43 『無駄に洗練された技術。つまり悪知恵』
――どうしてこうなったのか。
レイスは血糊のように頬にべったりと付着したケチャップを拭いながら、そんなことを思う。ふと隣を見れば、あわあわと可愛らしく慌てているシルヴィアの姿と、口の端を引きつらせて笑っているラフィーの姿があった。
彼女らが見つめる先は同じ場所で、そこにはレイスの師匠であるルリメスが立っている。……いや、修正しよう。正確には、浮いている。
ふわふわと、空中に。
片手には酒瓶を持ち、頬は朱色に染まっている。瞳はとろんとしており、理性が残っているか実に怪しいところだ。
その光景を見て、レイスはもう一度強く思った。
――どうして!! こうなった!!
内心の絶叫は誰にも届かず、レイスは一人で頭を抱えた。
***
事の始まりは、王都に帰ったあとのこと。ルリメスの提案によって決定した夕食の席を実現するべく、夕暮れの中レイスたちは買い物をしていた。
ちなみに、夕食はレイスの家で食べることに決定している。……勝手にルリメスが決めたことだが。
夕食のための食材集めは順調に進んでいた。ただ、残すは飲み物の調達、というところで問題が発生した。
「ねぇ、レイ君、いいじゃないかー」
「ダメだ」
酒瓶を持って子どものようにねだるルリメスに対して、レイスは厳しい表情で否定の言葉を口にする。
問題とはこのことで、ルリメスがお酒を発見してしまったのだ。それからその場を離れようとしないので、レイスも困り果てているというわけである。
「なあレイス、少しくらいならいいんじゃないか?」
「しかしだな……」
苦笑するラフィーから助け船が出され、ルリメスは見るからに明るい顔になる。口ごもるレイスを見て好機と見たのか、ルリメスは切り札を切った。
「魔道具の鞄作り」
「うっ……」
痛いところを突かれ、思わず変な声を出すレイス。そう、レイスはルリメスに鞄作りを手伝ってもらっているのだ。その際、お酒を飲ませると約束してしまっている。
レイスは一気に追い込まれ、苦々しい表情になった。その後もしばらく唸ったあと、ガクリと肩を落とす。
「分かったよ……けど、少しだけだからな」
「やった、流石レイ君!」
「どの口が言うんだか……」
レイスはこめかみに指を当て、やれやれと首を振る。ルリメスの酒好きは今に始まったことではないが、ラフィーとシルヴィアもいる場所で飲ませたくないのが本音だ。それに、敏感に研ぎ澄まされたレイスの感覚が、胸の中の嫌な予感を捉えている。
「先に謝っておく、ごめん」
「?」
なぜか謝るレイスを見て、シルヴィアはきょとんと首を傾げた。
嬉しそうにお酒を購入するルリメスを見てレイスの中に蘇るのは、ルリメスがお酒を飲んでいたときの記憶。
「ふーむ、確か前に師匠がお酒を飲んだときは俺は一週間掃除を続ける羽目になったな……」
「……それ、まずくないですか」
「ああ、まずいな」
真顔で言い合うレイスとシルヴィア。実際、悲劇が再び起こればレイスが苦労することは目に見えている。それは望む未来ではない。
「というわけで、なるべく未然に防げるよう努力しよう」
「そうですね」
二人で拳を握り、小声で誓いを立てる。
フラグっぽい光景に、ラフィーは何とも言えない表情。
買い物はルリメスのお酒の購入を最後に終了し、四人はレイスの家へ。念のため工房の中ではなく、二階の居住用のスペースで料理と食事をすることに。最悪の場合を考えているあたり、レイスのルリメスに対する信用度が窺える。
――ある意味、何かやらかすという意味での信用はあるかもしれないが。
レイスは酒瓶を愛おしそうに胸に抱くルリメスを見てため息をつく。ただ、心配ばかりしていても仕方ない。何も起きないことを祈りながら、行動を開始する。
「俺は料理作っとくから、三人は適当に時間を潰しといてくれ」
