86 『広がる噂』
「むぅ……」
とあるA級冒険者の青年は、一つのポーションを歩きながら難しそうな表情で眺める。そんな青年を隣で見ているのは、彼とパーティーを組んでいる少女。
青年はずっとポーションとの睨み合いを続けており、一向にやめる気配がない。
「もうちょっとで依頼の場所に着くけど……さっきからどうしたの?」
「いや、知らない店でこのポーションを買ったんだけどさ、どうにも効果が信じられないんだよ」
「それなのに買ったの?」
「いや、まあそうなんだけど……」
ここ最近実力に伸び悩んでいる青年は、怪しいと思っていてもついそのポーションを購入してしまった。後悔はしていないが、未だにポーションの効能に関しては信じ切れていない。
「ちなみにどんな効果なの?」
「一定時間の身体能力の向上、だってさ」
「うーん、聞いたことないなぁ……」
「だろ? まあ買ったからには使ってみるけど」
ポーションを胸ポケットにしまい込み、広い洞窟の中を進む。二人は今日は依頼でこの場に訪れている。内容は魔物討伐。洞窟の中に住んでいる蜘蛛型の魔物の駆除だ。
「……止まって」
少女はピタリと足を止めると、青年へ忠告する。つられて足を止めた青年は、注意深く周囲を観察した。これでも二人はA級冒険者。冒険者としては一流の部類である。
真剣な眼差しで警戒を強める二人の耳に、何かが這うような音が届く。しっかりとその音を聞いていた二人は、瞬時に反応。その場から大きく飛び退く。
すると、先程まで立っていた場所に毒々しい紫色の大きな蜘蛛が落ちてきた。人一人くらいなら丸呑みにできそうな巨体である。そんな怪物を前にしても、二人は落ち着いた様子。
青年は胸ポケットからポーションを取り出すと、一気に飲む。空になった瓶を投げ捨てると同時に、蜘蛛が糸を放つ。真っ直ぐ飛んでくる糸を見つめ、青年は足に力を込めた。
「さて、効果の程は……」
いつもと同じように一歩を踏み出すと――景色が一気に後ろに流れる。
「……え?」
青年が何が起きたのか理解できないうちに、目の前に洞窟の壁が迫った。咄嗟に身体を反転させようとするが、勢いが殺しきれない。青年は仕方なく壁に足を向けると着地、そのまま壁を蹴って蜘蛛目がけて加速する。
腰の剣を抜き放ち、勢い良く振るう。すると、簡単に蜘蛛の足の一つが宙を舞った。紫色の血が地面へ撒き散らされ、魔物の醜い悲鳴が響き渡る。
足を止めた青年は、信じられないといった表情で自分の身体を見ていた。
「な、なんだこれ……」
いつもと比べて、明らかにスピードが上がっている。攻撃の鋭さや重さも段違いだ。青年は先程投げ捨てた瓶を見て、引きつった笑みを浮かべる。
「マジかよ……」
本物だということだろう。あの若い錬金術師から買ったポーションの力は、確かに本物だったのだ。調子を良くした青年は剣を構えると、一直線に加速。反応を許さぬ速度で肉薄すると、魔物の胴体を一閃する。
いとも容易く、魔物は絶命した。
手出しする暇もなく戦闘を見ていた少女は、ひどく驚いている。口をポカーンと開けているところを見れば、青年の動きがそれだけありえないものだったのだろう。
昔から青年とパーティーを組んでいる少女にしてみれば、先程の動きがどれだけ異常かよく分かる。その動きを生み出した原因であるポーションの効能の高さも。
「誰なの、このポーションを作ったの……」
***
この数日で、王都にはある情報が飛び交っていた。曰く、とんでもなく高性能なポーションや魔道具を売っている店があるらしいと。
ある冒険者はありえないほど身体が軽くなったと語り、またある魔導師は魔法の威力が目に見えて向上したと語る。その他にも深い傷が瞬時に回復しただとか、家事が捗るようになっただとか、噂の種類は様々だ。
ただ、どの話にも共通して出てくるのは若い男の錬金術師と無表情な美少女、そして三つの尾を持つという可愛らしい狐である。
そんな噂があるとは露知らず、レイスは今日もまた営業の準備をしていた。
「よっこいせ」
ポーションが詰まった箱を下ろし、陳列棚の空きに置いていく。開店当初では考えられなかった光景だ。ローティアとミミの効果なのか、ここ数日で客の数は目に見えて増えていた。
暇な時間も随分と減り、働きがいのある場所へ変わりつつある。レイスもやる気が出るというものだ。
「よし、こんなもんかな」
ポーションの並びに魔道具の位置など、営業前に確認すべきところはすべて見終えた。レイスは満足そうに一息つく。
「このまま上手くいってくれるといいんだが……」
今のところは順調と言えるだろう。少なくともレイスが一人でやっていたときよりは大躍進だ。
「頑張りますか」
レイスが決意を新たにしていると、頭の上にミミを乗せたローティアがやってくる。彼女もこの数日で仕事には慣れたのか、声かけなどは完璧だ。しかし、どうしても表情だけは変えられなかった。
