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1 天使との出会い

 海…。波に、吸い込まれるように私は足を進めた。

 もう、何もかもどうでもいいし、この世界すべてが嫌いだし、何よりも、自分のことがすべて嫌になった。


 私なんか、生きていてもしょうがない。

 私なんか、生まれてこなくても良かったんだ。

 私が死んでも、誰か悲しむ人なんているんだろうか?

 私はいったい、誰かに愛されているんだろうか?


 愛してくれていると思っていた人にも、昨日、別れを告げられた…。

「ごめん、俺、梨香と付き合ってる」

「え?」

「…くるみは、俺がいなくても一人でやっていけるだろう?梨香には俺が必要なんだよ」

「いつから?」

「もう、3ヶ月になる」

「…梨香、何も言ってなかった」

「俺が言うからって言ったから。梨香は悪くないから」

「何それ…」


「責めるなら俺にしろよ。でも…」

「…何?」

「お前、俺のことそんなに好きじゃなかったんじゃないの?」

「え?」

「お前といても、お前のことよくわかんなかったし、俺のことをよく知らなかったろ?」

「…え?」

「2年も付き合ってたのに、全然わかんなかったよ」

「……」

「じゃ…」

 いきなりの別れ。別れって言っても、稔も、梨香も同じ会社。明日もまた顔をあわせなくちゃならない。


 ああ、そうだった。明日から私は、移動だった。

 私が企画したプロジェクトが失敗した。みんなが口々に「だから、女は」って言った。そして、赤字をこうむったバツとして、私は営業から外され、庶務課に移動。

 部署も変わるし、階も変わるし、会社で会うこともないかもしれない。

 庶務課の課長、課長と言えば聞こえはいいけど、昔で言う窓際族。何もすることもない。

 ああ、そうだった。課長といえば、聞こえはいい。私は「課長補佐」いてもいなくてもいいそんな役職…。


 会社に入って、6年、今年で7年目。すごい頑張った。「どうせ女なんて」って言われたくなくて、成績もあげて、新しいプロジェクトのリーダーに抜擢されて、半年、すべてがうまくいっていた。

 だけど、取引先がいきなりの倒産…。信じられないことが起きた。

 稔は同期だ。私の補佐をしてくれていた。いつも、相談に乗ってくれて、励ましてくれてた。

 だけど、いつも私は、女だからって甘えるわけにはいかないとか、私のほうがリーダーだから、頑張らないとって肩肘張って、稔にも甘えず、頑張ってたんだ。                    

 いきなりの移動が決まり、私は混乱した。頭は真っ白だった。


 稔と会って、慰めて欲しかった。

 プロジェクトを組む前に私は、プロポーズをされていて、新しいプロジェクトを成功するまで待ってって私は稔に言っていたから、稔と結婚して退職してしまおうかってそんなことも思ってた。

 稔が食事に誘ってくれ、話があるって言われたとき、もしかしたら、結婚のことかって思ったりもした。ううん、すごく期待もした。

 もう、会社にもいたくない、結婚に逃げようと思った。「だから、女は」って言われてもいい。もう、こんな現実は嫌だって…。

 そんな矢先に、別れ話をしてきた。稔にとっては私が、失敗して移動になることなんてどうでもいいことなんだ。それどころか、私は強いから大丈夫だろうって思ってたんだ。

 私って、何…?鉄の女なの…?


 愕然として、家に帰った。会社も辞めて、田舎に帰ろうと思って、母に電話をした。

「帰る場所なんてないわよ。お母さんね、再婚するの」

「え?」

「お父さんだって、再婚して幸せにやってる。お母さんだってね、幸せになりたいの。やっと、あんたも家から出て、ひとり立ちして、ようやくお母さん自由になれたんだから。あんたがいたら、再婚できないから、帰ってくるなんて言わないで、そっちで頑張って。あんたなら、頑張れるでしょ?」

「……」

 電話を切って、私はその場にしゃがみこみ、何も考えられなくなった。


 私の居場所は、どこ…?

