80 『逃亡失敗?』
「恋人の振りかぁ……」
店への道を歩きながらも思い返すのは、やはり先ほどのこと。レイスとラフィー、どちらも不器用なので、どこまで上手くいくかは不明瞭もいいところだ。
もう少し良い言い訳はなかったものかとも思うが、咄嗟に思いついた案なので仕方ないことだろう。せめてどちらかが恋愛経験があれば良かったのだが、生憎と二人ともそういったものに縁遠い。
ラフィーは冒険者を、レイスは錬金術を頑張っていたのだ。他のことを気にかける余裕などどこにもなかった。
レイスは何気なく道行く人を観察してみる。
中には、カップルらしき男女が仲睦まじそうに歩く様子があった。お互いの手を握り、幸せそうに笑い合うその姿を見ると、途端に自信が失くなってくる。
果たしてアレを自分たちに置き換えたとき、平静を装えるだろうか、と。
「いや、無理だろ……」
レイスの異性との気軽な接触なんてルリメスくらいしかない。とはいえ、レイスの中でルリメスは異性の内に入っていないのでノーカウントと言ってもいい。
絶望的なまでに異性と接してきた経験が少ないのだ。
「とっとと諦めてくれないもんかねぇ……」
現状、レイスとしてはそれを願うばかりだ。例えば数ヶ月この状態が続こうものなら、まず間違いなく嘘をついていることがバレてしまう。
何より、レイスにも店のことがある。ラフィーの問題ばかりに集中するわけにもいかないのだ。
「さて、どうしたもんか……」
通行人の観察を止め、再び歩き出すレイス。そんな彼の視界の右端に、一瞬何か黒い塊のようなものが映り込む。
思わず足を止めたレイスは、右を見た。
「…………」
真っ直ぐ続く路地の先。
暗がりで少し見えにくいが、人の形をした黒い塊が倒れている。ピクリとも動かず、まるで死んでいるかのようだ。
レイスは今すぐこの場を立ち去りたい衝動に襲われる。少しの間逡巡すると、ため息をついてから路地の方へ入っていく。
見てしまったからには、放っておくのも夢見が悪い。これだから騙されやすいなどと言われたりするのだろうが、今更気にするまい。
レイスは地面に倒れている謎の人物に近づくにつれ、あることに気づく。
「あの狐は……」
青いスカーフを首に巻いた、三本の尾を持つ真っ白な狐。その特徴的な姿は、まだ記憶に新しい。
狐は、地面に倒れている人物の上で気持ち良さそうにすやすやと眠っていた。
ということは、だ。
狐の下にいる人物は、ギルドに向かう途中で出会ったあの少女のはず。道を尋ねてきた彼女が、どういう経緯でこんなところで倒れているのか。
レイスは恐る恐る少女の肩に手を置き、揺さぶる。
「あのー、大丈夫ですかー……」
万が一怪我でもしていたらポーションの出番だ。レイスは少女からの反応を待つ。しかし、数秒経っても返事はない。依然、地面に倒れたままの姿勢から変化はなかった。
うつ伏せで倒れているため、状態を確かめることも難しい。レイスは仕方なく、起こさないように少女の上から狐を退かすと、少女の身体をゴロンと半回転。
――バッチリと、少女と目が合う。
「うおぉぉ!!!」
少女の意識はないものと思っていたレイスは、これには驚愕する。反射的に後ろに三メートルほど下がり、信じられないものを見たような目で少女を見つめる。
バクバクと加速する心臓が、レイスの驚きの程を表していた。
レイスの声によって狐も目を覚ましたのか、ゆっくりと身体を起こす。そして、両手を地面について腰を抜かすレイスを見た。
「……君、誰?」
僅かに警戒を滲ませた声。剣呑な雰囲気が漂う。しかし、それよりも。
狐が喋った……!?
