16 妊娠
翌朝、一階に下りて朝食を食べ、お店の手伝いを始めた。昨日よりはずいぶんと楽になっていた。
爽太君がお店に来ると、
「くるみさん、具合どう?」
と、心配そうに聞いてきた。
「うん、もう大丈夫」
にこって微笑むと、爽太君も微笑み返してくれた。
9時過ぎ、キッチンのほうで、下ごしらえを手伝っていると、また、スープの匂いで気持ちが悪くなった。
「あの…。すみません。外の空気吸ってきます」
そう言って、外に出て深呼吸をした。それから、外を掃いたり、窓を拭いたりしていた。
11時、開店してからは、ホールにいたので、そんなに気持ちが悪くならなかったが、たまにキッチンに行くと、また、胸がむかむかした。
でも、その日は1日乗り切ることが出来た。
夜になり、ご飯を食べても、なんとなくむかむかするので、早めにお風呂に入り、休ませてもらった。
トントン…。ドアをノックする音がして、爽太君の声がした。
「くるみさん、もう寝た?」
「ううん。まだ」
そう言って、ドアを開けた。
「また、具合悪くなったの?大丈夫?」
「うん。なんか風邪かな?胃にきちゃったのかも…」
「そっか…。無理しないでね。今、そんなに仕事忙しくないし、言ってくれたら、お店の手伝いに来れるからさ」
「うん、ありがとう」
「じゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」
爽太君は、そっとキスをしてくれて、自分の部屋に入っていった。
バタン…。ドアを閉めた。今はそんなに気持ちが悪くはないが、なんとなく胸だか胃の辺りがもやもやとしていた。
翌日、キッチンでの手伝いはなるべくしないようにして、お店の準備をしていたが、ホールにいても、キッチンから漂うコンソメスープや、ご飯の炊ける匂いで気持ちが悪くなった。慌てて、
「すみません、ちょっとトイレ」
と、トイレに駆け込み、私は朝食べたものを全部吐いてしまった。それだけでも、気持ちの悪いのがおさまらず、胃液まで吐いた。
トイレを出て、洗面所で口をゆすいでいると、瑞希さんが来て、
「大丈夫?」
と、心配そうに聞いてきた。
「あ、すみません。なんだか、すごく気持ちが悪くなって」
「匂いでかしら?」
「はい…。スープや、ご飯の炊ける匂いで…」
「今日は休んでて。お義母さんにお店来れるか、聞いてみるから」
「はい。すみません」
私は、そのまま2階に上がって、ベッドに横になった。どうしちゃったんだろう…。胸焼けのような、気持ちの悪さがまだ残っている。
しばらくすると、瑞希さんが部屋に来た。
「くるみさん、ちょっといい?」
「はい」
ドアを開けると、瑞希さんは部屋に入ってきた。
「お義母さん、来れるって言うから、ゆっくり休んでね」
「はい。ありがとうございます」
「それと…。ちょっと聞きにくいことなんだけどね」
「はい…」
「くるみさん、最近生理あった?」
「え?」
「私、爽太の時はそうでもなかったんだけど、春香の時、ちょっとつわりがあって。似たような症状だったものだから」
つわり…?!
ああ…。そういえば、れいんどろっぷすで働くようになってから、まだ一回も生理がない。
今までも、忙しかったり、ストレスで生理が遅れることはちょくちょくあったので、あまり気にしていなかったが、もう2ヶ月ないんだ…。
「これ、妊娠検査薬。春香が男の人と付き合うようになってから、念のために買っておいたものなんだけど…。使ってみて」
「え?」
「もし違ってたなら、それはそれでいいんだけど…」
「……」
妊娠検査薬と書かれてある長細い箱を、手渡された。
「爽太と付き合ってるのは知ってたし、もう大人なんだし、そういうこともあるかもしれないって、思ってもいたんだけどね」
瑞希さんは、優しいまなざしでそう言った。
「……」
私は、何も言えなかった。どうしよう。瑞希さんはきっと、爽太君の赤ちゃんだって思ってる。
でも、爽太君とセックスをしたのは、つい1週間前のことだ。たった、1週間でつわりがくるわけがない。
ううん…。妊娠しているかどうかだって、わからないくらいじゃないのか?
