15 大好きな人たち
日曜の朝、7時に起きて朝食を取り、お店の手伝いを始めていると、爽太君が起きてきた。
「あれ?爽太君、早いね。今日休みでしょ?」
「うん。でも、くるみさんと一緒に出かけようと思ってさ」
「え?…でも私」
「母さんに聞いたよ。稔さんと梨香さんに会いに行くんでしょ?」
「うん」
「俺も一緒に行くよ」
「え?大丈夫だよ、私一人で…」
「俺、一緒だと迷惑?」
「そうじゃなくって…。そこまで甘えられない」
「何それ?あはは…。変なの。俺がついていきたいんだけど、迷惑?」
もう1度爽太君は、聞いてきた。
「ううん。迷惑じゃない…」
本当は心強い。
「じゃ、一緒に行くよ。母さん!朝ごはん用意してくれる?」
「はいはい。今、持って行くわね」
瑞希さんがキッチンから、返事をした。私は、爽太君のコーヒーを淹れた。
コーヒーのいい香りが、お店中に広まった。私は爽太君の後姿を、テーブルセッティングをしながら眺めた。なんだか、すごく緊張していたのが、ほぐれていく気がした。
水曜の夜には、稔に電話を入れておいた。稔は私からの電話で、相当驚いていたようだ。
日曜の午前中、稔と梨香に会いたいと言うと、梨香にも伝えておくと言われた。時間と待ち合わせ場所を決め、電話を切った。
稔に電話をするのは、勇気がいった。だけど、どうしても会わないといけない気がしていた。
「何時に待ち合わせ?」
爽太君は、朝食を済ませると聞いてきた。
「10時半に、新百合ヶ丘の改札で待ち合わせてる」
「新百合ヶ丘?」
「稔がそこに住んでるの」
「ああ、そうなんだ」
「9時くらいに出ようかな…。それまでは、お店の準備をしようかと思って…」
「春香は?」
「海に行ってるよ」
「そっか…。じゃ、俺も手伝うよ」
「うん」
爽太君は外に出て、慣れた手つきで掃除を始めた。私はお店の中の掃除をした。
それから、窓ガラスを拭き始めると、外から爽太君も、窓ガラスを拭き出した。私と同じ場所を、まったく同じ格好で拭く。
どうやら、わざとまねをしているらしい。なんだか、見てておかしくなって、笑ってしまった。爽太君も、窓ガラスの向こう側で、あははって笑っていた。その笑顔がすごく可愛かった。
爽太君のまぶしい笑顔に、私は何度、救われただろうか…。
9時になり、二人でお店を出た。瑞希さんと春香ちゃんと、まだ眠気眼の圭介さんが、
「いってらっしゃい」
と、見送ってくれた。
爽太君は、私の横でずっとさわやかな笑顔で、話をしていた。私の緊張を、ほぐしてくれようとしているんだろうな。きっと、窓ガラスを拭いていた時もそうだったんだ。
私は、爽太君の笑顔を見て、笑い声を聞いて、まったく緊張も感じることなく新百合ヶ丘まで、行くことが出来た。
「ちょっと早かったかな」
時計を見て、爽太君が言った。でも、改札を出ると、もうすでに稔も梨香も私たちのことを待っていた。
いや、私たちっていうのは適切じゃないな。爽太君と一緒に行くことは、稔も梨香も知らなかったから。二人とも私が、爽太君と一緒なので、「え?」って表情をしていた。
梨香には、久しぶりに会う。なんだか痩せたような気がする。それにひきかえ、多分私は太っただろうな。
「早かったんだね…」
と私が稔に言うと、稔も、
「くるみも、待ち合わせの時間より早かったんだな」
と言った。それから、爽太君の方を見て、
「君も、一緒に来たんだ」
と、無表情でそう言った。
「どうも。この前は…」
爽太君も、無表情でそう答えた。
梨香は、どこを見るともなく、うつむき加減で黙っていた。私も、何を話しかけたらいいかわからず、梨香には何も、言わなかった。
