102 『頼れる妹』
リーシャ・リンフォールドは四大貴族の家に生まれた秀才だ。幼い頃より魔法の扱いに長け、通っている魔法学院においても上位の成績をキープし続けている。
それは決して才能ばかりに頼ったものではなく、家の名に恥じぬよう努力を重ねてきた結果だ。その真摯な姿勢と物腰の柔らかい人柄から教師や同級生からの好感も高く、まさに優等生といった人物である。
少々ブラコン気味なのが玉に瑕だろうか。
夏の長期休暇の最終日を迎えた夜。翌日の学院の準備を終えたリーシャは、セスからの呼び出しを受けていた。ここ最近忙しい兄からの呼び出しは珍しく、一体何の用件なのか疑問に思っていたのだが――
「レイスさん、ですか」
「うん。多分、明日から学院で働くことになると思う。悪いけど、何か困ってたら助けてあげて欲しい」
明日から学院で働くことになるレイスを気遣い、セスは妹へ頼みをしていた。何をするか分からないレイスへの保険の意味もあるが、友人としてできる限り手助けはしてあげたいのだ。
「でも、あれだけ錬金術の実力があるなら、私が助ける必要があるのか……」
「もちろん錬金術に関しては何も心配してないよ。……ただ、レイスはそれ以外の部分で色々と困りそうな気がしてさ」
「はぁ……」
まだ一度しかレイスと会ったことのないリーシャには兄の憂いの共感はできず、気の抜けた声を返す。
「まあ、手助け程度なら大丈夫ですよ」
「ありがとう、助かるよ」
他ならぬ兄の頼みだ。
それに、リーシャとしても兄から伝え聞く規格外の錬金術には興味があった。断る理由もない。
「それはそうと、最近ちゃんとご飯食べてますか? 忙しいからって食べなかったら力が出ませんからね! あと、しっかりと睡眠をとることも大事です。頑張るのもいいですけど、兄さんはもう少し自分の身体を大切にするべきですよ」
「き、気をつけるよ……」
リーシャは人差し指を立て、一気にまくし立てる。セスは面食らいながらもコクコクと首を縦に動かした。ここで妙な反論をすれば、有無を言わさぬ圧力を持った目で睨まれることは分かっていた。
リーシャはセスの反応に「よろしい」とでも言いたげにニコリと笑みを浮かべる。
「まったく……本当に大丈夫なんですね?」
「うん、体調に問題はないよ。まさかこの歳になって、妹にそんな注意を受けるとは思わなかったよ」
もちろん心配されるのは嬉しく思うのだが、セスとしては少々気恥ずかしくなるやり取りでもある。
威厳ある当主を目指している身としては、どちらかと言うと慕われるような反応の方が望ましい。
これではまるで頑張りすぎる息子を心配する母親の反応だ。
「妹に構う暇もないみたいでしたからね」
リーシャは横目を向け、皮肉っぽくそう言ってみせる。
ただ、セスはその言葉に気分を害された様子もなく、不思議そうに目を瞬かせている。
というのも、普段から兄であるセスに対して敬語を使って接するリーシャが、皮肉を言うなんて滅多にないからだ。
「……拗ねてる?」
思わずパッと思い浮かんだ言葉を口にする。
リーシャは一瞬驚いたようにセスを見ると、ムッとした表情へ。
「拗ねてませんっ」
頑なに言葉を否定してしまえば、逆に自分で肯定しているようなものだ。
セスは珍しく意地の悪い笑みを浮かべ、妹の頭に手を伸ばす。
「寂しかったんだったらそう言えばよかったのに」
セスはリーシャの頭に手を置いて、よしよしと子どもをあやすように撫でた。
悪戯心に多少の慈愛が含まれたその行動。
リーシャはふるふると肩を震わせ、涙目で兄を睨む。羞恥からか怒りからか、頬は微かに赤らんでいた。
ただ確かなのは、地雷を踏んでしまったということだ。
先程までの意地の悪さはどこへいったのか、セスは目に見えて動揺を露わにする。
リーシャが皮肉を言うのも珍しいが、セスが意地悪をするのも珍しいのだ。
慣れないことはするものではないと、今更ながら後悔がセスの胸中を襲う。
「いや、あの、そんなつもりはなくて……」
言い訳にもなっていないような言葉が無意識の内に口から漏れ出る。なんとか妹の機嫌を取り戻そうとするが、上手い方法が思いつかない。
結果的におろおろと情けない姿を晒し続けるセス。
リーシャはそんな兄を見て、深くため息をついた。
そして、そっぽを向いてぽつりと呟く。
「……今度、美味しいお菓子を食べに連れて行ってくれたら許してあげます」
「約束するよ」
思考を挟むことなく、高速で返事をする。
そのことに機嫌を良くしたのか、リーシャは浮かべていた涙が嘘のように曇りのない笑顔を見せた。
「それじゃあおやすみなさい、兄さん。約束、忘れないでくださいね」
リーシャはそう言い残すと、そそくさと部屋を立ち去っていった。
「……嘘じゃないよね?」
まさかあの涙は演技だったのか、不安になる。
それでも妹の機嫌を損なわずに済んだのなら、それはそれで構わないとは思ってはいるが。
これでは、威厳ある当主への道はまだまだと言わざるを得ないだろう。妹の機嫌を損なわずに済んだことに、セスは内心で安堵。
やはり妹に適わないところは、いつまで経っても変わりそうにないのだった。
***
魔法学院には初等部、中等部、高等部の三つが存在する。だからといってエスカレーター方式で簡単に進級できるわけではなく、入学試験と同じく厳しい試験が課せられる。これは魔導師の質を保つためにも必要なことであり、故に魔法学院の生徒の多くが優秀なのだ。