ルリメスを一人にするのも心配なので、監視役代わりにラフィーとシルヴィアを置いていく。ラフィーは手伝いたそうな雰囲気を出していたが、そこは我慢してもらう他ない。
「とりあえず先に一階で回収するか」
回収するとはレイスが育てている植物のことだ。錬金術の素材がほとんどではあるが、中には食用のものも存在する。
籠を手に『冬』の素材保管部屋を訪れ、手際よく植物を集めていたレイス。ふと彼の目の端にある果実が留まる。
「リンネの実……そういえばもう育ってたか」
リンネの実とは、錬金術の材料にはならないフルーツのことだ。枝の先から球体状の小さい粒を無数につけ、やがて螺旋を描くような形をとる。
このリンネの実はただのフルーツではなく、一つだけ大きな特徴がある。そのため、レイスも興味本位で育てていたのだ。
「ちょうどいいか」
レイスは一つ頷くと、リンネの実も少し回収。目的のものはすべて回収し終え、一息つく。
「さて、あとは料理するだけっと……」
レイスは籠を持ち上げ、キッチンへと向かおうとして――
「何やってるんですか、ルリメスさん!?」
そんな声が、唐突に聞こえてきた。
早くないか、という気持ちが半分とやっぱりか、という気持ちが半分。
何が起こったのかは知らないが、何かが起こったことは確か。聞こえなかった振りをしたいのは山々である。しかし、そうしたところで問題は解決しない。
世界とはかくも残酷なのである。
レイスはため息をつき、渋々声がした場所へと向かう。妙に足が重く感じるのは、きっと気のせいではない。
憂鬱な気分のレイスが、目にした光景は。
「あ、レイふんー!」
酒瓶を持って宙に浮く、ルリメスの姿。その頬は赤らんでおり、呂律も回っていない。どう見ても正常な状態とは言えなかった。
レイスはにへらと笑いかけてくる師匠を無視して、呆然と立ち尽くしているラフィーとシルヴィアの二人を見た。
「一応、何が起きたか訊いてもいいか」
「その、なぜか急にルリメスさんが魔法を使い始めて……」
「急に、ね」
レイスはルリメスが持っている酒瓶に目を向ける。酒瓶の中には大量の液体が残っており、飲まれた形跡はまったくない。
しかし、長年の付き合いからレイスは察する。
――こいつ、転移魔法使ってバレずに飲みやがったな!
しかも、水魔法を使って酒瓶を満たすという徹底ぶりだ。だから、ラフィーとシルヴィアのどちらも気づくことができなかった。
「おい師匠、もうこの際酒を大量に飲んだことは責めないから今すぐ椅子に座れ」
「ふぇ、ボクはおひゃけなんか飲んでにゃいよー」
「だーめだこいつ、理性が残っちゃいねぇ」
空笑いを浮かべ、説得を早々に諦めたレイス。
「どうするんだ、レイス」
ラフィーの期待がこもった視線がレイスへと向かう。それに対し、レイスは随分と落ち着いた様子でラフィーを見た。
「……どうしよ」
静かに、手詰まりであることを白状する。その瞬間、部屋の中に風が吹き荒れた。言わずもがな、酔ったルリメスの仕業である。
「おいちょっと待て、どうしてこう酔ってるのに魔法の発動はできるんだよ……!?」
本来なら魔法の発動には集中力を要するはずだが、ルリメスにそんなものが残っている様子はない。完全に身体に染みついた感覚だけで魔法を発動している。
「少し強引ですけど、魔法を相殺させて私が止めましょうか、レイスさん!」
「悪い、頼んだ!」
そのやり取りの直後、シルヴィアが風魔法を発動する。すると、部屋の中を突風が駆け巡ったあと、風は止まった。
「風は止まりました……けど」
少し申し訳なさそうなシルヴィアの声。家具が倒れ、レイスが持っていた調味料などがバラバラに散らばっているのだから、部屋の中は散々な状態だ。
「…………」
レイスは静かに己の油断を悔やみ、未だに空中で愉快そうに笑っているルリメスを睨んだ。