瑞希さんと部屋を一緒に出た。私はトイレに向かい、瑞希さんは一階に下りていった。
「どうしよう…。どう考えても、稔の子だ。もし、妊娠してたら、どうしたらいいんだろう…」
妊娠検査薬を持ったまま、しばらく私はトイレの前で立ち尽くしていた。
このまま、その場を逃げ去りたかった。でも、そんなことはできないこともわかっていた。
トイレに入り、妊娠検査薬を使った。説明書を見ると、赤紫のラインが出たら、陽性だと書いてあった。
「どうか、何も反応しませんように!」
祈る気持ちで、数分間トイレの中で待った。
目をぎゅってつむり、なかなか結果を見ることが出来ずにいたが、そっと目を開けて、妊娠検査薬を見てみた。
「……!!」
ラインがくっきりと鮮やかに出ていた。
「妊娠してる…」
落胆と、ショックと、もうどうしていいかもわからず、トイレから出ることも出来なかった。
トントン…。
「くるみさん?」
瑞希さんが2階に上がってきて、トイレをノックしてきた。
「大丈夫?気持ち悪いの?」
なかなか出てこないので、心配しているようだった。
「はい。大丈夫です…」
どうにか、そう言うと私は、妊娠検査薬を持って、トイレを出た。
「どうだった?」
瑞希さんが聞いてきた。隠すわけにも、ごまかすわけにもいかない。
「…陽性でした」
私は検査薬を、瑞希さんに見せた。
「あ…。本当だわ」
検査薬を見て、瑞希さんはしばらく黙ってうつむいていたが、優しく微笑んで顔を上げ、
「おめでとう」
と言ってくれた。私は、真っ青だったと思う。そのままその場に、座り込みそうにもなった。おめでとうと言われ、なんて言い返せばいいのか。
「あの…」
どうにか、口を開き、
「まだ、爽太君には言わないでください」
とだけ、瑞希さんに言った。
「え?どうして?」
「ちゃんと産婦人科に行って、はっきりしてから、私から言います」
「そうね。きちんと診断してもらったほうがいいわね」
「はい…」
行けば、今何ヶ月かがわかる。そして、爽太君の子じゃないこともはっきりとわかってしまう。
でも、今、この状態でもし、爽太君に言ったとしても、きっと、爽太君にはわかる。稔の子だってきっと…。
「明日、お店休みだし、産婦人科に行かない?私もついていくわ」
「いえ、一人でも平気です。」
「駄目よ。このへんに病院ないのよ。電車に乗っていくことになるわ。また、具合が悪くなったら一人じゃ大変でしょ?たまには、人に甘えてもいいのよ。ね?」
「……。はい」
「さ、今日は部屋で休んでて」
「はい…」
私は、自分の部屋に入り鍵を閉めた。
一人で病院に行くと言ったのは、甘えないようにしたわけじゃない。瑞希さんにばれてしまうからだ。
でも、どっちにしても、すぐに瑞希さんにはばれてしまうんだろう。今、何ヶ月目で、予定日はいつだって聞かれたら、すぐにわかる。
ベッドに横になった。頭がくらくらした。なんで、今、稔の子を妊娠してしまったのか。これが、数ヶ月前なら、私は稔と結婚しただろう。
なんで今さら、稔の子なのか…。
ドン!私は自分のお腹を、激しくたたいた。このまま、お腹にいる生命が、消えてなくなってしまえばいいと願った。
今すぐ、まだ、爽太君に知られる前に…。どうか!!!
私は、お腹が痛くなるまで、何回もたたいた。だんだん憎しみも出てきた。
どうして?!やっと幸せになれるって思ったのに…。
なんで、邪魔をするの?
どうして、妊娠なんかしたの?
なんで、やってきたの?
私はうつぶせて泣いた。もう、どうしていいかもわからなかった。産んだほうがいいのか、おろした方がいいのか。産むとしたら、ここにはいられない。爽太君とも関係のない子を、ここで育てるわけにもいかない。
だからといって、稔に赤ちゃんが出来たことを言えるわけがない。梨香と稔を引き裂くことなんてできない。
どうしたらいいの…?
もし、ここを出て、赤ちゃんを産んでも、私はずっとこの子を憎むかもしれない。
「あんたなんか、産まなきゃ良かった。あんたさえいなければ、幸せになれるのに」
母の言葉を思い出した。その時の母の表情まで…。胸が苦しくなった。そんなことを私は言いたくない。母と同じ思いもしたくない!
