第九話
アウルの目に映るのは、信じられない光景だった。
人々が逃げ出して、あるいは逃げ遅れて倒れ伏している結婚式場。美しかったステンドグラスの窓は全て破壊され、最早その有様といったら廃墟にも等しい。
何より――扉を開けた目の前に、倒れている金髪の男は。顔は見えずとも、倒れ伏すその背は見慣れたものだ。いつも追いかけている広い背中が、今はひどく儚いものに見える。
祝いのための絨毯が、彼の血によって染め直される。華やかな赤色は、酸化していく血でより深く、より黒く濁る。そしてそれを見下すように笑っている、少女の姿をした人形は――。
「お前が……やったのか……」
状況を見て、事情を悟れないほど愚鈍なアウルではない。
落ち着いた判断をせねばならない。けれど落ち着いていられない。頭の芯が冷え切っているような感覚がしているが、代わりに腹の底で、怒りが溶岩より煮え滾っている。熱い。熱い。熱く熱く重苦しい――。
人形はにこりと、それは美しく微笑んだ。
「そうよ、だって邪魔だったんだもん」
「邪魔……?」
「これはあたしの第一歩。あたしのステージに必要な観客は、あたしを畏れ、あたしに平伏す大衆であって、誰かのために立ち上がる英雄はお呼びじゃないの。ネ、誰だって同じことするはずよ? あなたたちだっていらないものは捨てちゃうでしょ、それと同じことなのよ」
くすくすと無邪気に笑う彼女の異質さは、充分な理由となる。この人形が言っていることの意味がわからない。理解できない。邪魔とはなんだ。結婚式の邪魔をしたのはお前のほうだ。お前こそが、他人の人生の邪魔をしている。――これは敵だ。どうしようもないほどわかりあえぬ敵だ!
「アウル殿、駄目だ!」
戦闘能力を持つ人形相手に挑むのは無謀な行為だ。理性でそれがわかっても、感情が留まってくれない。ナイトオウルの制止を逃れ、アウルは真っ直ぐ認識した敵へ向かい、床を蹴って距離を詰める。形振り構わず目の前の憎き女に殴りかかる――そうしなければ収まらない!
「あ、アウル殿」
あっけなく腕をすり抜けられたのが信じられず、ナイトオウルは動揺を隠せない。けれど再び止める間もなく、アウルの意識には憎悪と怒りが綯い交ぜになった灼熱しかない。
最初の右腕は大きく振り被りすぎたせいか容易く避けられる。彼女は可愛らしい声で歌いながら、アウルを指さす――その指先から圧縮した魔力の弾丸が放たれる。頬を掠めていったそれに怯むこともなく、アウルは勢いを殺すことなく人形に組みついた。細く見える彼女の足を払い、床に叩きつけるようにして押し倒す。
「ぎゃっ……何!?」
いくら人に似せていようと、触れる感触は鉄のそれだ。重い音を立てて人形の身体が床の上を跳ねる。
倒れ込んだ彼女が体勢を立て直すより先に、その体に乗り上げて、アウルは眼下のそれを壊そうと拳を作る。そうすればただ振り下ろすのみだ。ものはいつか壊れる。ものなのだから、壊せる。これは壊すべきものだ。壊さなければ嘘だ!
「この力……魔術なの……!? 嘘よ、だって、こんな力――魔王でもないのに!」
驚愕する声がしている。確かに言われてみれば、今のアウルの筋力は、平常とは違っている。強い怒りが魔力を呼び起こして、戦う力に替わっている。軽くはなく脆くもない人形を殴りつけて、それが攻撃として通用している。否、それ以上だ。少なくともアーロンが止めきれない程度には強い力をもった相手を、圧倒しているのだから――。
がつん、と殴り続けるうちに、女の頬の塗装が剥がれた。抵抗しようとする彼女の腕を捕まえて、関節を砕いて服ごと引き千切る。
「あアっ!? この超絶かわいいメイディーヴァになんてことをッ……! この野蛮人! 女に手をあげるなんて最低よッ!」
決してかわいい悲鳴ではなかった。だがそれでいい。自分の美しさを誇っている人形を、その美しさを損なうことができている。怒りと憎悪が煮えて混ざる腹の中に、復讐の歓喜が染み渡る。美しさだけが取り柄の人形から、悪事を働く忌々しい腕を奪ってやったのだ!
