35 『予感』
それは五年以上前の話。レイスがルリメスの弟子になったばかりの頃。まだルリメスの本性に気がついていなかったレイスは、それはもう純真な心で錬金術を学ぼうとしていた。
何せ、レイスはルリメスの実力を知っている上、彼女の錬金術を見て興味を持ったのだから。
「レイ君、錬金術において重要なことはなんだと思うー?」
「えーと、知識?」
「うんうん、それも大事だねー。だけど、それよりも重要なことがあるんだ」
柔らかい笑みを浮かべながら、ルリメスは人差し指をピンと立てる。
「錬金術において重要なのは、『実地体験』。見て覚えることだよー」
「つまり……どういうこと?」
「まあ、言葉で伝えるより実際にやってもらった方が早いかなー」
よく分からないが、師匠がそう言うのなら間違いないのだろう。そういった考えのもと、なんの疑いもなくルリメスに着いていったレイスは、たっぷりと後悔することになる。
――ルリメスという人間を、師匠に選んでしまったことに。
初めての『実地体験』は、地獄と言って差し支えなかった。目的のものだったのは、ドラゴンの巣の近辺にある果実。もちろん、果実を取るためにはドラゴンを無視することはできない。
その結果、レイスはドラゴンに追いかけ回される羽目になった。
頬を掠めるドラゴンの炎に涙を流し、巨大な翼から発生する暴風が身体の安定感を奪う。命の危機という初めての経験に、レイスは分かりやすく焦っていた。
ドラゴンとの距離が縮まり、大きな口がポッカリと開く。中には鋭い牙がぎっしりと生え並んでいた。人一人を食うことなど容易いだろう。
「あぁぁぁぁぁぁ!!!!」
あまりの恐怖にレイスは絶叫し――
***
「うあああっ……!?」
情けない声を上げて、レイスの意識は覚醒する。
椅子に身体を預けて寝ていたのだが、起き方に勢いがあり過ぎたせいか、身体は地面に投げ出されていた。
「いてて……」
レイスは痛む身体を起こして、立ち上がる。
「……夢、か」
思い返したのは、絶叫の原因。
夢を見るのは久しぶりのことだった。それにしても、最悪の内容だったが。人生で思い出したくないシーントップスリーには入る。
言うならば、地獄の始まりの出来事だったのだから。
「まったく、朝から最悪な気分だ……」
夢見の悪さで言えば間違いなく一等級のものだ。
げんなりとした表情のレイスは、ため息をつく。痛む身体を解しながら冷蔵庫の前へ。今日の朝食を考える。
「パンでいいか」
夢のせいか、食欲はあまりなかった。いつもはご飯を食べているのだが、今日はやめておくことにする。
カップに牛乳を注ぎ、パンを持って椅子に座る。そして、ボーッと室内を見渡した。
生活スペースと工房が複合したこの場所での生活は、レイスにとって心地の良いものだった。錬金術に取り組みながら寝落ちすることが多くなったのは考えものだが、それでも素晴らしい場所であることには変わりない。
師匠の世話をしていた時代を思うと、天国と呼べるだろう。レイスは内心で俺、頑張ってると自分を慰めながら、パンを頬張る。
「とはいえ、悩みがないわけじゃないからな」
レイスがチラリと目を向けたのは、机の一角に置かれた手紙。その差出人は、まさかの王家だ。指名依頼としてレイスに手渡されたものである。
手紙を貰ったのは昨日の事。当然、すでに内容には目を通してある。書かれていたことを要約すると、三日後に王城にまで来いというものだ。
つまり、レイスは二日後に王城に行かなければならない。指名依頼と言えば聞こえはいいが、レイスにしてみれば選択権はないようなものだ。
王家からの依頼を断るなど、レイスには後が怖くてできない。断れる人間の方が少ないだろうというのが本音だ。
なので、王城に行くことは確定している。
ただ、問題が一つあるのだ。
「肝心の内容が書いてないっていうのが怖いよなぁ……」
手紙には、レイスに依頼を出した理由が書かれていないのだ。ただ、王城にまで来いということだけが記されている。
というわけで、実際に行って何を言われるのか、戦々恐々としているわけである。要求されるものがエリクサーなどレイスが渡せるものならいいが、無茶なことを言われたら最悪だ。
「はぁ……」
夢のこともあって、憂鬱な気分は加速するばかりだ。
レイスは朝食を食べ終えると、洗面所へ。開きっぱなしの小窓からは、音を立てて朝の冷たい風が吹き込んでいた。
レイスは多少の寒さを感じながらも、顔を洗うために水を出す。水は心地の良い音を立てながら流れ、レイスの心を癒してくれる。
気分を切り替えるように顔を洗うと、歯も磨く。
レイスは朝の身支度を終え、日課を始めた。
「よーし、元気に育てよー」
そう言って、レイスは花壇に植えられた植物に水をやる。
レイスにとっての日課というのは、工房全体の管理のことを指し示す言葉だ。植物に関して言えば、錬金術を使用して成長を促進させている分、管理には慎重にならなければならない。
温度、湿度、水や光の量の確認、管理。これは毎日徹底してやっている。
「異常なしっと」
特に問題はなく、植物は順調に育っている。これには、レイスの表情も綻ぶ。心情的には子どもの成長を見守る親の気分だ。
「さてと」
次にレイスが向かったのは、瓶や魔道具など、錬金術に使うものが置かれている部屋だ。レイスは師匠と違い、使ったものはちゃんと整理する人間である。
昨日使った道具を、種類ごとに分けて収納していく。こうしたこまめな分類は大事だ。
そうして一通り朝にやるべきことを終えたレイス。工房の中を歩き回って少しばかり汗をかいた彼は、お風呂へと向かう。
今日はお昼からラフィーとシルヴィアと会う約束もあるのだ。汗をかいたまま会うわけにもいかない。
レイスが無心でシャワーを浴びていると、ぼんやりと頭の中に浮かんでくるのは今朝に見た夢の内容。中でも、何故か師匠の顔が浮かぶ。
予感と呼べばいいのだろうか。
言いようのない漠然とした不安が、胸の内を巡る。
「なんだ、この感覚は……?」
分からない。
分からないが――何か、嫌なことが起きる気がする。
「いやいや、考え過ぎだっ!」
不安を消すように声を出すと、ガシガシと頭を洗う。しかし、レイスの意志とは反して頭の中では師匠の笑い声が響いていた。
「くっ……夢の影響がここまで大きいとは……!」
自分のトラウマの大きさを再確認し、風呂の中で一人唸る。傍から見たら、随分と滑稽な光景だ。自分ではそれに気づかないまま、レイスは苦い表情のまま風呂から上がる。
身体を拭き、服を着て家の前まで出ると、ポストの中を確認。すると、一通の手紙が中に入っていた。
「手紙? 誰からだ?」
何気なく、差出人の名を確認する。
「……?」
レイスはゴシゴシと目を擦り、もう一度ゆっくりと名前を確認する。
「あれ、おかしいな……」
差出人の名には、確かにルリメスとそう記されていた。意識せずとも、手紙を持つレイスの手が震える。
「いや、待て待て待て。まだ慌てるな、何も師匠がここに来てるわけじゃないんだ……!」
レイスは手紙を持ってダッシュで工房まで戻り、慎重に内容を確認する。
そして――
「逃げなければ。今すぐ、逃げなければ」
絶望の表情で、ぼそりと呟く。
手紙には、ルリメスが王都に向かっているということが書かれていた。最悪の事態に直面したレイスが導き出した解答は、逃走の一択だった。