苦しい…。胸が張り裂けるようだ。爽太君のあの笑顔を見られなくなることも、爽太君のそばにいられないことも、考えただけで、こんなにも苦しい。
「大好きなのに」
爽太君の笑顔が浮かんでは消える。
「すごく、すごく、大好きなのに」
私は、枕に顔をうずめて泣いた。涙は止まらなかった。
トントン…。
「くるみさん?」
ノックの音と、瑞希さんの声で、私は目が覚めた。知らない間に泣きながら、寝ていたようだった。
「お昼、持ってきたんだけど、食べられるかな?トマトのサンドイッチと、ハムのサンドイッチ」
「すみません。気持ちが悪くて、食べられないです」
どうにか、ドアに向かって私は返事をした。
「わかったわ。もし食べられそうになったら、下に来て。リビングのテーブルに置いておくわね」
「はい…」
気持ちは悪くなかったが、食欲はまったくなかった。
時計を見ると、2時半だった。私はベッドから起きだし、鏡を見た。目が腫れて、真っ赤だった。
「ああ、すごい顔だ…」
その日は、とうとう夜遅くまで、私は部屋に閉じこもっていた。
夜12時を過ぎてから、お風呂に入りに一階にいった。もう、圭介さんも瑞希さんも春香ちゃんも、寝ているようだったが、リビングにはまだ爽太君がいて、テレビを観ていた。
「あ…。くるみさん、大丈夫?」
爽太君が、心配そうに聞いてきた。
「母さんから、くるみさん部屋で寝てるから、起こしたりしないようにって言われて…。今日ずっと、部屋で休んでたんだって?」
「うん…」
もしかすると、私が下に来るのをずっと待っていたんだろうか。
「何も食べてないの?大丈夫なの?」
「うん。食欲なくて…。お風呂入ってくる。じゃあね。おやすみなさい」
そう言って、私はさっさとバスルームに向かった。だが、爽太君は、私のあとを追ってきた。
「風呂?大丈夫なの?熱とかはないの?」
「大丈夫」
「病院は行った?」
「ううん」
「あ…。じゃ、明日俺、休み取るから、病院一緒に…」
「大丈夫だから!」
私は、爽太君の言葉をさえぎってそう言うと、バスルームのドアを開け、中に入った。
爽太君は、何もそれ以上は言わなかった。そして、その場を立ち去ったようだ。
「ああ…。傷つけたかも…」
爽太君の優しさが辛くって、きつく言ってしまった。でも、爽太君の顔を見るのさえ、辛かった。
お風呂から上がり、リビングのドアの前で、私は立ち止った。リビングから2階への階段がつながっているので、どうしてもリビングを通らないとならない。
爽太君に会うのが、辛い。もし何か話しかけられても、また冷たくしてしまうかもしれない。こわごわ、ドアを開けると、もうリビングには誰もいなかった。
2階に上がり、自分の部屋に入った。もう、何も考えたくなかった。明日が来るのすら怖くて、これが夢だったらと思いながら眠りについた。
翌日、爽太君とは顔をあわせづらくて、わざと遅くにお店に出た。
瑞希さんが、カウンターで雑誌を読みながら、コーヒーを飲んでいた。きっと私が起きてくるのを、待っていたんだろう。
クロが私に気がつき、くうんとないて、近づいてきた。それで、瑞希さんも私がいることに気がついたようだ。
「具合はどう?」
「はい、昨日よりいいです」
「そう…。ご飯は?パンなら食べれる?」
「いえ、出かけるのに何か食べたら、途中で気持ちが悪くなりそうで…」
「じゃ、フルーツは?酸っぱいものとかどう?」
「それなら…」
グレープフルーツを食べ、少しお店で休んで出かける用意をした。瑞希さんはその間に、洗濯物を干し終え、一階に下りてきた。
「さ、行きましょうか。クロ、お留守番頼んだわよ」
にこって微笑んで、瑞希さんがそう言った。
憂鬱だった。朝起きたとき、昨日のことが夢だったんじゃないかって思いたかった。でも、現実だった。
電車に乗っている間も、緊張で気持ちが悪くなるどころじゃなかった。
病院に着くと、瑞希さんと一緒に受付に行った。待合室には、たくさんの妊婦さんが座っていた。それを横目で見て、ため息が出た。
小さな子を連れている人、今にも産まれそうなくらいお腹が大きい人。旦那さんと一緒の人。でも、どの人も幸せそうに見えてしまう。
ますます、暗くなりながら、私は待合室のすみで、瑞希さんと呼ばれるのを待った。
頭の中は、爽太君にどう言ったらいいのか、そればかり浮かんだ。爽太君のがっかりする顔、爽太君の驚いた顔、爽太君の辛そうな顔、爽太君の悲しそうな顔。浮かんでくるのは、そんな爽太君の顔ばかりだ。
私はだんだんと、気持ちが悪くなっていった。むかむかして今にも吐きそうだったし、頭はくらくらしてガンガンに痛かった。
真っ青な顔の私に気がつき、瑞希さんが心配して聞いてきた。
「大丈夫?トイレに行く?」
「はい…」