 何もかもいっぺんに失った。仕事、彼氏、親友、親…。


 両親は私が中学生のころから、不仲だった。喧嘩ばかりをして、高校のころはもう、家で口を聞くこともなかった。

 父親には、不倫の相手がいて、時々、相手の家に泊まって帰らないこともあった。それでも、離婚せず、母が我慢していたのは、私がいたからだと、責められた。あんたさえいなかったら、私はいつでも自由になれたと…。


 私が大学に行くと同時に、別居。私が、家を出て、東京で暮らすようになり、両親は離婚した。

 私は私の収入だけで、やってきたし、母は、一人で働き、一人で生きていた。父は、不倫していた相手と再婚した。

 離婚したあとも私は、母に責められた。もっと早くに離婚していたら、もっと早くに人生をやりなおせたと…。

 あんたが、いなかったらと何回言われてきただろう。

                  

 私は、会社を休んだ。それも、無断で…。そして、いきなり海を見たくなった。4月とはいえ、まだ肌寒く、風も強かった。

 朝、8時過ぎ、2~3人のサーファーがいた。でも、帰るところだったらしい。ああ、平日だし、これからもしかしたら、仕事なのかな。

 ぼ~~っと江ノ島の海を見ていた。江ノ島だったのは、ただ単に、電車をずっと乗っていたら着いたからだ。


 空にはとんびが飛んでいて、波は風が強くて荒かった。潮風に吹かれていると、なんだか、波がこっちにおいでと言っているようで、私は波に向かって歩き出した。

 波打ち際まで来て、靴が重たく感じて、靴を脱いだ。

 今、もし、海にはいって行ったとしても、誰かが悲しむことなんてないんじゃないかな。いや、稔と梨香は罪悪感に苦しむだろう。

 会社の人間も、苦しむかもしれないし、母も父も、自分を責めながら生きるのだろう。

 みんなが、これから先、ずっと幸せになることもなく、ずっと、罪悪感で苦しめばいい。私一人が孤独で、悲しみ、苦しみ、死んでいくのではなく、私の死で、みんなが苦しめばいい…。そんなことを思っていた。