4人で、間をあけながら歩き出した。
「静かなところがいいだろ?ホテルのラウンジでいい?」
稔が聞いてきた。
「え?うん」
私はそう答えたが、やっぱり梨香は黙って、みんなよりも一歩後ろを歩いていた。
私は、なんとなく爽太君の近くに寄った。稔とは距離を開け、梨香が稔のそばに来れるようにしたが、梨香は、ずっと後ろを歩いていた。
ホテルのラウンジで、店員さんに席を案内され、私は爽太君の隣にさっさと座った。爽太君の前に、稔が座るのかと思ったら、私の前に座ってきた。
「…あのさ、なんだっけ?君、名前」
稔が爽太君に聞くと、
「榎本爽太…ですけど」
爽太君は、つっけんどんに答えた。
「くるみと一緒に住んでるって、家族みたいなものだって言ってたよね?」
「はい」
「今、君いくつ?学生でしょ?」
「22歳です。もう働いています」
「ふうん…。で、なんで今日一緒に来たの?」
稔はものすごく、ふてぶてしい態度だった。あきらかに爽太君のことを、邪魔扱いしている。
「爽太君がいてくれないと、私が緊張するから」
と、思わず爽太君が、答える前に私が口をはさんだ。
「それに、爽太君も私のこれから話すことに、関係してるし」
そう言うと、稔は私の方をいぶかしげに見た。梨香もずっと、うつむいていたが、顔を上げた。そして、私の顔を見てから、爽太君の顔も見た。
「話って…?俺がこの前、くるみに梨香に会ってくれって頼んだから、来たんじゃないの?」
「違う…」
「じゃ、何のために俺たちを呼んだわけ?」
稔は、とげとげしくそう言った。稔の顔は、無表情から怖い表情へと変わっていた。私が梨香を責めたりすることを、怪訝しているように見えた。
「話しておきたいことがあって来たの…。ちゃんと、話しておかないといけないと思ったから」
そう言うと、ますます稔の表情は固まった。梨香はまた、うつむいた。梨香の手元を見るとずっと両手を組んでて、その手は少し震えているようにも見えた。
コーヒーが4つ運ばれてきて、私は少しコーヒーを飲んでため息をついた。手に汗がにじむ。ひざの上に両手を置くと、そっと爽太君が、私の手をにぎってきた。すごく優しく…。
すっと気持ちが、落ち着いていくのがわかる。爽太君の顔を見ないでも、すごく優しく私のことを、包み込んでくれているのだろうなっていうのがわかる。
息を大きく吸って、私は話を始めた。
「私…、もう稔にも梨香にも、会わないつもりでいたの。会う必要もないし、私がどこにいるのかも教える必要もないって…」
もう一回私は、息を吸って続けた。
「でも、会わないでいたら、もしかして稔のことも梨香のことも、苦しめたままなんじゃないかと思って…」
「え?」
稔の表情が変わった。
「私、二人が付き合ってるって聞いて、すごくショックだった。稔に別れてくれって言われて、何を言っていいかもわからなかった。ただ、二人を憎んだ。私が苦しいように、二人も苦しめばいいって思った」
梨香の手が思い切り震えた。うつむいてはいるが、唇をぎゅって噛んでいるのもわかった。
「だけど・・・」
言葉に詰まってしまうと、爽太君が握っている手に力を入れた。爽太君の顔を見ると、大丈夫って目で言ってるのがわかる。
「私…、稔のことも大好きだったし、梨香のことも大好きだったの…」
そう言うと、梨香は顔を上げた。すごく驚いている。それは、稔もだった。
「だから、そんな大好きだった人を、苦しめたままでいるのが、耐えられなくなったの…」
「くるみ…」
その時初めて、梨香は口を開いた。
「私、今、幸せなの。爽太君や爽太君の家族に出会って…。みんなあったかくて、優しくて、すごく幸せなの。でもね、私だけ幸せになったら、いけないんじゃないかって思って…」