そんな優秀な生徒が多く集う魔法学院。当然、教員に求められる実力もそれ相応のものとなる。
そして、長期休暇が明け、今日から晴れて魔法学院の教員となるレイスはといえば――
「……どこだここ」
迷っていた。
完璧なまでの迷子だ。
今日から頑張るぞと工房を飛び出してきたのがつい一時間前。胸を満たしていた充実感のような何かはとっくの昔に消え去り、今は絶望感と焦りだけが加速度的に増している。
どうしてこんなことになったのか。一度行ったことがあるのだから迷わない、なんて楽観的な思考は捨てるべきだった。とはいえ、過去の自分を戒めようにも時間を巻き戻す術は存在しない。
時間が経つにつれてちらほらと生徒の姿も増えていき、明らかに生徒の格好ではないレイスを見てヒソヒソと話している姿も見られた。
ただ、生徒の背格好からしてレイスが担当する高等部であることは間違いないのだが。校舎自体を間違えているという最悪の可能性だけは無さそうだ。
こうなったら道を訊いてしまいたいが、視線の質が不審者に向けるそれと同じである。安易に近づきでもしたら何をされるか分からない。もはや心が折れそうだ。
焦る心のまま、時間を確認する。
すでにヘルガーに指定されていた時間の五分前だ。最低でも十分前にはたどり着きたかったが、もう時間通りに間に合わせることさえ厳しいだろう。
初日から遅刻とは、随分と笑えない話だ。
目尻に涙を滲ませ、達観した表情でとほほと立ち尽くすレイス。そんな彼の視界の端に、ふと見慣れた灰色の髪が映り込んだ。思わず視線を投げかける。
よく似ていると、そう思った。
会うのは二度目だろうか。腰ほどまで伸ばしたその灰色の髪は普段からよく会う友人と酷似しており、だからこそ目に留まる。気弱そうなセスとは違い、その少女は自信というものに満ち溢れているように見えた。
灰色の髪の少女は、周囲を囲む生徒たちの言葉に忙しそうに対応している。まだ閑散としている校舎内ではあるが、彼女の周囲だけは随分と賑わっていた。傍から見ているだけで分かる人気ぶりだ。
王都に来るまでろくに友人もいなかったレイスとは大違いである。レイスは別の意味で泣きたくなった。
しかし、ふと思う。
もしかしたら、セスの妹であるあの少女なら自分のことを知っているのではないかと。実際に会ったのは一度きり。おまけにまともな第一印象ではなかったが、だからこそ記憶に残っている可能性も高いのではないだろうか。
少女の名前は確か――
「リーシャ……」
記憶から掘り起こした名前を呟くと、賑わっていた空間が嘘のように静まり返る。リーシャの周囲を取り囲んでいた生徒たちの視線が、一斉にレイスへと向けられた。
視線に込められた感情は様々だが「誰だこいつ」という疑問があることだけは間違いなさそうだ。生徒たちと顔を合わせるのはこれが初めてなので、胡乱な男と思われても仕方がない。
視線の圧力に晒されたレイスは、冷や汗をかきながら自然と片足を一歩後ろに下げた。王都に来てから注目を集めることはよくあったが、ここまでまじまじと無言で見られるのは初めてである。
もう帰って工房にいたいと、珍しくルリメスのような考えを抱いた。
リーシャは周囲の様子が変わったことに気づいたのか、レイスの方へ視線を向ける。そして、驚いたように目を見開いた。それからチラチラと周囲の様子を確認して、逡巡しているのか、しばらく苦い表情を浮かべる。
そして、意を決したようにレイスの方へ足早に歩み寄った。
「着いてきてください」
「え」
レイスが止める間もなく、リーシャは彼の手を取って引っ張っていく。後ろからは痛い程の猜疑の視線が突き刺さっているが、気にしている様子はない。
しばらく歩き、ある程度先ほどの生徒の集団から遠ざかると、リーシャは手を離した。
「ええ、と……」
どう言葉をかければいいのか。悩むレイスを尻目に、リーシャはため息をつく。
「どうしてこんな場所にいるんですか」
「いや、一応今日からここで働くんだけど……」
「それは兄から聞いているので知っています」
「あ、はい」
強い口調で言われ、自然と頷いてしまうレイス。本来なら曲がりなりにも先生と生徒という立場なのだが、この光景を見てそれを信じる人間はいないだろう。
「今の時間であれば、他にやることがあるはずだと思いますけど」
「いや、それが道に迷いまして……」
「…………」
申し訳なさそうに、おまけに敬語でレイスが言うと、リーシャは呆れたように立ち尽くした。来るのが二度目とはいえ、広大な校舎なのだから仕方ないといえば仕方ないのかもしれないが。
それでも、勤め先の建物の構造を把握していないのは完全にレイスのミスだろう。
兄にレイスを助けてやってくれと頼まれた意味が分かった気がして、リーシャはもう一度大きくため息をつく。
「仕方ありません。案内するので着いてきてください」
「え、いいのか? 友だちとかと一緒だったみたいだけど……」
「友人には私からあとで説明しておきます。それに、一人で行けるんですか?」
レイスはその問いに気まずそうに目を逸らし、最後に軽く頭を下げた。
「……お願いします」
「はい、頼まれました」