レイスは呑気にもそんな思考をしていた。間抜けなレイスの表情を見て狐も気が抜けたのか、警戒を解く。
「起きなよ、ローティア。ちょうどここに人がいるし、改めて道を教えてもらおう」
狐は寝たまま動かないローティアの顔を尻尾で軽くぺしぺしと叩く。ローティアは眼球だけ動かしてレイスを見ると、面倒くさそうな表情をする。
「ミミ、この人さっき道を教えてくれた人と同じ……」
「そうだっけ? 人間の顔は覚えられないから気付かなかったよ」
状況に置いてきぼりにされているレイスは、どうやってこの場から離れるかということだけを考えていた。意識を失っていると思って手助けしようとした少女は何故か起きているし、謎の喋る狐はやけに偉そうだし。
レイスの勘が、目の前の人物とは関わるべきではないと告げていた。こういった予感には従うべきだと知っているのだ。
レイスは中腰の姿勢でジリジリと後ろに下がる。ローティアとミミが会話を交わしている間になるべく距離を取ろうという考えだ。
ローティアは路地の奥で倒れていたため、多少なりとも人がいる通りまではここからでは少し遠い。汗を流しながらも真剣な表情で逃亡を図るレイスは、ミミがこちらを向いた瞬間――駆け出す。
全力疾走だ。これまでの人生で培ってきた逃げのスキルを総動員し、一気に路地の脱出を目指す。後ろはもう見ない。前だけを見つめ、ただひたすらに足を動かす。
「よしっ、あと少し……!」
通りはもう目前。レイスはこれは逃げ切ったと確信する。
「なっ!」
しかし、突如レイスの足は止まった。いや、止めさせられた。まるで目の前に何か壁があるかのように、前に進めない。
「いきなり逃げることはないじゃないか。少し頼みがあるんだ」
後ろからミミの声が届く。相も変わらずローティアは寝転がったままだ。
「できればお断りしたいところだな……」
「でも、道は塞がせてもらったよ。ここからどうする?」
レイスは手の平を前方の空間に触れさせる。やはり、壁のようなものがあって通れそうもない。
「なら、上はどうなんだ……!」
レイスは鞄へ手を突っ込むと、とあるポーションを引っ張り出す。その中身は、グラの実によって作られた『身体強化』のポーション。レイスは迷うことなくポーションを飲み干した。
そのまま軽く助走をつけると、力強く足を踏み出し、宙へ。本来レイスでは有り得ない身体能力を発揮して、八メートルほどの高さにまで跳んだ。
流石に空中にまでは壁は続いていないだろうと読んだ上での行動である。
……しかし、レイスの願い虚しく、勢い良く空中で見えない壁に激突。一瞬間抜けな格好のまま固まると、為す術もなく落下する。
「く、そ……」
ポーションの効果のお陰で高所からの落下でも大したダメージはない。しかし、結果としてこの場から逃げられないことが判明した。
逆さになる視界に、ミミの姿が映り込む。
「それで、話を聞く気になったかい」
「……分かった、分かったよ」
「最初からそうすればいいのに」
どうして狐がこんなに偉そうなんだとも思うが、魔法のような力を使っているところを見た以上、下手なことは口にできない。
「それで、話ってなんだ?」
「あの子を助けてやってくれ」
「あの子……」
ミミの尻尾が向けられた先には、全く動く気配のないローティアの姿が。
「助けてって、どっか怪我でもしてるのか? そんな風には見えなかったけど……」
目立った外傷はないし、ローティアが苦しんでいる様子もない。レイスが確認のためにローティアに近づくと。
ぐぎゅーと、大きな音が鳴る。
音の出処はローティア。彼女は近づいてきたレイスに感情が窺えない目を向け、一言。
「お腹、空いた……」
主張するように、もう一度ローティアのお腹が鳴った。レイスは半目になって目の前の少女を見る。
「……はい?」
今月の25日に3巻が発売となります。巻末にはコミカライズの情報がありますので、是非ともよろしくお願いします。