「……」
二人して、私と爽太君を交互に見た。
「梨香…。もし、私の人生を狂わせたって思っているとしたら、そんなことないから。自分を責めたり、幸せになるのを止めたりしなくてもいいから。苦しまなくてもいいから…」
そう私が言うと、梨香の目から大粒の涙がこぼれた。
「くるみ、それを言いに来たのか?」
稔は、目を丸くしてそう聞いてきた。
「うん…」
「なんでそんなに、変わったんだ?この前会った時には、すごく攻撃的で…」
「ごめん。あの時には、まだ、二人のこと憎んでたから」
「……」
二人とも、黙って私を見ていた。
「本当に、幸せなの?」
梨香が聞いてきた。
「うん」
「彼がいてくれるから?その…、爽太君って言ったっけ?くるみと付き合ってるの?」
梨香がおそるおそる聞いてきた。
「はい」
爽太君は、まっすぐ梨香の方を見て、はっきりと答えた。
「くるみ…、さっき、私のこと大好きだったって」
「うん。ごめんね。梨香はいつでも、悩みを聞いてくれたり、そばにいて励ましてくれてた。仕事のことでも、稔の事でも。なのに私は、そんな梨香の優しさに、気づくことも出来てなかった。いつも自分のことばかりで…」
「くるみ…」
梨香の目はうるんでいた。
「梨香はずっと、稔のことが好きだったんじゃないの?」
「……」
梨香は、黙ったままうなづいた。
「じゃ、私が稔との話をするたび、苦しかったんじゃないの?」
「苦しかったけど…。どうしようもないことだからって思ってた」
「梨香…」
稔が、梨香の顔を切なそうに見た。
「梨香の想いに、稔が気がついたの?」
「いや。くるみのことで悩んでいるのを、梨香が相談に乗ってくれているうちに、梨香といる時間が増えてって、それで…」
「私のことで悩んでいたの?」
「プロポーズした時には、すぐにでも受けてくれるって思っていたから。プロジェクトを成功させたらって言われて、俺よりも仕事の方が優先なのか、俺はその程度の存在なのかって、すごく悩んでた」
「でも、そんなこと一言も…」
「言えないだろ?毎日毎日、仕事で残業して、働きづめのお前にそんなこと…。何よりも、仕事が大事なのかって思っていたよ」
「……」
心が痛かった。確かにあのころ、私は稔のことよりも仕事のことで、頭がいっぱいだった。
「ごめん。気づけなかった、私…」
「くるみ、ごめんね…。私ずっと、言わなくちゃって思ってた。でも言えなかった。稔と別れるのも、くるみを失うのも怖かったの。ずるかったの、私…。くるみが会社を辞めて、いきなり姿を消しちゃって、くるみを苦しめたのは私で、その私が稔と付き合ってていいわけないって思って。ずっと、くるみにちゃんと謝らなくちゃって思って…」
梨香は、そう言うと、ぽろぽろと泣き出した。梨香のそんな気持ち、私はわかっていた。きっと自分を責め、苦しんでる…。なんとなくわかっていた。
「でも、梨香が悪いわけじゃないし、稔が悪いわけでもないし…」
そう言うと、また二人は私の顔を、驚いた表情で見た。
「いろいろとあったけど、でも、そのおかげで私は、爽太君にも会えたし…」
そう言うと、爽太君が私の方を見た。爽太君の目を見ると、すごく優しい目をしていた。
「だから、もう稔も梨香も苦しまないで…、幸せになってください。私は大丈夫だから」
「くるみ、お前、本当に変わったな」
「え?」
「そんな優しい表情することなかったのに。本当に今、幸せなんだな…」
「うん」
とても穏やかな気持ちで、私は稔のことを見ることが出来た。それに、梨香のことも。