意識せずともローティアは無表情がデフォルトとなっており、こればかりは簡単に変えられるものではない。本人の癖のようなものなのだ。
「おはよう、ローティア。今日も頑張ろうぜ」
「おはよう……。うん、頑張る……」
言葉を返しやる気を見せるローティアとは対照的に、ミミはいつも通り眠そうな表情である。睡眠時間に関してはまず間違いなくローティアの方が短いのだが、どうしてこうもミミの欠伸は止まらないのか。
主に女性客によってちやほやされているので、疲れが溜まっているのかもしれない。
ちなみにローティアは店が終わってからは時間を取って魔法陣について学んでいる。本人がドヤ顔するだけあって覚えは早く、こちらも中々有意義な時間となっている。
「それじゃあ、今日も始めますか」
レイスはいつも通り外のプレートを『営業中』の文字へ変えようと扉を開け――
「……?」
扉を開けて数秒も経たずに勢い良く閉める。少し激しく鈴の音が鳴るが、レイスは気にした様子はない。彼は訝しげな表情でずっと扉を見つめている。
様子がおかしいレイスを見て、ローティアも首を傾げた。
扉を見つめていたレイスは、やがてもう一度扉に手を置き、ゆっくりと開く。レイスは目の前に広がった光景を見て何度も瞬きを繰り返し、夢ではないことを確認する。
「……は?」
思わずそんな一声が漏れるが、それをかき消すように扉の前にいた大量の客らしき人の波が声を発する。数えきれないほどの人から発せられる声の勢いは凄まじく、レイスはまたしても扉を閉めた。
「なんだこれ、どうなってるんだ……」
呆然と呟く。ローティアも扉の外の光景が見えていたのか、珍しく目を見開いて驚いたような表情をしていた。扉の外からの声は止まることを知らず、レイスとローティアは揃って困惑する。
「あれか、新手の集団詐欺か何かなのか……?」
「え……」
同じ詐欺に引っかかっている二人はトラウマからか、瞳に不安を滲ませた。とはいえ、普通に考えてそんなことはありえないのだが。
混乱する二人はどうしようか悩んだあと、とりあえず開店することに。驚かされたりはしたものの、もし扉の前の人だかりがすべて客であるのならば、入店を断る理由などない。
その状態こそ、レイスがずっと望んでいた繁盛しているということなのだから。
レイスは再び外に出ると、プレートを『営業中』の文字へ。すると、店の前にいた人だかりが一斉に中へとなだれ込んでくる。
「お、おお……」
店の中に大量の客がいるというのは、何とも不思議な気分だった。冒険者や魔導師もいれば、ただの主婦らしき人もいる。
王都に暮らす様々な人を集めたらこうなるのだろうか、というような光景が目の前にあった。恐らくは全員がレイスの商品を求めてやってきた人たちだ。
「すみません、これお願いします」
「あ、はい!」
レイスは冒険者らしき少女に声をかけられ、慌てて対応する。
「あの、どうしてこれだけの人数が……?」
精算する間に、レイスは思わず訊く。少女は不思議そうにレイスを見つめると、ポーションの瓶に描かれている炎のマークを指さした。
「知らないんですか? ここ数日で、すごいポーションや魔道具が売られているって有名になってますよ、このお店。この炎のロゴを頼りに来た人とかもいるみたいです」
「そ、そうなんですか……」
レイスとしても広まってくれれば嬉しいと思ってロゴは作ったが、効果が出るのが思ったよりもずっと早かった。これも美少女と小動物の力なのか。
ともかく、嬉しいことには変わりない。
昼を過ぎても人の波は途絶えず、結局客足が落ち着いたのは夕方を少し過ぎた頃だった。当然ではあるが、今日の利益はこれまでの中で一番だ。
夕日が差し込む店内で、レイスは半ば呆然とする。途端に静かになった店内を見れば、今日のことは夢だったのではないかと思えてくる。
しかし、確かに店の商品は減っているし、今日だけでも大きな利益が出ている。店を開いてようやく、希望らしい希望が見えてきた。
「よしっ!」
一人笑みを浮かべるレイス。背後ではカウンターに突っ伏しているローティアの姿があった。過去一番の労働だったので仕方ないのかもしれないが、明日からこれが当たり前になるのかもしれない。
「大丈夫か、ローティア」
「無理……疲れた……」
「明日からも今日と同じくらい来るかもしれないぞ」
「えぇ……」
ローティアはレイスの言葉を聞いて果てしなく嫌そうな表情をする。感情らしい感情をレイスに対して露にしたのはこれが初めてかもしれない。
面倒くさがりのローティアにとっては、これまでの何もしない時間の方が楽だったのだろう。レイスにとっては苦痛以外の何物でもないのだが。
「疲れる……面倒……」
「……約束、忘れてないよな」
いくら面倒と言ったところで、約束は約束。レイスはローティアに錬金術を教えるし、彼女はその対価に店で働くのだ。
逃れられないことを悟ったローティアは、憂いの感情を乗せたため息をついた。