 空が、どんどん暗くなった。雨が降り出してきた。海の水は冷たかった。スカートの裾が濡れて重たくなった。

 波はさらに、大きくうねり、海の色がどんどん、灰色になる。ああ、なんだか、死神が、すぐそこまで来ているようだ…。

 その時、いきなりスカートの裾が引っ張られた。進もうとしても動けなくなり、足元を見ると、真っ黒な犬が私のスカートの裾を、くわえていた。


 真っ黒なその犬は、死の使いかと思ったが、後ろから、

「クロ!そのまんま、はなしちゃ駄目だぞ!」

と言う声とともに、走ってきた男の子を見て、私は真っ黒な犬が天使の使いかと思えた。走ってきたその子は、天使に見えた。

 いきなり、空が明るくなり、雲と雲の間から太陽の光が差した。雨が弱くなり、波までが静まっていく。海の色も、空の色もだんだんと明るくなった。


「何やってんの?!死のうとしてた?」

 その子に両腕を掴まれた。あったかかった。                     

「生きようと思っても、生きられない人もいるんだよ。自分から死を選択するなんて、何考えてんだよ!」

 そう言うと、その子は私の手を掴んで、浜辺へとどんどん歩き出した。真っ黒な犬は、私たちの周りをぐるぐると回りながら、ワンワンと吼えていた。


 石段のところに来て、その子が私を座らせた。冷たい雨と、冷たい海の水で私の体は冷え切り、ガタガタと震えた。

「寒い?このままじゃ冷え切っちゃうね。うちの店すぐそこだから、店であったまってよ」

「店…?」

「うちの母親がやってるんだ」

 その子に抱きかかえられ、私は歩き出した。その子のぬくもりがやけにあったかかった。

 色が白くて、綺麗な顔立ち。本当に天使かと思った。でも、人間の子なんだ。ちゃんと家もあるんだな…。

 ぬくもりを感じながら、私は本当に死にたかったのか、それすらわからなくなっていた。


 5~6分歩いただろうか。ちょっと路地に入ったところに、お店があった。木のぬくもりを感じさせる、落ち着いた洋館のような一軒屋で、一階がカフェになっていた。

 カフェの前には、ウッドデッキがあり、木がウッドデッキをぐるっと囲んでいた。店のドアの横には、「れいんどろっぷす」と平仮名で書かれている小さな看板が置いてあった。

「れいんどろっぷす…?」

「雨の雫。俺の父さん、好きだったんだって。雨が降ったあとのはっぱについた雫。ああ、こんな感じ」

 雨は上がっていて、お店のドアの横にある木の葉についている、雨の雫をその子は指で指した。


 ドアを開けると、コーヒーのいい香りがしてきた。それから、カウンターの中から優しい声。

「お帰り、爽太、クロ。雨に打たれなかった?大丈夫だった?」

 そう言って、カウンターから、その声の持ち主である優しい笑顔の女性が現れた。

「あら?どなた?」

 私がいるのを知り、その人が聞いてきた。

「あ、名前聞いてないや。雨に打たれてて寒そうだったから、店であったまっていかないかって声かけたんだけど」

「…ナンパ?」                

「違うよ!」

 女性からナンパかって聞かれて、その子は顔を赤くして、否定した。


「あら、大変。スカートもびっしょりね。春香のスカート持ってくるから、着替えたほうがいいわ。バスタオルもいるわね。ちょっと待ってて」

 そう言うと、その人は、カウンターの奥にいき、そこから2階にあがったようだ。

「あれ、俺の母さん」

「そう…」

「あ、名前言ってなかったっけ。俺、榎本爽太えのもとそうた。今、21歳」

「え?21?」

「うん。見えない?」

「高校生かと思った」

「あ、やっぱり?幼く見えるみたいなんだよね…」

「……」


「あ、それで、春香っていうのが妹で、今19歳。料理の学校行っててさ、パテシエ目指してるんだ」

「……」

「で、えっと…。母さんが瑞希みずきっていって、今年で、あれ?54歳かな?あ、3月で55歳になったんだ。」

「え?もっと若いかと…」

「なんだよね~~。40代に見えるでしょ?」

「……」

「それで、このわんこが、クロ。今、3歳かな?人間でいったらいくつかな?」

「……」

「あ。真っ黒だから、クロ。こいつはラブラドールだけど、クロの1代目はボーダーコリーでさ、こいつは3代目。なんか、うちに来る犬ってみんな黒いみたい」

 なんで、この子は、どうでもいいことをしゃべっているのだろう。

 ああ、「この子」って呼ぶのはおかしいか…。もう、21歳なんだっけ。でも、私よりも、7歳も下なんだ。


「スカート持ってきたわ。奥で着替える?あ、バスタオルも」

「すみません…」

 お母さん、確か瑞希さんっていったかな。2階から下りてきて、スカートとバスタオルを渡してくれた。カウンターの奥に行くと、部屋があり、そこで、着替えをさせてもらった。

「お名前は?」

 ドアの外から、瑞希さんが聞いてきた。

「小野寺くるみです」

「くるみさんね。何か飲む?ハーブティでも淹れましょうか?」

「…はい」                  

 着替えをしてカフェに行くと、瑞希さんがハーブティをテーブルに置いていた。爽太君は、クロの体をタオルで念入りに拭いてあげていた。

「くるみさん、ここ座ってね。あ、スコーンでも持ってくるわね」

「すみません…」


 ハーブティの置いてあるテーブルに、私はついた。

「くるみさんっていうの?可愛い名前だね」

 爽太君がすごく人懐こい顔で、そう言ってきた。

「両親もしかして、ミスチルのファン?くるみって歌あったよね」

「……」

 人懐こさが、鼻につく。昔からこういうタイプは嫌いだ。やけになれなれしくて、人の心にずかずか入り込むようなそんなタイプ。


「俺の両親もミスチル好きでさ。ね、母さん。特にHANABIは、思い出の歌なんだって」

「そう…。両親がミスチルが好きで、くるみってつけたの。だから、私はミスチルが大嫌い」

 そう言うと、爽太君は黙った。ああ、うるさかった。ようやく黙ったって思った。

「いい思い出ないの?」

 まだ、聞いてくる。ああ、かんに触る子だ。

「そうよ。私は両親から見捨てられたの。生まれてこないほうが良かったの」

「え?」

「あの二人とも大嫌い。だから、ミスチルも大嫌い。この名前も大嫌い」


 私のことも大嫌いと言おうとしたけど、私のことを悲しげに見ているこの、「爽太」が憎らしく思えて、思い切り傷つけたくなった。

「あんたのことも、嫌い。勝手に私を助けたり、こんなところに連れてきて、すごいおせっかい。私なんてアカの他人のことほっておいて欲しかったし、それに…、あんたの顔むかつく」

