55 『悪意』
夏が近づきつつあり、少しばかりの蒸し暑さが感じられる夜。庭から聞こえるリーンという虫の鳴き声が、夜の静寂を彩る。冬に比べて比較的明るい空の下に建つ立派な館の一室には、二人分の人影があった。
「――というわけで、その火山に行くことになったんだ。それでレイスが魔道具を作るって言い出したんだけど、それがまた凄くてさ。まあ、実験をした結果、僕たちが被害を被ったんだけどね……」
目にダメージを受けた瞬間を思い返して苦笑するセス。けれども、その語り草は楽しげなものだった。話のほとんどは、レイスに関することだ。
そんな彼を見て、妹であるリーシャは穏やかな笑みを浮かべる。
「そうですか。良かったですね、兄さん」
「……? 僕何か変だった?」
どこかいつもと違う妹の様子に、思わず首を傾げる。はて、自分が何かしただろうかと。
しかし、すぐさまリーシャが首を横に振ったことでセスの考えは否定された。
「いえ、兄さんがここ最近で一番楽しそうにしているものですから」
「そうかな?」
「ええ、そうです」
基本的にネガティブ思考でため息をつくことが多いセス。そんな彼にしては珍しいほど楽しそうだと、妹は言う。
セスは記憶を振り返り――確かにそうかもしれないと頷く。
「……まあ良くも悪くも、僕たちに気軽に接してくれる存在っていうのは珍しいからね」
「確かにそうですね」
四大貴族の家の人間という立場もあり、幼少の頃からどこか一歩引いた人間関係を築いていた。友人は確かに存在したが、レイスほど遠慮のない人間には今まで出会ったことはない。
セスとしても、余計なことを考えずに接することができるのは気も楽でいい。初めて、本当の意味での友人というものを手にした気分だった。
「普通は僕の身分を知ったら尻込みしそうなものだけどね。あの錬金術の腕といい、性格といい、良い意味で自重知らずっていうのかな」
「ふふ、兄さんが楽しそうで私も良かったです」
不意に、壁に掛けている時計がゴーンと低く鳴る。
「もうこんな時間か。明日は早いし、そろそろ部屋に戻るとするよ」
「そうしてください。……明日は、一緒に行く女の人に見とれないようにっ」
チロリと舌を出して警告するリーシャが、楽しげにくすくすと笑う。からかわれているのだと分かり、どうにも兄としての威厳が足りていないように思えた。
「しないよ……」
セスは拗ねるように渋い表情でそう言ってから立ち上がる。
「それじゃ、おやすみ」
「はい、おやすみなさい。明日はお気をつけて」
「うん、ありがとう」
扉を開けて、廊下へ出る。開けている窓から入った生暖かい風が、ゆるりと頬を撫でた。
威厳のためにもう少し筋肉とかつけた方がいいのかなぁ、などと取り留めのないことを考えながら自室へ戻ろうとすると。
「おやおや、兄上様ではありませんか」
芝居がかった口調が、踏み出したかけたセスの足を引き戻す。内心舌打ちしながら振り返ると、そこにはにやにやと気味悪く笑うオルダの姿。彼は上機嫌そうに目を細め、セスの肩に手を置いた。
「明日はお忙しいというのに、呼びとめてしまい申し訳ないです」
「っ……盗み聞きは感心しないな」
「いやはや心外です。たまたま通りかかっただけですとも」
そう言われてしまえば、確たる証拠もないセスには言い返す言葉もない。押し黙るセスの姿を見て、オルダは嘲笑うかのように鼻を鳴らす。
「それにしても驚きました。まだあの平民と一緒にいるとは」
「お前には関係ないだろ」
「ええ、そうですね。どこで落ちぶれようが兄上様の勝手ですとも」
セスは鋭くオルダを睨むと、肩に置かれた手を乱暴に振り払う。
「おっと……」
わざとらしく仰け反る素振りを見せたオルダは、肩を竦めて笑みを浮かべた。
話を続けるのも馬鹿らしいと判断したセスは、足早にその場を立ち去ろうと背を向ける。
「それでは、明日はお気をつけて。……さようなら、兄上様」
皮肉とも違う、どこか含みのある言葉が耳に届くと同時。頬を撫でる風の中に、何か異質なものが混ざった気がした。粘り着いてくるようなその感覚は一瞬で消え、何とも言えない後味の悪さを胸中に残す。
「……嫌な感じだ」
背後のオルダの悪意のある瞳と笑みに気付かないまま――セスは静かにそう零した。
***
転移とは、術者が目視する範囲内、もしくは一度訪れたことのある場所へ一瞬で移動する魔法のことを指す。一度も訪れたことのない場所へ転移できないのは、壁の中に埋まる可能性があるなど、幾つか理由がある。
最たる理由は、とても一人では補えない程の膨大な魔力が必要になるためだが。
レイスが実験をした日、つまりラフィーたちを火山行きに誘った日から一週間後。シルヴィアが転移の練習をした平原に、レイスたち五人は集まっていた。目的はもちろん、火山に行って燈銀を回収するためだ。
「いやー、ラフィーとシルヴィアが引き受けてくれて助かった。正直、俺ら三人じゃ心許なかったからさ」
「まあ、別に構わないが……」
レイスがラフィーたちを誘った最大の理由としては、ラフィーの剣の腕にある。
火山内では精霊の影響によって魔法が効き辛い。魔物にでも出会った場合、魔導師ばかりでは対処できない可能性も出てくる。
そこでラフィーに白羽の矢が立ったのだ。レイスが知る限り最強の前衛だ。
「全員『衝撃耐性』の指輪は持ってるよな」
レイスの確認に、他の四人は揃ってコクリと頷く。万が一のときの場合の保険だ。
更に、レイスとラフィーを除く魔導師三人には魔法強化の指輪が配られている。こちらは精霊と敵対した場合の切り札。
準備は万全だ。
「レイス、気になってたんだけど、火山までどうやって行くんだい?」
「ん、気になるか? まあ、心配するな。俺たちには師匠がいる」
「任せたまえー」
エッヘンと胸を張るルリメス。
火山までどうやって行くのか、察しがついているラフィーとシルヴィアは神妙な表情だ。
前に同じ流れを見たような気がするセスは、漠然とした不安を感じた。しかし、それを口にする暇もなく、ルリメスが片手を大きく上げて注目を集める。
「それじゃ、行くよー。集まってー」
何が何だか分からないまま、セスはとりあえず言われた通りにする。それでも内心の不安は隠しきれず、思わず隣に立つレイスを見た。彼は安心しろとでも言うようにニッと笑みを浮かべる。
セスはホッと安堵の息をつきかけるが。
「大丈夫、失敗しても胴体と首がおさらばするだけだ」
「…………は?」
セスはたっぷり数秒ほどかけてその一声を絞り出した。彼の目の前には、変わらず笑みを浮かべ続けるレイスの姿。とても物騒な内容の発言をしたばかりとは思えない。
「諦めろ、レイスと付き合っていくならある程度慣れは必要だ。まあ、それを超えてくることも多いが……」
「ですね」
呆然とするセスに姉妹から哀れみの視線が送られる。
慣れている二人はともかくとして、セスの思考は混乱の一途をたどるばかりだ。
「ちょ、ちょっと待ってくれ……!」
「いーや、待たないね」
レイスは慌ててその場を離れようとするセスの手首を掴み、穏やかな笑みを向ける。頬をひくつかせるセスが叫び声を上げた瞬間。
レイスたちは、その場から姿を消した。