが生まれてから、できた曲よ」
「え?そうなの?」
「お父さんと、ミスチルのくるみを聞いてね、同じ名前だから、愛着のわく歌だねってよく、聞いていただけよ」
「そっか、なんだ…」
「でも、寂しい曲だから。なんだか、くるみも寂しい人生を送ることになるんじゃないかって、聞いてて思ってたわ」
「頑丈で…か。私ずっとくるみの殻のように、頑丈で壊れそうもない殻くっつけて生きてきたな」
「え?」
「爽太君に出逢えなかったら、その殻、脱げなかった」
「そう…」
サンドイッチを食べ終え、ジュースも飲み終わり、私は爽太君が気になりだした。
「私、そろそろ戻るね…」
「くるみ…」
母は、私の手の上にそっと手をのせて、
「生まれてきてくれて、ありがとうね。大好きだって言ってくれて、本当に嬉しかった」
と、涙ぐみながら言った。
「うん…」
私は、微笑んで席を立ち、その場を去った。
部屋に戻ると、爽太君はまだ、帰って来てなかった。友達とのカラオケを、楽しんでいる最中かもしれない。
私は疲れたので、靴を脱ぎ、ごろんとベッドに横になった。そしてお腹に手を当てて、赤ちゃんに話しかけた。
「良かったね、あなたのおばあちゃんにもおじいちゃんにも会えたね。声聞けたね。きっと、生まれてからも会えるよ」
しばらくは爽太君に、母との話を聞いて欲しくて頑張って起きていたが、そのうちに私は眠ってしまったようだ。