 言ってみて、血の気が引いた。こんなことを人に言ったのは生まれて初めてだ。

 人を傷つけないように何て言えばいいか、それだけを考えてものを言ってきた。いい人ぶって、大人ぶって生きてきたから。

 爽太君の顔は、変わらず、悲しげに見えた。傷つけたはずの私のほうが、思いきり傷ついた。哀れむような目で見るのは、やめて欲しい。


「はい、スコーン。それから、イチゴのジャム。お手製なの」

 瑞希さんが、スコーンを持ってきてくれた。きっと、今の会話を聞いていたはずだが、何も二人とも言わなかった。

 少し、ハーブティを飲んだ。すうっと、体にしみていくミントの香り。イチゴのジャムの匂いなのか、甘い香りがして、あったかく、甘く、優しいその空間に私はいきなり、つぶされそうになった。

 気を張ろうとして、姿勢を直した。でも、足元にクロという真っ黒な犬が擦り寄ってきて、そのあったかさでまた、私の心がぐらってした。 

                   

 思わず、気が緩んだ。ボロ…。大粒の涙がテーブルに落ちた。

「あ!」

 いけないって慌てて、泣くのを我慢したが、無理だった。ボロボロ……。涙がとめどなく流れた。

「嫌だ!」

 抵抗した。

「泣きたくない…」

 でも、涙は止まらなかった。

 瑞希さんも、爽太君も黙っていた。瑞希さんは、カウンターの中に戻り、仕事を始めてた。爽太君は、黙ったまま、私の前の席に座って、クロをなでていた。


 しばらくしてから、爽太君が静かに言った。

「俺のこと、嫌いって…」

「……」

「ちょっと、傷ついたかも…」

 爽太君を見ると、下を向いていた。傷つけたのか…。いきなり、罪悪感が襲った。単なる八つ当たりだ。あまりにも天使のように優しい瞳をしていた彼を、傷つけてやりたいって思っただけだ。


 なんて酷い人間なんだろうか…。

 そうだ…。こんな私は大嫌いだ。死んじゃえば良かったんだ。生まれてこなかったら良かったんだ。

 涙はなかなか、止まらなかった。その後も私は、泣き続けてた。人前で泣いたことなんていつ以来だろう。稔の前でも泣いたことがないのに。

 ううん、親の前でだってなかった。強がって、平気だって顔をして、私は泣かなかった。

 泣きながら、スコーンを食べた。おなかがやたらと空いてきて、無性に食べたくなった。甘みの抑えたイチゴのジャムも、スコーンも、ハーブティもどれも美味しかった。


 しばらくすると、涙が止まった。

「良かった…」

 目の前にいた、爽太君が微笑んだ。天使の微笑だ。

 あんなにひどいことを言って傷つけたのに、私が泣き止むのを見て喜ぶんだ…。なんだか、信じられない。なんなんだろう、この人の優しさや、あったかさや、純粋さや…。本当の天使なんだろうか?                 

「この店、まだ開店しないし、ゆっくりしてってね。私はちょっと、外を掃いたり掃除するけど」

「はい…」

「俺も手伝う」

「じゃ、テーブル拭いたり、テーブルセッティングしてて」

「うん」

 爽太君はそう言うと、音楽をかけて、エプロンをして仕事を始めた。


 音楽は、ジャズ。ピアノだけのジャズだった。爽太君は、楽しそうに嬉しそうに、そして、大事にテーブルを拭いたり、クロスをかけたりしていった。

 私の心がどんどん、癒されていくのがわかった。

 テーブルに小さな花瓶を置き、可愛い花や葉っぱを瑞希さんがいけていった。

 窓やドアも念入りに、爽太君は拭いていった。いつも、手伝っているんだろうな。手順も手際もいいし、何よりも、この店をとてもいつくしんでいるように見えた。


 カウンターの端に写真が置いてあった。ツーショットの写真、よく見ると、結婚式のようだ。真っ白のウエディングドレス姿の、若いころの瑞希さんと、その横には、爽太君そっくりの男の人、まだ若そうだ。白のタキシードに、なぜかタキシードには不釣合いの帽子をかぶっていた。