「くるみ、ありがとう…。会いにきてくれて、ありがとう」
梨香はそう言うと、ハンカチで涙を拭いた。
コーヒーを飲み終え、私と爽太君は、お店を先に出た。
稔と、梨香がこれから先、どうするのかは二人が決めることだ。
爽太君はそっと、私の手をにぎって、
「良かったね。二人ともわかってくれたみたいで…」
と優しい目で、そう言った。
「うん。会って良かった。爽太君もついてきてくれてありがとう。私、爽太君が横にいてくれたから、落ち着くことが出来たよ」
「そう?良かった。俺、ちょっと稔さんが挑戦的だったから、頭きてたんだけど、どうにか冷静になれてよかったよ。くるみさんが、先に俺がなんでついてきたのかを、説明してくれたからさ」
「…爽太君の手、あったかいね」
「え?」
私と爽太君は、手をつないだまま、歩いていた。
「さっきも、手をにぎっていてくれたでしょ?すごく落ち着いたんだ」
「……」
爽太君は、何も言わず、またつないだ手にぎゅって力を入れた。
「さて、帰りますか?」
爽太君は、にっこりと微笑みながら聞いてきた。
「うん」
私も、爽太君に向かって、にこって笑って応えた。
お店に戻ると、お客さんが満席。それに外の椅子にも、何人か座って待っていた。店内は、瑞希さんと春香ちゃんだけで、すごく忙しそうにしていた。
「すみません、手伝います」
私は急いで、エプロンをした。
「俺、ホールに出るから、くるみさんキッチンに入って」
爽太君もエプロンをして、さっさとホールに行き、空いたお皿を片付け始めた。
私は、キッチンに入り、たまっていた食器を洗い始めた。
「くるみさん、スープをカップにいれてくれる?」
「あ、はい」
コンソメスープのなべの蓋を開けると同時に、ものすごく変な匂いがした。
「え?」
思わず鼻を押さえた。
「これ、なんですか?」
「いつものコンソメスープよ」
「……?!」
なんで、変な匂いがするかわからなかったが、どうにも気持ちが悪くなり、
「すみません。ちょっとトイレ…」
と、急いでキッチンを出た。
「爽太君、ごめん、キッチンの方手伝って。私、少しトイレ行ってもいい?」
「あ、いいよ」
爽太君に小声で言い、急いでトイレに行った。
吐き気がする。でも、吐けない。すごく胸の辺りがもやもやするが、吐こうとしても何も出てこない。
ああ、ずっと何も食べていないからだろうか?
洗面所で口をゆすぎ、お店に出た。爽太君がキッチンの手伝いをしているので、私はホールの手伝いに回った。
ホールでは、そんなに匂いが気になることもなく、どうにか、お客さんが途切れるまで、頑張ることが出来た。
「さ、くるみさん、春香、爽太、ご飯食べてちょうだい」
2時半を過ぎて、瑞希さんがカウンターにどんどん、3人分のご飯を用意した。
「あの、私、ちょっと食欲なくて…。瑞希さん、食べてください」
「え?大丈夫?そういえば、さっき、顔色悪かったわね」
「はい、ちょっとリビングで休めば、大丈夫だと思います」
リビングに上がらせてもらい、私はテーブルに顔をうつぶせた。
しばらくして、爽太君が、リビングに来た。
「大丈夫?今日ので、緊張しちゃったのかな?」
「うん、そうかも…。自分で思ってた以上に、緊張してたのかも…」
「少し部屋で横になったら?お店なら俺いるし、大丈夫だから」
「うん。そうしてくる。ごめんね」
私は、爽太君の言葉に甘えて、自分の部屋に行った。
なんだか、むかむかする。でも、吐けない。すごく嫌な感じがずっと続いていた。
夜、お店の片付けの手伝いをした。それから、軽く瑞希さんが作ってくれた、サンドイッチを食べた。そしてお風呂に入り、さっさと私は寝ることにした。