80. 別れのあいさつ
重たい衣服、幾重にも加護の施された装飾品。それがいまのニィカの格好だった。修道院から王城へと至る道は晴れていて、色づきはじめた葉を見上げながらもじんわりと暑い。ニィカは前をあるく修道女におくれないように早足で進んだ。
「……ねえ、馬小屋に行ってもいい?」
修道女は足を止めて振りかえった。ニィカを上から下まで眺め、ため息まじりに「お召し物を汚さないようにしてくださいね」と答えた。
いつものように小鳥のさえずりが聞こえる。ニィカは迷いなく奥へ進んだ。
砂色の髪と広い背中が見える。コーデンはきょうもここにいた。アーロスからかれのことを聞いて以来、ニィカは毎日のように馬小屋に入り浸っていた。
小鳥にえさをやるのは楽しかったし、コーデンはふつうの子供にするようにニィカに接してくれた。
息苦しくて部屋を抜け出してきたときに、あわてふためく修道女たちからすこしの間かくまってもらったこともある。
それに、ここにくれば何日かに一回はアーロスに会えた。
「コーデンおじさん」
身をかがめて小鳥を見ていたコーデンは、その声に笑みをむける。
「やあ、きょうはずいぶん――」
はっとその声が止まった。
「……そうか、きょうが……」
「ドルジャッドに行くの」
ニィカはきっぱりと答えた。
「ね、えさあげてもいいでしょ?」
手をのばしてパンくずをわけてくれるようねだる。
「もちろん。そでにつけないように気をつけるんだよ」
コーデンは袋からパンくずをつかみ出してニィカの手のひらにまく。
ニィカがしゃがみこんでえさを地面に散らすと、小鳥たちがまた群がってきた。
「おじさん、この鳥ってドルジャッドにもいる?」
「ああ、いるよ。……この鳥は、どこにだっている」
「それじゃ、あたしむこうでもパンくず集めておかなくちゃ。でしょ?」
コーデンは「そうだなあ」と笑った。
パンくずを手のひらにおいてじっと待つ。地面をつつく鳥は、まだニィカを警戒して手の上には乗ってこない。
しびれを切らした修道女が声をかけてくるまで、ニィカはパンくずをついばむ小鳥を見ていた。
城のなかはひっきりなしに人が行き交うのに、いつもどこかしんとしている。ニィカは修道女の服を軽く引いた。
「……ケルーノに会いたい」
ちいさな声で頼むと、ちいさなうなずきが返ってきた。
王城の西側のちいさな部屋が、一時的にケルーノにあてがわれた居室だった。先の会議で決まった作戦を遂げるまでかれはリヒテシオンに留め置かれることとなっていた。
手をのばしてコツコツとノックをする。ややあって「ニィカだね?」ととびらが開いた。その顔を見やった修道女は思わず一歩退く。イセファーで使っていた鳥の仮面やしばらく前までその場しのぎにかぶっていたふくろに替えて、いまかれが身に付けていたのは、羊を模した仮面だった。陶器の土台に布を張り、洗って梳いただけの羊毛を貼りつけている。
「それ、新しいの?」
顔全体をおおっている仮面を指さして訊く。
「これから要ることになるから、つくってもらったんだ。どう? 似合う?」
からだを左右にゆらしてたずねるケルーノ。ニィカはこくりとうなずいた。
「……あのね、きょう、ドルジャッドに行くの」
ニィカのことばにケルーノは首をかしげる。羊の毛をふわりふわりとゆらして、ようやくぽん、と手を打った。
「そっか、とうとうなんだね」
ケルーノは身をかがめて、仮面のむこうからニィカと目をあわせる。
「ね、ボクたち、すぐに会いにいくからね。約束したもんね」
ニィカは「うん」としっとりした羊毛にふれた。
「ニィカも、約束。……おぼえてるでしょ?」
ケルーノの顔が近づいてきて、ふわりふわりした感触がほっぺたにさわった。
耳もとで「いい子にしてるんだよ」とささやき声。ニィカはオリーブ色の瞳を見あげてにっこりとうなずいた。
「それじゃあ、行ってきます」
「アーロスたちにも会うの?」
その問いには首を横にふる。このお城を出たら、寄り道はもうできない。
「げんきでね、ニィカ」
「……うん!」
不安を押し隠してこたえる。ケルーノの指先がのびて、ニィカに届くまえにきゅっと握られて、かれの胸の前に帰っていった。
その反対の手がぎこちなくさよならを告げてゆれる。
ニィカは手を振りかえし、部屋をあとにした。