逃げた先には 3
乱暴に投げつけた焚き火の薪が、火の粉を撒き散らして辺りを照らした。
「…動くな!動くんじゃない!」
這いずり、蠢く影に低い声で命じると、ぴたりと動きを止めた。
俺は距離を取り、武器を構えながら観察を始める。
薄汚れたフード付きの外套を身に付けている。
顔は見えない。体躯はかなり小さく細い。
子供のように見えるが…。言葉が通じるのか?
さっきの二人は精神的に余裕がなかったから覚えてないが、言葉を発していた気がする…。
「…立て。ゆっくりとだ…」
じりじりと近づき、いつでも剣を突き出せるように構えながら一つずつ問い掛ける事にする。
「言葉は通じてるのか?」
フードの強盗?は身動ぎし、両手を胸の前で組んだ。
「は、はい…」
俺は返事があった事に動揺した。今日は色々ありすぎたが、うつ病が治ったわけではない。いまだ他人と話すのが怖く、苦しかった。
命のかかっているこんな状況でも、人が怖かった。
「お前は何者だ…あの二人の仲間か?」
とにかく、今大事なのは安全を確保出来るかどうかだ。俺は辛さを押し潰し、情報を得る覚悟を決めた。
「わ、私…違います!追われて…仲間じゃないです!私…なにも…」
子供の、女の子の声に聞こえる…頭を振りフードの外れた子供は、銀色の髪に水色の瞳、白い肌と、日本人には見えないが日本語を話した。
あの強盗と狼はこいつを追っていたのか?…順に聞いていこう。
「…あの二人と狼に追われてたのか?」
遺体を打ち捨てた岩の辺りを指さして問う。
埋めた方が良いのだろうが、気力が湧かずそのままにしてあった。
「あ、そ、そうです」
子供の足で大人はともかく、狼から逃げられるものか?怪しいが…話を進めるために一応は信じよう。…構えは解かないが。辺りにも気を配る。
「…あの二人だけか?他には居なかったか」
これは重要な事だ。アレらが何か組織に属していれば多数に追われる事になりかねない。
「…わかりません…突然襲ってきたので…」
小さく震えながら項垂れた子供は途方にくれている。外套の中は薄いブルーのドレスに見えた。靴も白いパンプスのように見える。薄汚れた外套も、本来は白色だったようだ。年代が中世なら金持ちか…支配階級に近いんじゃないか。もしそうなら、この子供を誰かが捜索に来るだろう。
つまり、傷付けたら手詰まりになる可能性が高い。
支配階級なら、名前を聞けば判るかもしれない。名字に決まりがあるとかなんとか、聞いた事がある。
「…名前を聞いてもいいか?」
「は、わ、私はミューゼ・フォン・グランツェ・ローレリア…です」
違和感があるがドイツ式なのか…?フォンが付くのなら貴族…?よく分からないが…。名前が前で、家名が後ろなのはなんとなくわかった。
「…俺の名前は、ケンヤ・フワだ。…お前…いや、貴女は貴族なのか?」
「…はい、このローレリアを治める父、アルバースの娘です」
今までの怯えが嘘のように背を伸ばし、俺の目を見つめる。父の名を語るその顏には誇りと言うものが見てとれた。良い領主かは知らないが、良い父ではあるようだ。
「…これは知らずとはいえ、失礼しました」
俺は剣を納刀し、左手に持って膝を着いた。
この国が階級制度を敷くなら、貴族は特権階級だ。徴税官にして裁判官、警察権や軍権も持ち、平民一人など容易く葬れるだろう。へりくだり、機嫌を取ってお帰りいただこう。剣を向け、石を投げつけるなど無礼を働いたが、追っ手を始末したのは俺だ。…差し引きゼロとしてもらいたい。
「あ、い、いえ、そんな…お立ちください、騎士様」
…騎士?何処を見ればそう見えるのか。俺の風貌は痩せすぎの疲れた30代にしか見えないはずだ。
「…何故、私が騎士だなどと?…私はただの…ただの平民に過ぎません…」
負け犬だ。社会に負けた弱い心の持ち主。人は意思を挫いた瞬間に立ち上がれなくなるのだ。
真面目に生きてきたつもりだ…だが、社会と言うものは他人に気を遣ったりはしない。美徳とされる他者を気遣って生きること。…そんな事は不可能だと、この歳まで気がつかなかった俺は、ただの間抜けだ。
「…立ち居振舞いと、言葉使いで…平民では無い事はわかりました」
貴人に対する礼儀か…なんとなくの見よう見まねで礼儀を尽くしたが、失敗したか…。メディアも学校もなければ敬語が使えるという事自体が高い教養を示すのだろう。
…夜も更けてきた。今から放り出す訳にもいかない。今日はここで休み、明日には出て行ってもらおう。貴人が野ざらしで眠れるかは知らないが…其処までは面倒みれない。
「…もう夜も更けた…移動するのは危険です。今日はここで夜を明かした方が良いでしょう。…これを」
見知らぬ男と夜を明かすなど、恐ろしいだろう。跪ついたまま剣を差し出した。武器を抱いていれば気持ちはだいぶましなはず。その剣がこちらに向く可能性も考えられるが、さすがに無いだろう。相手にメリットが無い。
「えっ…。剣を…良いのですか?私に預けてくださるのですか?」
武器を預けられる事に驚いたようだ。心配しなくても剣は2振りあるし、ナイフも石つぶてもある。丸腰にはならない。
「…ええ、どうぞ。その剣は貴女を守るでしょう」
本当に守れるかは、貴女の腕次第だか。
「では…私、ミューゼ・フォン・グランツェ・ローレリアは聖神アケロンの名に誓い、ケンヤ様の剣を受け、その名誉を誇りとしこの胸に刻まん」
剣とミューゼが光を放つ!まて、勘違いをしていないか?!剣を貸しただけだぞ!…いや、違う、この光は何だ?!どうなってる!
俺の動揺をよそに、光はミューゼの胸の辺りに収束して光球を造り出した。現実感を失った俺はただ眺めていた。
「…ケンヤ様、ミューゼは貴方と契約いたします」
契約?考える暇もなく光球が放たれた。咄嗟に庇った手の甲に光がぶつかる。
アッ、アツッ!
激しい熱を感じたあと、眩い光は嘘のように消え去り、暗闇が戻った。
ミューゼは糸が切れたように座り込み、岩に寄りかかった。…意識が無いようだ。
「…ッ!手が、火傷したのか?」
一瞬感じた熱はもう感じられない。痛みもない。しかし……。
「…紋章?何故刺青が…?何なんだこれは……」
俺の手の甲には、十字架を背にした竜の紋章が刻まれていた。