95. 知らない句
考えを頭のなかで吟味してから、ケイヴィスはようやく口をひらいた。
「いや、私が唱えた前半の文句は、すこしプロニエ語を習った者ならば誰でも知っております。最も古く、最も重い言葉とされ、神が与え給うたのだと考える者もいますな。特性学……、この時には神学と言ったほうが適切かもしれませんが、その学問の礎とさえ称されております。……しかし」
だんだんと口調に熱がこもる。ニィカは聞いているというしるしにこくりと首を動かした。
「我らに伝わっているのは、先程私が唱えた部分だけでありました。ニィカ=アロアーラ様が仰ったのは、失われたはずの続きでございます。それが、もし──」
はっとケイヴィスが目を見開いた。
「るゔぇとぅ なろーち ふるーこ なろーち ばしぃすざしぃと なろーち」
ふたたび不思議な響きがかれの口から生まれる。こんどは一語一語、押し出すようにゆっくりと。
ニィカの舌はやはりひとりでに動いた。
「すろーゔぉ なろーて」まで終える。ケイヴィスは彼女の言葉を追って、唇をしきりに動かしていた。その瞳は燃えるようにかがやく。
「わに ゔにろーち わに うはらにゃーち……」
歯と歯の隙間から息を漏らすささやきで、ケイヴィスは途切れず繰り返していた。寒い朝のように頬を赤くしていた。
突然にかれの肩がぐるりと動いた。足が扉にむかう。最初は大股に歩いて、まもなく全速力での走りとなって、ケイヴィスは部屋の外へ消えた。
すっかり途方にくれて、ニィカはヘレーを振りあおいだ。ヘレーも困惑を隠そうともせずに開け放たれたままのとびらとニィカとを見比べる。
「……どうしよう」
「……今はただ、お休みなさいませ、ニィカ=アロアーラ様。数日はきっとお戻りにならないことでしょう」
枕に頭をうずめてため息をひとつ。
「ねえ、ヘレー」
「はい、ニィカ=アロアーラ様」
「あたし、あのときなんて言ってたの? もう思いだせない」
ヘレーは首をふり、「考えるのはおやめになったほうがよろしいかと」と答えた。
「そのうちにケイヴィス様の質問攻めで、いやでも頭に焼き付くことでしょう。今のうちにお気を楽になさいませ」
「はあい……」
眠る前にいつものおまじないを唱えた。
「あまーにぇ にぃか ふれた ざしと ぽとにいた るいーすて あまーにぇ しぃやすと く にぃこ のと ぷりぇはと るいーすて」
ずいぶんとひさしぶりの気がしたけれど、すんなりと口から出てきた。ふと思いついたことをヘレーにたずねた。
「ねえ、もしかしてこのおまじないって、ケイヴィス先生が言ってた、……なんとか語っていうの?」
「私は存じ上げません、ニィカ=アロアーラ様。どうしてもお知りになりたいのでしたら、次にケイヴィス様がいらしたときにお訊きくださいませ」
ニィカはうなずいて、頭をからっぽにして眠りこんだ。