64 『兄妹』
セスは目の前の家へ繋がる扉を見て、暫し足を止める。少し息を吸うと、ゆっくりと扉を開けた。使用人の何人かが、セスの帰宅を迎える。
「おかえりなさいませ」
「うん、ただいま」
いつも通りのやり取りを交わしながら、セスは視線を巡らせた。見たところ、オルダの姿はない。少しホッとしながらも、一先ず自室へと向かう。
その途中で、前から小走りで駆け寄ってくる人物が一人。
「おかえりなさい、兄さん」
セスの前で止まり、リーシャはふわりと微笑む。自然と、セスの表情も綻んだ。
「ただいま。リーシャも学院から帰ったばかりかい?」
「はい、つい先程」
リーシャは今、校章が刺繍された紺色のブレザーにブラウン色のスカートを身につけている。
学院とは魔法と座学を学ぶ機関であり、セスもつい一年前に卒業した。貴族がほとんどを占める学び舎であり、優秀な人間も多い。
「お怪我はなかったですか、兄さん」
「うん。結構危なかったけど、レイスやラフィーさんたちのお陰でなんとかなったよ」
「そうですか、それは良かったです」
セスは一瞬、オルダの件について言ってしまおうかと考えたが、すぐに止めにする。確信もない考えで行動を起こしたくはなかった。
「目的は達成できたんですか?」
「まあ、なんとかね。まだやることはあるけど」
「大変ですね」
「そうだね、僕一人だと無理だっただろうね」
セス一人だと、晶竜の身体を侵している物の正体すら掴めなかっただろう。改めてレイスたちと出会えて良かったと思っていると。
「それで、デレデレはしませんでしたか?」
「してないよっ」
悪戯っぽく笑みを浮かべてからかってくる妹に、セスは即否定を返した。そもそも、学生時代から交際関係を築いたことがないのだ。
交際を申し込まれたことはあるが、そのほとんどに打算が含まれていた。四大貴族の地位はそれほど高く、所謂玉の輿を狙う人間が多い。
それに、出会って少しの女性とすぐ仲良くなれる程、セスの能力は高くない。
「兄さんに春が訪れることはあるんでしょうか」
「さあね、素敵な出会いがあることを願うばかりだよ」
二人は軽口を交わしながら歩く。
そこからは火山での出来事や、学院での出来事をお互いに話す。
そうして他愛もない雑談に花を咲かせていると、存在を主張するかのような靴音が一際高く響いた。
思わず雑談を打ち切り、セスは音の方向に目を向ける。見慣れた姿が、そこにはあった。
セスはグッと息を呑むと、心の内を見透かすように目を細める。視線を受ける当人――オルダは表情一つ動かさず、じっとセスと目を合わせていた。
いつもよりどこか険悪な雰囲気を感じ、リーシャは不安げにセスを見つめる。兄の横顔に余裕は感じられず、何を考えているのかも窺えなかった。
「…………」
セスはどう言葉をかけようか、一瞬躊躇う。リーシャがいる手前、妨害されていた事実に触れていいものなのか。
「無事に帰っていたんですね、兄上様」
躊躇うセスに投げられた言葉は、やはり含みが感じられるものだった。咄嗟に真意を問いただしたくなったが、グッと堪える。
セスは緊張を解すように肺に溜まった空気を吐き出し、まずは確認すべきところから始めようと決めた。
「オルダ、お前、僕に魔法をかけただろ」
これは、紛れもない事実。セスは確かに、オルダに妨害の魔法をかけられた。問題はそこにどれ程の悪意があったかということだ。
本当にただの妨害しか考えていなかったのなら、別にいい。嫌われている自覚があるセスには、それくらいのことは許容できる。
しかし、それ以上の悪意が――殺意があったのなら、話は別だ。その時点で、オルダはセスにとって憎たらしい弟ではなく、明確な敵となってしまう。
じっと視線を合わせる二人。
ふと、オルダはフッと笑みを浮かべると、呆れたように首を横に振る。
「私がそんなことをするわけないじゃないですか。まったく、酷い疑いですね」
返ってきたのは、否定の言葉。
最初から本当のことを言わないとは思っていたものの、セスは思わず眉をひそめた。
ただ、否定されてしまえばセスに追及はできない。追及したところで、否定の言葉が続くことが容易に予測できる。
「それで、オルダは依頼の方は順調なのかい」
「そこそこ、といったところですかね。まあ、期待して待っていてくださいよ」
「……そう」
魔法の件に関してはぐらかされる以上、セスからする話はもうない。視線を切って歩き出す。
リーシャは困惑しながらも後ろに続き、オルダは何も言わずに見送った。
「何か、あったんですか」
「少しね。気にしなくて大丈夫だよ」
そう言って笑ってみせるセス。
リーシャは白けた顔でそれを聞くと、彼の頬を両手でムギュッと掴み、左右に思いっきり引っ張った。
「痛っ!」
セスは予想だにしない攻撃に反射的に声を出してしまう。頬を刺すひりひりとした痛みから、両頬を押さえた。
攻撃した当人であるリーシャは、腰に両手を当てて不服そうな表情。何か怒らせるようなことをしただろうかと、セスは困惑気味に眉をひそめた。
「そんな態度で私を騙せると思ったんですか。甘いです、砂糖菓子並みの甘さです。ほら、早く何があったのか話してください」
リーシャは背伸びをしてセスへと顔を寄せる。
至近距離まで近づいたジト目が、無言の圧力をセスへ与えた。
セスは圧から逃れるように一歩後退し、ため息をつく。
「分かった、分かったよ。話すから」
「まったく、隠し事をしようとするからですよ」
「それにしても頬をつねることはなかろうに……」
「当然の罰です」
ツンとしているリーシャの態度は軟化しそうにない。どうにも尻に敷かれている感じが拭えないやり取りだ。いつか尊敬される兄になれるのだろうかと嘆息する。
「火山で魔法を使おうとしたとき、何故か暴走して死にかけたんだ。制御ミスとかじゃなくて、何かに邪魔されたような感覚だった。それを踏まえて思い出したのが、火山に行く前日にしたオルダとの会話。……さようならってあいつは言ってたんだ。それに、会話の途中にすごい違和感を覚えたから、多分そのときに何か仕込まれてたんだと思う」
隠し事の内容を知ったリーシャは、静かにオルダがいる方向を向く。
「ちょっと私行ってきます」
「待て、待って」
セスは今にも走り出しそうなリーシャの肩を掴み、行動を制限する。兄の制止に、妹は不満気に振り返った。
「今の話が本当なら、オルダ兄さんは折檻ものですよ」
「まあ、あいつの嫌がらせなんて今に始まったことじゃないよ。それに、僕が当主になってからでも罰は与えられる。というか、そのつもりだしね」
「……まあ、兄さんがそれでいいのなら」
そう、結局のところそれが一番早い。
セスがこの家の当主となり、オルダに関する処遇を決めればいいのだ。
故に、今優先すべきは依頼の完遂だ。オルダがどんな方法で晶竜を治そうとしているのかは分からないが、レイスたちが劣るということは決してないだろう。
「とりあえず、兄さんは私に隠し事をしようとしたので今度買い物に付き合ってください」
「えぇ……頬をつねられたのでチャラじゃないの」
「なりませんよ。それとも、可愛い妹のお願いが聞けないんですか?」
「……了解、どこか日を空けておくよ」
よろしいとでも言いたげに鷹揚に頷くリーシャを見て、叶わないなと思い知らされるセスであった。