93 『変貌』
王都の中心の大広場。霧に包まれた王都の中で唯一その場所だけは、視界が塞がれることなくいつも通りの景色が広がっていた。この場所は本来なら特別なことがない限り立ち入りを禁じられているため、屋台もなければ人の姿もない。
ただ月の光が注ぐ広場の中央で、真っ赤な瞳をしたローティアは嗜虐的な笑みを浮かべて宙に浮かんでいた。鋭い犬歯が唇の隙間から姿を覗かせ、背中からは真っ黒な翼が生えている。魔法を必要としない完全な飛行状態だ。
ローティアただ一人のその静かな空間に近づくのは、五つの気配。彼女はすべてを感知しながらも、その場から動こうとはしない。徐々に接近する気配を待ちわびるように笑みを浮かべるだけだ。
そして、現れる。
「ゴール!」
真っ先に霧を突っ切ってやってきたのは、笑顔のルリメスに連れられたレイスだ。そのすぐあとに、苦笑を浮かべたシルヴィアとラフィーとミミも続く。
四人と一匹は地面へゆっくりと着地する。
「し、死ぬかと思った……気持ち悪……」
地面の感触を足裏に確かめた途端、レイスは膝をついて口を押さえる。顔色も優れず、酔いを感じているのは見ていて明らかだった。ルリメスによる空の旅のせいである。割と速度が速かったため、加速し始めて一分も経てばレイスは死にかけていた。
「それで、あそこにいるのが……」
沈むレイスを放置して、ルリメスたちは空を見上げる。そこには真っ黒な翼を広げて佇んでいるローティアの姿が。彼女はニコリと美しい笑みを浮かべると、ゆっくりと着地する。
「あれがローティアちゃんかー」
「前に店で会ったときとはまったくの別人だな……」
店で一度会ったことしかないラフィーとシルヴィアでも、ローティアの変化は如実に感じられた。見た目はもちろんのことだが、何よりも纏っている雰囲気があまりにも違う。自然と身構えたくなるような、そんな怪しさを持っていた。
「気をつけなよ、君たち」
ミミからの警告もあって、自然と身構えるルリメスとラフィーとシルヴィア。とりあえずは臨戦態勢を取るだけだ。話し合いで解決できるなら、それが一番いい。
「そんなに警戒しなくてもいいのに……」
微かな笑い声を漏らしながら、ローティアはルリメスたちを見つめる。どうやら今のところ害意はないようだ。
「霧の魔法を解除してくれないかな、ローティアちゃん」
「どうして?」
「すでに王都全体に迷惑かかってるし、困るからだよー」
ローティアは少し考え込む素振りを見せると、やがてニコリと笑った。
「嫌」
真っ向からの否定に、ルリメスはげんなりとした表情になる。
「えぇ……じゃあ、何が目的なの? どうしたら魔法を解除してくれる?」
「特に目的はないけど……まあ、敢えて言うなら暇潰し? とにかく、魔法は解除しない」
そう言いながらルリメスたちの視線の先でローティアはゆっくりと一歩踏み出し――
「大丈夫、レイス?」
レイスは吐息がかかるほどの近さで突然囁かれた声に驚き、顔を上げた。そこには蠱惑的な笑みを浮かべたローティアの顔がある。いつの間になんて思う暇もない一瞬の出来事だ。ルリメスたちでさえ反応が遅れた。
「レイス!」
遅れたとはいえすぐさまラフィーが動き出し、一瞬で距離を詰める。背後からローティアを拘束しようと腕を伸ばすが、彼女はまるでそれが分かっていたかのように軽やかな動きで空中へ回避した。翼を使った立体的な動きはさしものラフィーでさえ捉えることが難しいのか、逃がしてしまう。
しかし、空中へ逃げたローティアを風の牢獄が囲った。鋭い刃を思わせる風たちがローティアの周囲を常時取り囲み、決して逃がさないようにする。
「はい、捕まえたー。大人しく魔法を解除して、ローティアちゃん」
ラフィーが作り出した隙を見逃さず、ルリメスがローティアを捕らえた。
「ありゃりゃ」
特に焦った様子もないローティアは、吞気にそんなことを言う。妙な余裕は気になるところではあるが、風の牢獄から逃げ出せる隙間はどこにもない。レイスはそんなローティアを見て、ようやく立ち上がる。
「心臓止まるかと思った……」
「どうやってあそこまで一瞬で移動したんでしょう……」
