97. 小さな翼
鳥籠を持ってきた使用人が去って、部屋にはニィカとヘレー、そして小鳥がのこされた。
小鳥はまだ目覚めない。ニィカは退屈してしまって、ようやくヘレーに顔をむけた。じっとしていた首がぴりぴりと痛んだ。
「ねえ、ケイヴィス先生ってもう来ないの?」
「いいえ、きっと直にいらっしゃることでしょう」
「あたし、だんだんあの人に会ってもいいかもって思ってるの」
ニィカは鳥籠を置くために端にどけられた書物の一冊をめくった。曲線的な読めない文字はいくつかごとのかたまりになって、ごわつく紙の上を行進している。
「だってなんにもわからないんだもん。なんにもできないしなんにもわからないなんて、すごくつまらなくて、すごく怖いもの。……ねえ、ヘレー。みんなあたしのこと知ってるのに、あたしはあたしの『特別なもの』のこと、全然知らないの。ばかみたいな気分」
文章を意味もなく指でなぞるニィカ。そのため息を聞き終えてから、「ニィカ=アロアーラ様」とヘレーは呼んだ。
「……多かれ少なかれ、みなそのような気持ちを抱えているものでございます」
ニィカはぼんやりしていた目を上げて、その琥珀色でヘレーをとらえた。
「ヘレーも?」
「──はい、ニィカ=アロアーラ様」
それからニィカは、ちいさな眉のあいだにしわをよせて考えていた。
「ねえヘレー。ほんとうにみんな、そうだっていうなら──」
ぱささ、とかすかな羽音。ニィカはとたんに鳥籠に心をうばわれた。
小鳥が黒くまるい目をあけて、ぴょんぴょんと鳥籠の床をはねる。
「わ、かわいい!」
鳥籠に鼻がくっつくほど顔を近づけるニィカ。
「ニィカ=アロアーラ様。そのように大きなお声をお出しになっては小鳥が驚いてしまいます」
たしなめるヘレーのことばに、はっと両手で口を押さえて、まばたきもしないで小鳥を見つめる。
小鳥はまたぱたぱたと羽根をはばたかせた。ニィカの琥珀色の瞳がなにかに気づいてにっこりした。
「ヘレー、ヘレー」
口元を押さえたままささやき声で呼ぶ。
「何でございましょう、ニィカ=アロアーラ様」
かがみ込んだ彼女にニィカは耳打ちした。
「あのね、あたし、この鳥知ってる。リヒティアにもいたもの」
返事がかえってくるまでにはすこし間があった。
「──それは本当でございますか」
「ほんとうだもん、あたし、コーデンおじさんといっしょに餌だってあげたもん!」
思わず声を荒げてから、小鳥を横目にとらえて口をつぐむ。聞こえるか聞こえないかくらいの小声で繰りかえした。
「……ほんとうだもん」
「失礼致しました」
ヘレーは頭を下げて後ずさった。
ニィカはもうヘレーのほうなどむかず、小鳥に視線を注ぐことにした。
ちいさなくちばしで麦のつぶをつつくようすを眺めるうちに、ニィカのふくらんでいたほっぺたやとがらせていたくちびるはいつの間にか楽しそうに笑っていた。