94. ニェヴニク
ニィカが朝に起きて夜に眠れるようになってしばらく経ち、ケイヴィスが見舞いにすがたを見せた。
「お加減はいかがですかな、ニィカ=アロアーラ様。見たところお元気そうで何よりでございます
。すっかりとよくなりましたら講義を再開致しましょう。それまでにお渡しした書物に目を通して頂ければ幸いに存じます。さあ、これなど初学に丁度宜しいかと」
どさりとニィカのひざのうえに書物の重さがくわわった。分厚い革の表紙をめくる。
ページの一文字目だけが大きくかざられて、つづきは黒く小さな字が詰まっている。
ニィカはざっと表面に目を走らせて言った。
「ケイヴィス先生、……これ、あたしの知ってる字とちがうみたい」
ケイヴィスのまゆがおおきく上がって、ひたいにしわができた。
「おや、ニィカ=アロアーラ様。プロニエ語はご存知ありませんでしたか」
「プロニエ?」
「もしかすると、ニェヴニクと言ったほうが、馴染みぶかいですかな。……どうです?」
ニィカははっきりと首をふった。
「いいえ、ケイヴィス先生。どっちも聞いたことありません」
「ふうむ、ふうむ……」
虫の羽音のような音を口の中で出し、ケイヴィスはしばらく考えこんだ。
「いや、誠に申しあげにくいのですが、ニィカ=アロアーラ様。プロニエ語がお出来にならないのであらば、其れは読み書きが出来るとは言えませんな。殊に、特性学を修める心積もりがおありなのでしたら。いやいや、御心配はなさりませぬよう。単に順を追って学べば良いだけのことでございます。特性学に入る前に、プロニエ語の講義から始めることと致しましょう」
言うなり書物を一冊無造作に取り、ぱらぱらとめくる。
「るゔぇとぅ なろーち ふるーこ なろーち」
声が一段低く、なめらかになった。よどみなく言葉が紡がれる。
「ばしぃすざしぃと なろーち」
ニィカはケイヴィスの口元のしわを見上げた。
「るゔぇとぅ なろーて」
その視線にも気付かずにケイヴィスは唱え、息をついた。
「わに ゔにろーち」
幼い声がすかさず続いた。ニィカが唇を動かしていた。
「わに うはらにゃーち わに なろーち」
ニィカの目はどこか遠くを眺めるようにぼんやりとして、ただ声だけが流れ出ていた。ケイヴィスは息をつめてその様子を観た。一言一句聞き漏らすまいとニィカの口の動きを追う。
「すろーゔぉ なろーて」
詠誦は唐突に終わった。
琥珀の瞳がまばたきをして、ケイヴィスの顔に焦点をもどす。
饒舌な学者はかわいた唇をなめて、ようやく笑みを向けた。
「いや、ニィカ=アロアーラ様、お人が悪い。プロニエ語をご存知ないなどとご冗談を仰って」
ニィカは笑い返さなかった。それどころか瞳を不安にゆらして、小刻みに首をふった。
「ほんとに知らない、なんにも……。勝手に出てきたんです。いま、じぶんでなんて言ったのかもわからない」
「……本当でございますかな、ニィカ=アロアーラ様」
ケイヴィスの表情は変わらない。目の奥だけが鷹のようにするどく光った。
うつむいて、消え入りそうな声で答えた。
「わかりません……。人? なにか……、いるような気もします……」
「それは、先程の言葉の意味でございますか」
見定めるような目がずずいとニィカに近づいた。泣きそうになってわずかにうなずいた。