 私がその写真に見入っているのを爽太君が気づいて、

「それ、俺の両親の結婚式の写真だよ」

と、微笑んで言うと、写真たてをテーブルまで持ってきてくれた。


「帽子?」

「ああ、父さんの?こんとき、髪の毛抜けてたみたいで」

「え?」

「癌の治療でさ。抗がん剤とか、放射線治療って髪の毛抜けちゃうみたいだね。これは母さんの手製の帽子だって言ってたよ。網目がばらばらで、汚いでしょってさ…。母さんこういうの、ぶきっちょで苦手らしいんだけど、当時父さんから頼まれて、作る羽目になったとか…」


 瑞希さんは、外に出て、外側の窓ガラスを丁寧に拭いていた。

 お父さん、癌で亡くなってるの?とは、聞きずらかった。

 爽太君は、両親から思い切り愛され、大事にされて育った、なんの苦労も知らない子だって、勝手に思い込んだ自分を恥ずかしく思った。

「このころには、まだ、俺いなかったけど、この2ヵ月後に俺、めでたく母さんのおなかに入ることに成功してさ」

と、爽太君は無邪気に笑った。   

               

 いきなり、海でのことを思い出した。そうだ。爽太君は叫んでた。

「生きたくても生きれない人もいるんだ」

って…。お父さんのことだったのかな。

 ますます私は、あんたなんか嫌いって言ったことを後悔した。

 のほほんとした無邪気な顔の、爽太君に腹が立ってたのに、だんだんと、その優しい瞳や、あったかい表情に癒されて、隣にいるのに、心地よさすら感じていた。


 ピアノのジャズを聴きながら、私はこれからのことをふと、考えた。

「あの…」

 外の窓拭きを終えて、カフェの中に入ってきた瑞希さんに、聞いてみた。

「この辺に、空いてる部屋ってありませんか?」

「部屋?」

「私、会社を辞めるんです。それで、引越しもしたくて」

「あら、だったら、うちにどうぞ。アパートが見つかるまででもいいし…。一部屋空いてるわよ」

「え?」


「前に、ここで働いてた人の部屋があるのよ。結婚したからもう、出ていったけど」

「じゃあ、そこに、住まわせてもらってもいいですか?」

「ええ。大歓迎。あ、会社も辞めるってことは、仕事は?なんなら、うちで働かない?」

「え?でも…」

「パートさんが、もうすぐ出産で辞めちゃうのよ。今日も検診でね、だから、朝から爽太に手伝ってもらってるの」

「じゃ、爽太君はここで、働いてるわけじゃないんですか?」

「俺はコンピューターの仕事してる。ウェブデザインの仕事でさ」

「…じゃあ、ここで働かせてください」

「はい、よろしくね。くるみさん」


 いきなり来て、息子さんにあんなとんでもないことを言って傷つけておいて、そんなどこの何者かもわからない私を、置いてくれるなんて…。

 だけど、なんの当てもなくて、行く場もなくて、私の居場所もなくなって、仕事もしたくないし、何もかも失った私には、ここは、ちょうどいい場所かもしれないって思った。


「2~3日中に来てもいいですか?荷物は今日中にまとめて、明日にでも送ります」

「ええ、こっちは大歓迎だけど…」

「仕事は、明日辞表を持って行きます。もう、早いうちに今までの私と、さよならしたいんです」

「いいわよ」

「ありがとうございます。よろしくお願いします」

 私は、そのまま、スカートを借りて、自分のスカートを持って帰ることにした。


 駅までは、爽太君が送ってくれた。                   

「くるみさん」

「え?」

「さっき、俺傷ついたって言ったけど、あれ、冗談だから」

「え?」

「もう、冗談言ってるのに、まじで受け取っちゃうから、笑えなくなったよ。俺も母さんも」

「でも、私ひどいこと…」

「ああ、俺、能天気だし、むかつくってよく言われなれてるし、気にしないで」

「え?」


「母さんなんてさ、その能天気さ、お父さんにそっくりで、まじむかつくってよく言ってる」

「お父さんに、似てるものね。爽太君」

「そうなんだよね~~~。あの写真、父さんが22歳のころの写真で、俺ももうすぐ22歳なんだよね。なんか、そっくりだってさ、そのころの父さんに。うり二つだって、ばあちゃんも言うよ」