瑞希さんに支えられ、トイレに行った。朝のグレープフルーツしか吐くものがないのに、なかなか気持ちが悪いのがおさまらず、また胃液まで吐いた。
トイレを出ると、瑞希さんが心配そうに待っていた。
「なんだか、足元もふらついてる。大丈夫?」
「はい…」
なんとか、瑞希さんに支えられ、待合室の椅子に腰掛けた。それから、しばらくして名前を呼ばれたが、立っただけで立ちくらみもした。
「ついていくわね」
瑞希さんが私を、支えてくれた。
呼ばれた診察室に入ると、先生と看護師さんがいた。最近の症状を話すと、診察台に上がってくださいと言われた。
瑞希さんは、診察室のはじで待っていた。
「お母様ですか?どうぞ椅子に座っててください」
瑞希さんは看護師さんにそう言われ、
「はい。すみません」
と言っていた。自分がお母さんだと間違われたことは、否定しなかった。
診察台から下りて、診察室の方へと出て行った。
先生の前の椅子に腰掛けるよう、看護師さんに言われた。瑞希さんは、後ろのほうに座っていた。
ああ…、ここに瑞希さんがいたら、全部聞かれてしまう。診察室までついてきてくれても、すぐに待合室に出てしまうだろうって、私は思っていた。
どうしよう…。瑞希さんに知られてしまう。そんなことばかりが、頭の中でぐるぐる回り、先生の話もよく聞こえなかった。
「おめでとうございます。今、3ヶ月目にはいったところですね」
いきなり、その言葉だけが耳に入り、私は愕然とした。
いや、稔の子だとはわかっていたが、こうもはっきりと聞かされると、やはりショックを隠せなかった。多分、私は真っ青になったのだろう。
「ご結婚はまだ?」
先生が聞いてきた。
「はい…」
「産むかどうかは、まだ、わからないですか?」
「……」
何も答えられなかった。後ろで瑞希さんがどんな反応をしているかが、怖かった。
「では、今日は診察だけということで…。会計でお待ちください」
そう言われて、私はふらふらと立ち上がった。さっと後ろから瑞希さんが来て、私の背中に手を回し支えてくれた。
「貧血ですか?」
先生が聞いてきた。
「いえ…。つわりで、気分が悪くて…」
「そうですか。もし産むようでしたら、今はまだ安定期にはいっていませんし、十分気をつけてください」
先生に注意をされ、私は何も答えなかったが、代わりに瑞希さんが、
「はい、わかりました」
と答えていた。
瑞希さんと一緒に、待合室に行き、椅子に座った。
「大丈夫?気持ち悪いのは治まった?」
「はい、なんとか…」
「でも、ふらふらしてる。先生が言うように貧血かしら?」
「いえ…。大丈夫です」
私は弱々しくそう答えた。そうだ。心の打撃の方が強いのだ。
瑞希さんは、
「会計呼ばれたら、私が行くから、くるみさんはここで、ゆっくりしているのよ」
と言ってくれた。
3ヶ月と聞いて、もう、爽太君の子じゃないのは、わかっているだろう。でも、相変わらず、瑞希さんは優しく、私の背中をさすってくれていた。
「さっき、どうして産むって言わなかったの?迷ってるの…?」
瑞希さんが、優しくそう聞いてきた。
「すみません、今、何も考えられなくて…」
「そう…」
「あの…、爽太君には、黙っていてください」
「どうして?はっきりわかったら、話すんじゃなかった?」
「私、どう話していいかもわからなくて…」
涙が出そうになった。でも、ぎゅって唇を噛んで、泣くのを我慢した。
「そのまま、伝えたらいいんじゃないかしら」
「駄目です。話せないです」
「でも、爽太、本気で心配してるわよ。ここのところずっと、くるみさんが調子悪いから」
「そうですよね…」
重苦しいものが、胸にどすんと落ちてきた気がした。
「このまま話さないわけには、いかないと思う」
瑞希さんの声は優しかったが、目は真剣だった。
「くるみさんにとっても、もしかして辛いかもしれないけど、でも…」
「……」
「この今という現実を、真正面から受け止めないと」
「……」
今という現実…。そうだ。私は受け止めきれず、死のうとまでした。あの時も現実を受け止められずに逃げていた。
「一人でじゃないのよ。爽太がついてるのよ。私や圭介も…」
「え?」
「爽太、頼りなく見えるかもしれないけど、そんなことないわよ。きちんと向き合って話して。爽太のことを、信じて」
「……」
「二人でなら、乗り越えられる。一人じゃ大変なことも」
「はい…」
涙が出た。そうだった。瑞希さんも、圭介さんの死に直面して、きっと二人でその現実に立ち向かったんだ。逃げないで、ちゃんと。
「話します。爽太君にちゃんと話してみます」
私は、泣きながらそう、瑞希さんに言った。
そして、会計を済ませ、瑞希さんはタクシーを呼んでくれて、タクシーで家に帰った。