41 『魔法指南』
春の穏やかな風が、心地よく頬を撫でる。レイスは、もう少しで終わってしまうこの季節に名残惜しさを覚え、空を見上げた。
本日は雲が多く、合間から細い陽光が無数に降り注いでいる。かといってじめじめしているかといえばそういうわけでもなく、過ごしやすい気温だ。
昼寝をするには丁度いいだろう。時折吹く風も相まって、気持ちよく眠れるはずだ。
しかし、残念ながらそうするわけにもいかない。本日、レイスが外出したのには理由があるのだから。その理由に視線を向け、様子を見る。
「よーし、何から始めようか。要望とかあったりする?」
「えーと、それじゃあ、空間魔法とか教えてもらってもいいですか?」
「いいよー、早速始めようか!」
元気良く会話を交わしているのは、シルヴィアとルリメスの二人。昨日言った魔法を教えるという約束のため、誰もいない平原に集まった次第である。
王都から少し離れており、魔物も出没するこの平原。しかしながら、過剰戦力と言っていいほどこの場には実力者が揃っているので何の問題にもならない。
そんな中、シルヴィアの気分は最高潮のようで、若干頬が赤らんでいる。やる気満々の生徒を前に、ルリメスの機嫌も良い。
ちなみにレイスはルリメスが変なことをしないか見張るために来ている。シルヴィアが強いのは百も承知だか、念の為だ。
数々のトラウマが記憶の中で蘇り、レイスは一瞬身震いする。
「ん、どうしたレイス、寒いのか?」
「いや、大丈夫」
隣に並び立つラフィーに軽く手を振って意を伝える。彼女は見張りのために来たレイスとは違い、純粋な興味心でこの場に訪れた。
巨竜をその身一つで退け、英雄と呼ばれた人間の実力を一目見ておきたいのだ。まあ、ラフィーは剣士でルリメスは魔導師なので、教えを請うことは叶わないのだが。
ラフィーはその事実を少し残念に思いつつも、目の前の光景を見逃さないように集中する。
「そうだねー、じゃあ転移でもやってみようかー」
「転移、ですか……」
ルリメスの言葉を聞いたシルヴィアは、少し難しそうな表情だ。それもそのはずで、転移は空間魔法の中でもトップクラスに難度が高い魔法なのである。
決して気軽にやってみようかーと言ってできる魔法ではない。
「大丈夫、大丈夫。シルヴィアちゃんは才能あるしできるよ! 多分!」
そう満面の笑みで言われてしまえば、シルヴィアとしても言い返すことはない。改めて気合を入れ、小さく拳を握る。
「ず、随分と適当なんだな……」
「師匠の口ぶりはいつものことだぞ。まあでも、信用できるときもある」
「それはつまり信用できないときもあるってことじゃないのか」
純粋な疑問。
レイスは少しの間顎に手を当て、考え込む。
「……うん、そうだな」
静かに頷いたレイスは、どこか達観しているような神妙な面持ちで。半目でレイスを見るラフィーは、やれやれと首を振る。
結局、どちらも魔法に詳しくはないので、今回のルリメスの言葉に信頼を寄せていいのか分からずにいた。
「それじゃあ、一度ボクがやってみるよー」
「お願いします!」
ルリメスは特に気負った様子もなく、ごく自然な動作で指をパチンと鳴らす。すると、一瞬にしてルリメスの姿が消失し、数メートル先に再び現れた。
「まあ、こんな感じー」
「おおー!」
シルヴィアは感動した様子でぱちぱちと手を鳴らす。レイスは何度も見ているので今更何とも思わないが、やはり驚嘆に値することに変わりはないのだ。
ラフィーも小さく感嘆の息を吐き、興味の色を示している。
「まあ、これだけでいきなりやってみせろっていうのは無茶だからね。とりあえず感覚を馴染ませるところから始めようかー」
ルリメスはそう言って、シルヴィアの手を両手で包み込むようにして軽く握る。そして、シルヴィアの手にゆっくりと魔力を流し始めた。
「魔力の流れは分かる?」
「はい、大丈夫です」
「うんうん、いいね。それじゃ、一度試してみようかー」
そこで、なぜかルリメスがレイスの顔をチラリと見た。レイスは眉をひそめて師匠を見るが、彼女はすぐに目を逸らす。
「試すって、一体何を――」