「ばあちゃん?」

「あ、父さんのお母さん。よく店に来るんだ。お料理の先生をしてて、うちのカフェでも、月1で、教えてるんだよ。まだまだ、綺麗で、若くってさ」

「そうなの…」


「父さんと違うところは、父さんのほうが、パワフルっていうか…」

「……」

「俺のほうが、弱いっていうか、あ、ひ弱とか体のことじゃなくて、ま、いっか」

 そう言うと、爽太君は、ぼりって頭を掻いた。

「親ばかだから、母さんはそんな能天気でも、弱くても、爽太はめちゃ可愛いとかって言うんだよね。それに、かっこいいだの、イケメンだの…。むかつくってのも、似てるから可愛すぎてむかつくんだってさ。なんつうか、信じられない親でしょ。ほんと…」

「…愛されてるんだね。そりゃそうか、忘れ形見みたいなもんだもんね、それも、そんなにお父さんに似てたら…」

 そう言いかけたとき、駅に着いた。

「え?忘れ形見って、父さん生きてるけど…」


「お!爽太!なんでここにいんの?」

 いきなり、爽太君に声をかけてくる男の人がいた。

 …あれ?今、なんて?生きてるって?

「お前店は…?てか、誰?もしかして彼女か…?」

「違うって!これから、うちの店で働くことになったくるみさん。あ、くるみさん、これが父さん」

「ええ?」

 確かに、爽太君そっくりで、あの写真の人を少し、老けさせた感じの人だけど…。癌って言ってなかった?


「くるみさん?はじめまして。よろしく」

 その人は、にこってこれまた、人懐こい顔で微笑んだ。

「爽太、瑞希にさ、なんかあとで、差し入れ持たせて。また、俺、缶詰状態になるから」

「わかった。あ、俺が持ってこようか?」

「嫌だ。瑞希の顔が見たいの。俺は」

「わかったよ。で?今まで何?散歩?」

「そう、潮風感じて波見てた。ほとんど寝てないし、気分転換。あ!じゃ、くるみさんが働いてくれるってことは、お前仕事戻ってくる?」                 

「うん」

「ありがて~~~~。もう、1日でも早く戻ってくれよ。くるみさん、よろしくな。ああ、良かった」

「……」


「あ、俺、父さんの会社で働いてるの。人手不足で、大変なんだよ」

「そうなの…。じゃあ早めにお店に出れるようにします」

「ありがとう~~!!」

 そう言うと、爽太君のお父さんは握手をしてきて、私の手をぶんぶんと振った。

 爽太君をさらに、明るくさせ、パワフルにした感じ…。ああ、爽太君がお父さんのほうがパワフルって言ってたのがわかる。

「じゃ、くるみさん、またね!」


 お店の住所や、電話番号はメモをもらってきた。私の携帯の番号やメルアドも書いてきた。

 いきなりの人生の展開だった。

 暗雲がどんどん晴れて、今は、晴天だった。空は真っ青で、真っ白な雲がぽかりと浮かんでいた。日の光に照らされた爽太君の笑顔が、まぶしかった。

 ニコ…微笑んでみた。すると、爽太君は、思い切りの笑顔を返してくれた。


 片瀬江ノ島駅で、小田急線に乗る。ここに来るまでは、人生最悪で、もう生きている価値もなく、すべてをうらみ、すべてを憎んでいた。

 窓から、駅のほうを見た。そこにはもう、爽太君の姿はなかったけど、爽太君のまぶしくて、優しくて可愛くて、明るい笑顔がまだ、輝いているような気がした。

 やっぱり、天使だ。きっと、天使だ…。

 優しいあったかい気持ちに包まれて、私は電車にゆられ家に帰っていった。  



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