卵が割れている
「むう、これはまいったぞ、坊がいない。」
このところ日照りが続き、要請があったため派手に大地を潤しに来たのだが。人間界が見たいという坊を連れてきてやったら、いつの間にかはぐれてしまったのだ。
「まずい、奥方に怒鳴られる…。」
天下の雨降り大王と名高い私ではあるが…実は嫁には尻に敷かれておってだな!先日など嫁の下着をうっかり堂々と干してしまい…ずいぶんこってりと搾り上げられて体重が二キロほど干上がってしまったのだよ。
さっきまで降らせていた雨粒の力を借りて、坊の行き先を探る。…どこで雨からこぼしてしまったのか。雨降り一族は雨の中で移動をする種族。雨の中では力を発揮できるが、雨のないところではただの弱気な、軟弱な存在でしかない。…近頃はずいぶん強気な人間が多いと聞く。坊がそんな奴に何かされでもしたら。
坊の気配をスーパーに見つけた。ここを坊は通って行ったようだ。だが…屋上の水たまりを最後に、気配が消えてしまった。気配が見当たらないのは、雨水のない場所に坊がいるという事。この場所に坊の気配が少し残っているから、このスーパーの中にいると思われる。…雨のない場所に入り込むには、人の形を取り、目で探すほかないのだ。…仕方がない、雨の中から抜け出して、人に紛れて坊を探そう。
雨のない場所では、私もただの人。買い物をする人に紛れ、売り場をぐるぐるとまわる。売り場には人の残した雨粒がところどころに散らばっているから、これに乗り移って…坊は、色とりどりの売り物を見て、ワクワクしているのだろうか。雨粒が貧弱すぎて、坊の気配が探れない。…ずいぶん人間界に行きたがっていたから、あちこち飛び回っているやも知れぬ。…目で探すというのは、ずいぶん骨が折れる。
「土産でも買っていくか…。」
せっかくスーパーに来たのだ、人間の飲み物でも買って帰ろう。坊に見せたら喜ぶはずだ。…これから勝手に雨を降りたことを叱らなければいけない。ずいぶん落ち込むだろう。坊は私と嫁の血を引いているくせに…ずいぶん繊細で傷つきやすい。そのあたりきちんと手助けせねば、器のでかい雨降り神にはなれぬからな。
色とりどりの飲み物を十本購入し、袋に詰めていく。最近レジ袋が有料化したという事だ。そうか、至れり尽くせりの販売方法も、いよいよ個人準備が必要となったか。なんでも用意してもらえて当たり前という人間独特の考え方に、変換期が来たのだな。良きことだ。
私は準備無しで買い物をしてしまった為、レジ袋を一枚買った。これはずいぶんいい袋である。雨水がたくさん貯められそうだ。…そんなことを考えつつ、購入したペットボトルを詰め込んでいると。
がしゃ!!ぐしゃっ!!!
背中に衝撃を感じた。なんだ?振り向くと、じじいがこちらを睨み付けている。
「おい!!何でこんなところに突っ立ってんだよ!!卵が割れたじゃねえか!!!弁償しろ、謝罪しろ!!」
「ああ?買い物を普通につめてただけなんだが?」
なぜこいつはこんなにも私に怒りを向けるのだ。おかしな思考回路を持つのだな、人間というものは。…店の従業員らしき男が、じじいと私の間に割り込んできた。
「卵は交換しますので。こちらでお待ち下さい。」
「こいつに弁償させたらいいんだ!!」
私を指差し、さらに怒りを向けるじじい。私の背中にじじいがぶつけたらしい卵は、無残にも割れているようだ。レジ袋の中に卵液が揺れるのが見える。…美味そうな卵だ、思わずのどが鳴った。坊も、私も、卵が大好物なのだよ。だが、私は卵など買ってはおらぬし…買うつもりもなければ、自分のものにならぬのに代金を払うつもりもないのだ。
「私が弁償する?なぜ?一方的にぶつかってきて、おかしくはないか。」
人というものは…勝手に私の背中に卵をぶつけ、卵を割り、その責任を私に取らせようというのか?
「突っ立ってた方が悪いんだ!!不愉快だ!!謝罪しろ!!!」
立ったまま買ったものを袋に詰め直すシステムであれば、立ったまま詰め込み場所にいる私は正しいことをしているのではないのか。しかし、人間界を熟知しているわけではないからな。何か問題があったのやもしれぬ。人間界独特のルールには、あまり明るくないのだ、私は。
「…そりゃあすみませんでしたね。」
「お客様!!こちらお持ち下さい。」
従業員が再び私とじじいの間に入って…何やら卵を渡している。それを受け取ったじじいは、こちらを睨み付けると勢いよく卵液の入った袋を投げ捨てた。
「ふん!!地獄に落ちろ!!」
なぜ、じじいは…こんなにうまいものを投げ捨てていけるのだ?地獄に落ちろとは?…管理人と伝手でもあるのか?このじじい、真っ先に魂を食われそうなほど…黒い靄を纏っているのだが。伝手というよりは、靄を増幅させるために放流中なのかもしれんな。あいつらはずいぶんとエグイやり方で…エサを増やそうとする。
「お客様、申し訳ございません。お怪我とかありませんでしたか?」
従業員が頭を下げている。なぜこの従業員は私に頭を下げているのだ?私にはこの従業員に謝罪を受ける意味が理解しがたい。しかし、ここで何も言わないのは、おそらく人としては間違った行動なのだ。…こういう場合は、良い常套句があると…つい先日聞いたばかり。
「いえ…大変ですね、がんばってください。」
大丈夫ですよ、ありがとう、でもよかったやも知れぬ。…従業員はおかしな顔をしていないから、多分これでよかったのだ。…いまいち自分の人間界に溶け込む技量が足りぬ、勉強が必要なのだな。幼き頃に、人の子らと遊んだだけでは足りなかったのだ、人としての経験が。…坊には、人としての経験を多く積んでほしいものだと思う。
レジ袋を持って、屋上の駐車場に戻る。…坊はどこにも、いなかった。どういうことだ。いくら子供とはいえ、かなりの力を持つ我が子が、ごく普通の人間などに連れ去られるなどあり得ない話だ。しかし昨今、人の心を手放し…おかしな力を振りかざそうと願うものがぽつりぽつりと現れているのだ。…おかしな輩につかまって監禁でもされている可能性も、ある。
…一刻の猶予もならん。私は雨雲を呼び寄せ、この辺りを探し回ることにした。坊が見当たらなければ…この辺り一帯を雨で覆いつくし、空間という空間に雨粒を行き渡らせ…坊の居場所を探るしかあるまい。ただ闇雲に、坊を探し、今日辿った雨の後をなぞる。…雨の降った道でないところに連れ去られたやも知れぬ。捜索範囲を広げるしかないか、そんなことを考えていると。
「ちちうえー!!ごめんなさい、雨雲から降りてしまいました。」
「ぼう!!心配しただろう、勝手に降りてはならん!」
目に涙がたまっている。軟弱すぎて将来がやや心配だ。…しかし、冒険心があるのは、良い事だと思うのだよ。好奇心旺盛、知らぬ地に飛び込む気概、良き、良き!