もっともな疑問に同調するようにレイスも頷く。レイスの前にはルリメス、ラフィー、シルヴィアの三人がいたのだ。だというのに、誰にも気付かれることなくレイスのところにまで接近した。まるで瞬間移動だ。
そこまで考えて、レイスは頬を引きつらせる。
「おいおい、まさか――!」
牢の中に囚われていたローティアが嘲るように笑う。その瞬間、牢の中にいたはずのローティアの姿は霧となって消え、また実体となって牢の外に現れた。その身体には傷一つなく、元気な様子で翼を動かしている。
「捕まえたと思った? 残念! その程度じゃ無理だよ」
ローティアは翼を広げ、楽しそうにくすくすと笑う。レイスたちにしてみればまったくと言っていいほど楽しくない。
「瞬間移動って、そんなのありかよ……」
「まあ、理論上は不可能じゃないからねー。と言っても、正直予想外だったけど」
正確には瞬間移動ではなく身体を霧に変えて移動するという吸血鬼固有の力なのだが、見ている側からすれば瞬間移動と大差ない。ルリメスが使う転移の魔法よりも圧倒的に発動速度は速いので、非常に戦闘向きの能力と言えるだろう。
ハッキリ言って反則的な力だ。
ただ、だからといって諦めるわけにもいかない。
「これならどうですか!」
続いてシルヴィアが余裕ぶるローティアへ次々と水でできた鎖を伸ばす。もちろん、そう簡単に当たるわけもなく、翼による空中移動と霧化の力で回避されていってしまう。ただ、シルヴィアとて元々当てるつもりで鎖を放っているわけではない。
ローティアも途中でそれを感じ取ったのか、目を細めて微かに笑った。
「へぇ……中々やるね」
二度、霧化による移動を目にしているシルヴィアが取った手段。それは、霧化によって移動できるであろう最大距離にも対応できる鎖を設置すること。その上で、逃げられないようにローティアを球状に鎖で囲ったのだ。
もし今まで見せていた霧化による移動距離が最大ではなかった場合簡単に回避されてしまうが、試す価値は十分にある。シルヴィアは鎖の一部をローティアへ伸ばす。ここで霧化を使うようならば、恐らくは回避できるということ。
ローティアが取った手段は――迎撃。
彼女の手の平から黒い炎が出現し、次々と向かってくる水の鎖に対してぶつけていく。ローティアを覆っていた鎖は見る見るうちに数を減らしていき、やがて最後の一つも蒸発して消えた。
「さて、次は――っ!?」
再び余裕を取り戻したローティアが笑みを浮かべた瞬間。
その意識の間隙をついて背後に現れたのは、跳躍するラフィー。浴衣姿でなぜそんなにも飛べるんだという疑問を置き去りにして、ローティアを気絶させにかかる。今のローティアに対して物理的な拘束は無意味だと判明したため、仕方なくだ。ラフィーなら、気絶させるだけなら一瞬でも触れられさえすればそれで事足りる。
それに、隙をついたため霧化による回避も間に合わない距離だ。霧化よりも、ラフィーがローティアの身体に触れるほうが一瞬早い。
「ごめんね」
しかし、またしてもローティアはラフィーの動きに反応してみせ、翼の力を緩めて急降下した。そのまま地面を砕きながら着地し、事なきを得る。
「すまない、失敗した」
ローティアとは違って綺麗に地面に着地したラフィーだが、その表情は晴れない。絶好のチャンスを逃してしまったのだから仕方ないことだろう。ただ、この場合ラフィーが失敗したのではない。
タイミングとしてはこれ以上ないほど完璧だったろうし、気配の消し方にも抜かりはなかった。油断したところへの完全な不意打ち。普通なら確実に決まっていた一撃であるのは間違いない。……ただ、それでも当たらなかった。
「これ、下手をすれば傷つける気でやってようやく止められるっていう説あるよ」
「嘘だろおい……」
「いやー、今回ばかりは割りと本気だよー。忘れちゃいけないのが、ローティアちゃんは霧の魔法を展開しながらボクたちの相手をしてるっていうこと。よくそんな状態であんな動きできるよ」
