時の狭間
午前1時43分。
暗い部屋の中で時計の文字盤をただ眺めていた。
…あれから俺は会社に診断書を提出した。
意外なほどあっさり受理された裏には、
『藪をつつきたくない』と言う感情が透けて見える。
そして、人事部長の薄ら笑いは、復帰を絶望視させるものだった。
2ヶ月もの間、ただ飯を食うだけの社員は歯車たりえないらしい。
…数字が全て、わかってた…
…でもな、数字だけじゃ組織は成り立たないんだよ…
…この世界は、歪んでる。
『助けて』が言えないんだ。
社会的責任の名のもとに、背負う価値もわからない重荷を背負って歩き続けるんだ。
カチカチカチ
とりとめのない思考が、今の俺の精神安定剤だった。時計の進む音だけが俺の言葉に相槌をうつ。
カチカチカチ
「もう、疲れたな…」
手のひらで顔を覆う。
カチカチカチ
「助けてくれよ…」
「何処か、遠くに行きたいな…」
どんなに辛かろうと、睡眠薬が強制的な安息をもたらしはじめる。
「何処か、遠くへ……」
微睡みに落ちる瞬間、時を刻む音がなくなった気がした。
ーー 改稿中 ーー
目を開いた俺の視界一杯に【切断】の文字が表情された。
それが消えると、全ての視覚情報がマニュアルに切り替えられ、網膜はコンソールや三次元情報、物体表示で溢れた。
統治機構の保護を失った俺はネットワークから切り離されたのだ。もう統治下のrOSは使えない。
目に見える全てを自分で判断し、手動で操作しなければならない。これが自由になるという事なのか。
俺は軌道車のプラットホームに向かいながら表示される情報を視覚で処理し、頭ではこれからの事に思考を巡らせていた。
ネットワークから切断された俺は各支配階層ではなにも出来ない。
何故なら、アクセス権がなければ乗り物も乗れず、買い物も出来ない。
アーカイブへの参照も不可能なため各種手続きも出来なくなったからだ。俺がおこなえる事は一つだけ。
管理隔離区域、最外縁区放棄層へ行くことだけだ。
そこまでは最後の権利として、保証されている。
慣れない手動操作に四苦八苦しながら、いつの間にかたどり着いていた軌道車の乗り入れ端末に、放棄層への重力エレベーターのある外縁管理塔を入力した。
重く鈍い駆動音を静かに響かせながら軌道車の乗り入れ口が開く。
俺は中へ入り18人がけの、くたびれたクッションのついた粗末な長椅子に体を沈めると一つ、深く息を吐いた。
視界に溢れた表示群を睨みながら、ふと顔をあげた。
ちらりと小さく辺りを見渡し、俺以外に誰も居ないことに思い至ると、だらしなく背もたれに体重を押し付ける。
そして薄汚れた軌道車の天井ライトをぼんやりと見つめた。
当たり前だが、外縁区に用事のある一般人などこの層にはほぼいない。危険な宇宙と廃棄層に繋がっているからだ。
精々、回路網治安維持部隊が利用するくらいか。
少なくとも俺の人生では、初めての利用だ。これに乗る日がくるなんて。
重工のシナリオを否定する頃から少しだけ、使う事になるかもしれないと想像はしていたけれど。
実際に乗ると、うすら寒く不吉な予感が、実感に変わった。
思考が空転していると軋むようなブレーキ音が聞こえ始め、あの独特の停止感覚が全身に走った。
俺は引っ張られるような力を振り切って立ち上がり、軌道車のドアの前に立つ。
完全に停止した車内は驚くほど静かで、僅かな駆動音も聞き取れない。
ドアのパネルには、【外縁管理塔・下車】と表示されている。ドアは開かない。
しばらく考え込んで、そうだ、手動なんだと思いだし、パネルをタッチする。がこん、と、ロックが外れ、ドアは素早く上がる。俺は急かされるように軌道車を降り、上下に開いた分厚い遮蔽壁の隙間の上を歩いてゆく。
左右を見渡しても果てがなく、奥は暗く闇に溶けている。
振り返ると下車したはずの場所はいつの間にか遥か遠く、真横に光の線として視界の左右に消えてしまっていた。
子供の頃映像で見た地平線を思い出す。
あれも、暗闇と暗闇の狭間で光が押し潰されているような不思議な画に見えた。幼いながらも宇宙の巨大さに恐ろしさすら抱いたものだ。
奇遇にもこの小さな地平線を前に、大人になった俺も、恐ろしさを抱いている。それは全く別種の感情から来ているようで、深く考えれば考えるほど、しかし結局、感じるものは同じなのだと不思議な気持ちになった。
外縁区は幾億光年先。重力エレベーターに乗れば、物理的に二度と戻れない。
重力の差を利用して移動する関係上この空間は一方通行だ。今俺は歩いているように見えて、光の速度を遥かに超越して進んでいる。
外縁区はどんな場所なんだろう。統治機構が存在しない世界なんて想像もつかない。構造体の外側。無限の宇宙が広がる場所。
少しだけ心が弾んだ、その時。
人影が見えた。
「ネットワークセキュリティ?どうしてこんな所に…」
訝しんだ俺の視界に、【通信途絶】の文字が明滅する。
「…通信途絶?どういう事だ、どういう意味だ」
混乱する俺をよそに視覚情報が全て消える。数時間ぶりのクリアな視界に、かつてない恐怖を味わう。
愕然として歩みを止めた俺を牙歯にもかけず、歪な形をしたネットワークセキュリティが霞むように姿を消すと、地響きと共に打ち付けるような音が聞こえてきた。
前から遮蔽壁が閉まってくる。
振り返ると見えていた地平はもう無く、
「そんな…時空連続体から切り離された…のか?」
呆然として呟いた。
なんという理不尽だろうか。
俺は次元の狭間に閉じ込められた。それ以前に。
あと何分もしないうちに遮蔽壁に押し潰されて死ぬ。
そんな。何故。どうして。
嫌だ。俺は。
死にたくない。
前後から迫りくる死を前に、俺はしゃがみこんで頭を抱える事しか出来なかった。
逃げ道は何処にもない。逃げ出せるなら何でもするだろう。
機械化処理を受けさえするだろう。
俺は馬鹿だった。死というものはそんなに生易しいものじゃなかった。覚悟を決める時間もなく、場所も方法さえままならないなんて。
遮蔽壁が巨大な化け物のあぎとのように閉まり迫ってくる。
時間が引き伸ばされたような感覚の中で、削岩機のような音が頭を乱反射する。
余りの恐怖に気が遠くなり始め、ごおぉごおぉと耳鳴りが五感を支配した。まるで浴槽で微睡みに落ちる瞬間のようで…。
意識が落ちるその時、世界を刻む音が消えた気がした。