苦痛を感じぬ人形が、喚き散らしながら残る片腕で反撃してくる。至近距離から魔力の弾丸がアウルに向かって撃たれる。命中した肩に激痛が走る。それでも止まらない。止まれない。足りないのだ。いかに彼女を傷つけようとも、アウルはまだこんなところで止まれるほど、怒りが収まっていない――!
「アウル殿、やめなさい! あなたのほうが壊れてしまう!」
全く周りも何も顧みず人形を殴り続けるアウルの腕に、異変が起きているのをナイトオウルは見逃さなかった。
アウルの頼りない腕がナイトオウルを振り払ったことがあまりにも衝撃的で動けなかったが、冷静さを取り戻すと多くのものが見えてくる。
少年の拳に傷がついている、だがそれが異常というわけではない。人の拳よりも硬い鋼鉄の人形を殴り続けているのだから、相応に傷は返ってくるものだ。いずれ皮膚ばかりか骨までも砕けかねない。そもそも肩を撃たれているのに、身体に無理をさせすぎている。それが心配でもあるし、何より気にかかるのは、彼の腕の変質だ。元々翼が生えた腕という意味では異質ではあったけれど、その翼以外は他の人と変わりない滑らかな肌であったはずのその腕に、鱗が生え始めているのである。ざらりとした鳥の足のような鱗が、まるで鎧のように。
明らかな、過剰な魔力による変質だ。それも怒りによって魔力が暴走している。魔力によって筋力を補うということは魔術として認められている手段であるが、コントロールが効かない状態のそれは、ここで抑え込まなければ彼を本物の怪物に変えかねない。
だが、アウルはナイトオウルの言葉を聞いていない。聞こえていない。少年の身体から、強い魔力が溢れ出す。それは敵と認識した人形ばかりか、質量をもった破壊力となって床をも砕き、何もかもを飲み込もうとしている。後ろから抑え込もうとナイトオウルが少年の腕に触れると、変化は鱗だけではないと気づく。彼の腕に元から生えている翼が、鋼のように硬質化している。
――ああ、やはり止めなければ。ナイトオウルは本心から友人を案じている。少なくとも、尋常ならざる外見によって苦労を負ってきた彼が、今まで以上に異常な体となったなら、それこそ彼を苛みその精神を歪ませる理由となり得る。
アウルは怒りで周りのことが見えていない。ナイトオウルの制止の手を力任せに振り払う。決して手を抜いているつもりはないが、アウルに傷をつけないようにと意識していると加減が難しい。彼を完全に拘束しようと本気を出せば、戦闘用に作られたナイトオウルの力なら一歩間違えばアウルの腕を砕きかねない。
アウルからの攻撃をすんでのところで避けた人形は、ずるずると這うようにそこを抜け出す。
「この……もう……ありえないからッ……! 何なのよ、こいつ、こんなのって――あたしよりよっぽど人じゃあないわッ」
呪詛を吐くようにぶつぶつと何か言いながら、女の人形が満身創痍の身体でふらふらと立ち上がり、逃げていく。その姿は愛らしい人形とは程遠く、醜く無様だが、掠れた歌声がしたかと思うと彼女の姿が雪のように解けて見えなくなる。どうやら自分の姿を隠蔽できる程度には、魔術を応用できるらしい――成る程、怪盗行為をするには非常に適していて、厄介な能力だ。
彼女が元々の混乱の原因とわかっていても、アウルを放置できないナイトオウルは、その追跡を諦めた。あのように憔悴している相手だ。いくら姿を隠そうとも、動くものには気配というものがあり、魔術を使えば魔力の残滓が残るものだ。追えば必ず捕らえられる自信はあるが、今は逃げる女よりも、アウルをこそ止めなければならない。危険を放置するのは次の危険を産むとわかっていても、今目の前で壊れかけている友を放っていける理由にはならない。彼自身も、周りの全てをも壊してしまっては――。