ルリメスはシルヴィアの言葉を最後まで聞かず、ニヤリと笑みを浮かべて先程と同じように指を鳴らした。すると、シルヴィアの姿のみが消失する。
「ん?」
どこに行ったのかという疑問が湧き上がると同時に、レイスを覆うように影ができる。反射的に上を見ると、揺れるワンピースの裾を顔を赤くして必死に抑えるシルヴィアの姿。
「ぬ、おおお!!!」
レイスは雄叫びと共に咄嗟に腕を広げ、落下してくるシルヴィアを抱き抱える。落下の衝撃が腕から全身へと伝わってくるが、歯を食いしばることで堪えた。
「だ、大丈夫か、シルヴィア」
「は、はい! ごめんなさい……!」
シルヴィアはレイスの腕の中で、顔を赤くしたまま小さく謝罪する。レイスも女の子特有の柔らかい肌の感触やらを意識の外に置き、平静を保つ。
シルヴィアを地面に降ろすと、キッと己の師を睨んだ。
「わざとだろ、師匠」
「いやはや、何のことかなー」
ルリメスの悪気を隠す気もないような表情がレイスの目に入る。
「とぼけるなよ、今日師匠が寝るときにこっそり隣に虫を置くぞ」
「わー、ごめんごめん!! 謝るから許してよー!」
割とガチ目の嫌がらせを口にすると、流石のルリメスも即座に謝罪。親に叱られる子のような光景に、ラフィーは何とも言えない表情だ。
「いつもこんな感じなのか……?」
「まあな。もう慣れた」
「そ、そうか」
ラフィーは流石はレイスの師匠だな、とレイスが聞いたら抗議するような納得の仕方をする。悲しいかな、これが現実なのだ。
「ごめんね、シルヴィアちゃん」
「い、いえ……」
「それで、感覚は掴めた?」
「はい、少しだけ」
ルリメスに悪戯心がなかったと言えば嘘になるが、何もそのためだけにシルヴィアを転移させたわけではない。ちゃんと転移の感覚を掴ませるためという理由はある。
「それじゃあ、その感覚を忘れないように少しずつ頑張っていこー。コツは座標と座標の『繋がり』を意識して、魔力を放つことだよ。まずは物体の転移からー」
ルリメスが得意気に指を鳴らすと、その手の中にポーションが入った瓶が収まる。違和感を覚えたレイスが自分の身体を見ると、太もものホルスターに収納していたポーションがなくなっている。
「借りるよー、レイ君」
「了解」
特に貴重なものでもないので、気軽に了承する。
その間、ルリメスの話を聞いたシルヴィアは深く頷いていた。
正直、レイスとしては何を言っているのかまったく分からないが、シルヴィアにとっては得るものがあったらしい。
ルリメスからポーションを受け取ると、集中した様子で数メートル先の空間を睨み、鋭く息を吸い込む。両手を前方に突き出すと、魔力を放った。
その瞬間、ガラスが割れる音が響き渡る。
「あ」
ポツリとそう漏らしたのは、ラフィー。彼女が見つめる先には、瓶が割れ、中のポーションが流れ出ている光景があった。そのポーションこそ、シルヴィアが転移させたものである。
「おおー、やっぱり才能あるね、シルヴィアちゃん。損傷は起きてるけど、転移自体は成功してる!」
「成功……なんですか?」
瓶が割れてしまっているのを見て、首を傾げるシルヴィア。ルリメスは異常なく完璧に転移させていたので、疑問に思ったのだ。
「まあ、普通の人なら転移させること自体できないからねー。成功も成功、大成功だよ! あとは『繋がり』に気をつけるだけだねー。そこが甘くなると、さっきみたいに転移するものが損傷するから」
ルリメスの言葉を聞きながら割れた瓶を見つめるラフィーは、ふと浮かんだ疑問を口にする。
「これって、人間を転移させるときにこういう風になったら、どうなるんですか?」
その場にいる三人の視線が、ルリメスへと集中する。彼女は気まずそうに頬を掻くと、困ったように笑った。
「……まあ最悪、首の上と下がお別れしちゃうかも」
空気が凍りつくとはまさにこういうことを言うのか、というほど分かりやすくレイスたちは硬直する。転移を実際に習っているシルヴィアは、冷や汗までかいていた。
「私、絶対に人には使いません」
シルヴィアはそう固く心に誓う。レイスとラフィーも、同調するようにブンブンと首を縦に振っていた。
ちなみにこの日は一度だけ転移が成功して、魔法の指南は終了となった。