92. 恩寵の扉
ほどなくしてヘレーが戻ってきた。
「いかがでございましたか、ニィカ=アロアーラ様」
「……疲れちゃった」
見知った顔につい本音がでた。隙なくととのえられていたヘレーの顔が一瞬笑った。
「ケイヴィス様は我が国を代表する学者の一人でございます」
そのあとでヘレーの唇がちいさく動いた。
「いま、なんて言ったの?」
「いいえ、ニィカ=アロアーラ様。何も申しあげてはおりません」
「……最後、『あれでも』って言わなかった?」
「……いいえ、ニィカ=アロアーラ様」
ニィカはおとなしく引き下がった。
「御昼食の仕度ができております。御召し替えをどうぞ」
「はい」
着替えのあいだにニィカは尋ねた。
「お昼ごはんのあとはなにすればいいの?」
「修道院にて行われる祈りの儀への御参加を。その後は御夕食までお部屋にいらして下さいませ」
首元にひらひらしたスカーフを結ばれながら、ニィカは「はぁい」と返事をした。
食堂にはひとり分の席しか用意されていなかった。昨日も見た使用人がいすを引く。ニィカはぺたんと腰を下ろしてからヘレーにたずねた。
「ねえ、きょうは王様いないの?」
「陛下はお忙しくていらっしゃいます」
短くこたえてヘレーは部屋のすみへ下がる。
しばらくも待たないうちにたっぷりのパンとスープが運ばれてきた。
かりかりに焼いたパンにはショウガの汁やぴりっとする種、変わったにおいの葉が練りこまれていた。舌がひりひりしてしまって、ニィカはそれをすこしかじっただけでやめた。
細かくほぐした肉と刻んだ野菜を入れて蒸しあげたオムレツ、甘酸っぱいソースのかかった濃い色の腸詰め。
ニィカは目のまえのものを黙々と口にはこんだ。
最後に出されたのは、梨を煮て、香辛料をまぶしながら乾かしたものだった。シナモンが鼻につんとして、ニィカは涙目になりながらそれを飲みこんだ。
ドルジャッド王国の修道院は王城とひとつづきになっていた。さっき来た廊下を引き返し、ニィカの部屋に着く手前で左へ曲がる。
とつぜん廊下がせまくなった。こころなしか暗い道。ヘレーの背を追ってニィカは足をはやめた。
まっしろがニィカたちを待ちかまえていた。
壁一面がひかっているように見える。
「ニィカ=アロアーラ様」
ニィカはおそるおそる近づいた。よく見ればひかる壁はつやつやした巨大な石で、ほんのわずかな明かりもはね返してまぶしくしていることに気がついた。
「扉を開けて、お進みくださいませ」
「扉? どこ?」
「目の前にございます」
「……この白いの?」
ニィカは壁をてっぺんまで見あげて、ヘレーの顔に目をむけた。ヘレーは「はい」と返答した。
壁一面に立ちはだかるとびらは、取っ手もなくどっしりと黙っている。
「ねえ、これ、すごく重いんじゃない? だれか男のひとを呼んでこなくちゃ」
「いいえ、ニィカ=アロアーラ様ならばお出来になるはずでございます。手をかけて、どうぞ押し開けて下さいませ」
「……手伝ってくれる?」
「私にはその力はございません」
聞き分けのない子を諭す口調。ニィカはかっとなってわめいた。
「ひどい! どう見たってヘレーのほうがおとなだし、大きいし、強いじゃない! ヘレーができないのに、あたしが開けられるわけない!」
声がわんわんと響く。ヘレーはゆっくりと首をふっていた。
残響ののこる廊下。「ニィカ=アロアーラ様」と呼ぶ声。
「この扉は、恩寵によって開くものでございます。私は開ける力を持っておりません。どうか、御理解下さい」
ニィカはほおをふくらませたままだった。
「……みんな、あたしがなんでもできるみたいに言う」
「ええ、ニィカ=アロアーラ様ならばお出来になります。さあ、扉を」
皆様がお待ちでございます、とヘレーが言い終えるまえに、ニィカは小さな手のひらを壁にあてた。
力をいれてみると、こまかなふるえとともに、おおきなものが動く手ごたえを感じる。
ほんとうに動いた、とニィカは口をあけた。
とびらのふるえは増して、手のひらや腕がじんじんする。むこうがわはまだ見えない。
ニィカは振りかえった。
「ねえ、この先ってなにが──」
「ニィカ=アロアーラ様!」
とつぜん白い扉の感触が消えた。体重のささえがなくなってよろめく。その先に、床はなかった。ヘレーの悲鳴のおしまいのほうは、石が砕け崩れる轟きにかき消された。
扉のむこうには、下りの螺旋階段が口を開けていた。
ニィカのからだは悲鳴をあげることもできないまま、光るつぶてといっしょに、どこまでも転がり落ちた。