身体能力、魔力量、魔法、すべてにおいて圧倒的な実力を誇っている。ルリメスが負傷を度外視して本気で相手をしたならまず負けることはないだろうが、逆にそこまでしなければ止められないほどの実力とも言える。
「まあ、こっちは四人だしこのまま手を尽くせばいつかは止められるかもしれないけど……正直、苦戦するのは間違いないだろうねー」
簡単に手を出せず、場が膠着する。
「どうする、もう諦める?」
楽しげな様子が崩れることがないローティアは、自分からは手を出さずに訊く。彼女にとっては遊びのようなものなのだろう。
「諦めないから魔法を解除してくれ」
「嫌」
「もう錬金術教えないぞ」
「私は別に構わない」
「くっそ、吸血鬼状態じゃ無理か……」
約束を盾にした脅しも通じず、あえなく撃沈。やはり実力行使しか道が残らない。
「仕方ない。合わせて、二人ともー!」
「はい!」
「了解です!」
三人はレイスを置いて、何とかローティアを捕まえようと奮闘。重力魔法で動きを鈍らせ、体術で追い込み、氷で動きを封じようとする。
しかし、ローティアはどれも何とか無効化して三人の手から逃れる。とはいえ、流石にあの三人が全力で捕まえに来ているので余裕はないようだ。
それでも捕まる様子がないのが厄介なところなのだが。
「ミミ、何か手っ取り早い方法はないのか」
何でもいいから突破口が欲しいレイスは、ミミへ助けを求める。目の前で繰り広げられる異次元な光景に混ざることができない以上、何かしら情報を得ることくらいしか出来ない。
「吸血鬼には種族としての弱点は幾つかあるけど……」
「お、ほんとか!?」
思わぬ発言にレイスの表情が明るくなる。無敵とも思える吸血鬼にも、弱点はあるのだ。
「何がある?」
「日の光に十字架、流水に炎。あとは聖水とか」
「夜だから日の光は無理で、十字架なんてものもないし……流水とか炎って、さっきから師匠たち魔法打ちまくってるけど……」
火魔法はともかくとして、水魔法は何度か放っている。
「魔法でできた水や炎じゃ無理だよ」
「なんだそれ……となると、聖水か」
レイス肩から提げている鞄を見る。手を突っ込んで確認すると、中には一つだけ聖水が入っていた。取り出して、手に持つ。
「一つか……」
色々なポーションを持ち歩くようになった分、あまり外で使わないようなものは店に置くようになった。それが仇になった形だ。
しかし、この一本さえ当てることができれば、この状況は打破できる。
できるが――
「ふっ……!」
「いいよ、すごいすごい!」
ローティアへ肉薄したラフィーが、手の平をローティアへ当てようと目にも留まらぬ速度で腕を動かす。しかし、そのすべてを目で追えているローティアは簡単に捌いてみせると、すぐに霧化を発動。
一瞬でその場から離脱すると、空中から飛んできた鎖を回避する。そして、続けざまに飛んでくる大量の泡を黒い炎で消し飛ばした。ちょっとした爆発が起き、黒煙が立ち上る。
「……あの中に俺が混じったら間違いなく死ぬ自信がある」
レイスは死んだ目をしながら呆然と呟く。容赦なく魔法が飛び交うあんな場所に立てば、二秒ももたずに死んでしまう。いや、本人たちは傷つけるつもりはなく手加減はしているのだが、レイスは手加減されようが死ぬ。
発生する攻撃すべてがレイスにとっては必殺の一撃だ。これまでいくつもの死線を潜り抜けてきた自負はあるが、今回はレベルが違いすぎる。
「男レイス、どうする……!」
カッと目を見開き、拳に力を込めた。
「こうなったら、ラフィーにでも渡すか……? いや、聖水の存在がバレたら何が何でもそれだけは避けようとするだろうし……ぬぅぅ!」
様々な考えが頭を巡るが、解答らしい解答は出てこない。どうしようか悩んでいると、ふと魔法を避けているローティアと目が合った。
そう思った瞬間、ローティアはまたも一瞬でレイスの目の前に現れる。そして、素早く手をレイスの右手に這わせた。
「ふふふ、もらうね」
「なっ……!」
あの激しい攻防の中でいつ気付いたのだろうか、ローティアはレイスの手から聖水を奪い取る。レイスは慌てて手を伸ばすが、すでに遅い。霧化によってまた距離を取ったローティアは、嗜虐的に笑う。
「ごめんね」