「止まれと言ってるのが聞こえないのか、アウル殿!」
呼びかけに応じるいつもの彼はいなかった。どうやら容赦をしていては、被害は拡大する一方であるらしい――ナイトオウルは躊躇いを捨てて、アウルの腕を鷲掴みにする。
魔力を帯びて硬質化している鱗の生えた腕は、元の少年らしい柔らかさが失われつつあった。無理矢理に押さえつけようとすれば、少年の中の強い魔力が溢れ出してナイトオウルを浸蝕しようとする。触れているところが焼けるような熱を持つ。それでも、ナイトオウルは掴んだ手を放すわけにはいかなかった。それはアウルのためであり、何よりも、アウルが彼らしさを失ったまま怪物になっていくのを見たくないという、自分自身のためだ。
それでも限界はある。――自分も、あの怪盗のように引き裂かれ、友人である彼さえ救えずに、惨めに逃げなければならないのだろうか。ナイトオウルの中にそんな思考がふと湧き上がってきたその時、凛とした女性の声が響いた。
「アウルくん」
その呼び声に、アウルは動きを止めた。逃げていった、嫌味なほど可愛らしいだけの怪盗の声とはまた別の、落ち着いて優しげな響きのある、親しみ深い少女の声だ。メグ。マーガレット・エストレ。月光を思わせる眩しい金の髪の乙女。
近づいてくる彼女は、結婚式に参列するための綺麗なドレスを纏っていたが、裾のほうが破れている。三つ編みにしてまとめてあった髪も、今は乱れてしまっている。恐ろしい思いをしたのだろう、足も哀れに震えている。けれど、その目は真っ直ぐアウルを見つめている。
「ごめんなさい。弱い私は、何にもできなくて、本当に嫌になる。けど――もう怖いものはいなくなったみたい、だから。ねえ、もういいのよ、アウルくん」
彼女の嫋やかな指が、アウルの拳に触れた。硬く握られた拳を、優しい白い手が解いていく。緩やかに、棘を抜いていくように、少年の荒れた心を撫でていく。
「もう、いいから」
母が子をあやすような深みのある響きが、耳元に囁かれる。アウルの暴走していた魔力はすっかりその鳴りを潜めて、硬質化していた腕も翼も、元に戻っていく。
後に残るのは、疲労だけだった。そのまま、アウルは糸が切れたように、自分を捕まえていたナイトオウルに全体重を預けて気を失った。
「メグ嬢……」
「警察と、医者を呼ばないといけないわ。ナイトオウル、頼めるかしら」
「はい、あの、メグ嬢は」
「私は――フェアファクス先生の応急処置を。パパもブレンさんも怪我がひどいけど、硝子が刺さってるのは変に触れないし、ね。出血の量からしても先生のほうが危ないみたいだから。妖精の万能薬はないけど、心臓が傷ついてさえいなければ、私の宝石の魔力でも多少はマシになるはずよ」
魔術で傷は癒せないが、傷口を塞ぐことくらいは全く不可能というわけでもない。ナイトオウルを急かして見送り、メグが自分の首飾りにしていた真珠を、魔術の媒体として使う。
体に穴が開いている。このひどい有様で、止血というのは気休めにしかならないかもしれない。それでもここで彼を放置してはいけなかった。医者でもなく、魔術師としての研鑽も足りていないメグにとって、それは一世一代の大魔術にも等しかった。
一体どれほど時間が経ったのかわからないが、白い顔に脂汗が滲み始めた頃、待ち望んでいた足音がやってくる。
その時、アーロンの眼が薄らと開いた。魔術は、上手くいっていたらしい。