「ごめんなさい…。」
「いったいどこに行っていたんだ、探したのだぞ。」
スーパーの中から、いったいどこへ消えたというのか、そしてどうやって戻ってきたのか。
「あのね、卵が割れてて、中身が出てたおばちゃんがいてね、ないしょで食べさせてもらったの。でね、食べたことをあやまったらね、いいよってって言ってくれてね、なんかありがとうっていわれてね、おみやげもらった。とうちゃん来ると困るからって言われたから、外に出て水たまりから父上を呼んだのです!」
報告がまだまだ子供だが…ずいぶん成長したな。私を呼ぶことも、できるようになったのだ、この坊は。きちんと謝罪をしたところは、きちんと褒めておかねばなるまい。
「坊、きちんと謝ることができたようでなにより。今後は告げてから動くように。」
「わかりました。」
狭間へと向かう間、坊からさらに詳しく話を聞く。どうやら、坊はおいしいものの奥さんに出会っていたようだ。ずいぶん美味しい食べ物を、ずいぶん気さくにふるまってくれるという奥さんで…出会えておいしい、お土産貰って美味しいという、かなりお得感のあるご婦人として少し有名な方ではないか。…これは奥方に報告しておかねばなるまい。たしか興味があるようなことを言っていたはずだ。
「父上は、僕をさがしている間、何をしていたの。」
「父は、坊への土産を買い、おかしなじじいに…謝罪していた。」
じじいとの謎のやり取り、おいしいものの奥さんに聞けば何か助言がいただけるやもしれんな。機会があれば、伺ってみたい。
「父上は、何をもらえたんですか。」
「…?もらえる?」
「僕は、あやまったらおいしいものもらえたよ!父上もあやまったのであれば、何かもらったんじゃないの?」
坊の中に、謝ったら何かがもらえるという認識ができてしまったようだ。…そんなことはない、おかしな勘違いをせぬよう、よく言い聞かせておかねばなるまい。
「坊が、いけないことをしてきちんと謝って、その気持ちと行動を奥さんが汲んでくれたから、お土産を渡してくれたのだよ。…当たり前に、謝ったら何かをもらえるというわけではないのだ。母上にもよくお話をして、土産をもらった坊が何をしたらいいのか、考えてみなさい。」
「わかりました。」
謝ったら、何かがもらえる…。あのじじいは何を私に渡すつもりで、謝罪させたというのか。割れた卵か…?この私を…謝罪させるという、ずいぶん傲慢な態度、意味不明な出来事ではあるが、不快感はかなりのものだ。
…子の親として、ずいぶん教えのある助言をしておきながら、私の頭の中にはずいぶん…下賤な考えが浮かんできてしまっているのだがな。
あのじじいは、あのような言動をしながら…本当に、人間界で、人間たちの中で、人間として生きているのか?人間でいるのが難しいのではないか?もはや人間の形をしているだけの、人の心を無くした…手放した、捨て去った、ただの肉体に欲が詰まっているだけの存在なのではないのか。
今日の出来事は、皆にも広く知らせねばなるまい。おかしな考えを持つ人間がおり、困惑した際に…間違った判断で人を殺めてしまわぬよう、落ち着きと正しい行動で穏やかに乗り切らねばならぬ。
…いろいろ考えておったら、自宅に着いたわ。ずいぶん時間がかかってしまったから、奥方が入り口に立っておる。坊が雨雲から飛び降りて、門へと駆け寄った。
「母上ー!おいしいものをいただきました!いっしょにたべよう!!」
ずいぶん険しい顔の奥方であったが…坊の差し出したお土産を受け取り、器の蓋を開けると…大変にかわいらしい顔に、なった。…あの土産は、こんなにも奥方の表情を変えるというのか。これはすごい。…ぜひとも食わせてもらわねば!
私は雨雲から降り…かわいらしい奥方と元気のよい坊と共に、屋敷の中に入った。
いただいたお菓子はずいぶん甘く、少々面食らったものの、食べたことのない未知の味で、確かに噂になるような一品であった。
「坊が謝り、このような逸品を手に入れ…私がなにも貰わぬのは、ちと悔しいやもしれぬ。」
私はひそかに…次の大雨の際には、あのじじいから何かをいただくことを、決めたのであった。