59. 黒い矢
※注意:流血表現を含みます※
幼い声が「やめろ」と言ったように聞こえた。ニィカが確証をもって聞きとる前に、その言葉は割れるような絶叫に引きちぎられていた。
子供がひとり、地面を転げ回っている。耳元を押さえている指のあいだから真っ赤な血が流れ出て地面を濡らす。
「あ……、ア、アーロス!」
ニィカはその名前を呼んだ。むこうから、アーロスが走ってきて。うしろから突然固い風が冷たく吹いて。気がついたら、アーロスが。
どうっと地面がゆれて、土煙が上がる。目をつぶって少しむせた。ごぼりと泡立つような水音とか細い笛のような音。
黄色くかすむ視界の中で、黒々とした血の色に目をくぎ付けにされる。さっきニィカに話しかけてきた男の喉に細い棒が刺さっている。そこから奇妙な音が漏れ出す。黒い穴から赤い泡がぶくりとうかんで、はじけた。
男のすがたが遠ざかった。ぶらんと垂れた自分の足を見て、だれかに持ち上げられていることがわかった。
「やめろ、はなせ、はなせよお!」
泣きわめくアーロスの声がついてくる。
「黙ってろ!」
一喝する声。
それからは、聞こえるものはすすり泣きだけになった。時折、苦しそうな空咳やうめきがまじる。
自分の状況も物音や人の声もまるで現実味がなくて、ニィカはぼうっと子猫のように運ばれていた。
狭いところにどさりと、投げこむように入れられた。
「馬車を出せ!」
アーロスを怒鳴りつけたのとおなじ声が響いた。地面が動きだす。
固い振動と音が体につたわる。
ゆっくりと進んでいた馬車が町を抜け、街道を全速力で走りだしてからもニィカは放心していた。
となりから重く深いため息。
「お前は、何度俺の手を煩わせれば……」
ニィカは自分の左側にすわる、その声の主をぼんやりと見やった。黒い。黒いマント。顔をおおうひげに髪。こちらを見る瞳も黒い。
どこかで会ったことは覚えている。でも、どこだったかが思いだせない。
ニィカがなにも答えずにいると、彼はもう一度ため息をついて腕を組んだ。目の高さでにぶく光るもの。左手の親指にはめられた指輪だった。
「あ……」
思いだした。
あたしをお城に連れていった人。たしか、そのかっこうと真反対の真っ白な馬に乗っていた。
「……騎士さん」
つぶやくと、彼は「そうだ」とうなった。
馬車の車輪が石をふんだ。
がたりと体がはねる。「ううっ……」と押し殺すようなうめき声が聞こえた。
「……アーロス?」
ニィカは声の方向に身を乗りだす。アーロスは馬車の席に丸くなって横たわっていた。手で自分の耳を固くふさいでいる。
馬車が上下に揺れるたびにアーロスは小さく声をあげて体をこわばらせる。その手のひらに血がこびりついていることに気づき、びくりとした。
彼へ手をのばそうとすると、「おとなしくしていろ」とさえぎられた。太い腕がニィカを元のように座らせる。騎士を見上げてたずねた。
「アーロス、死んじゃわない? なんでケガしたの? ……あれ、なに?」
黒い視線がニィカに走る。ふたたびため息が吐きだされた。
「こいつがかすっただけだ」
ごつごつした指が示したのは、三日月をふちどったような道具だった。しなる木を糸でつなぎ止めているように見える。
「……なに、それ?」
けげんな顔でニィカがたずねる。返答はぐいと寄せられた眉根だった。
「……弓矢だ。知らないのか」
ニィカは「ゆみや……」とつぶやいた。
「おはなしでなら、聞いたことある」
そう、たしか、遠くから一撃で、獲物をしとめるもの。鷹よりもはやく、つよく――。
そこまで思いだして、ぞっとした。
「ねえ、本当にだいじょうぶ!? アーロス、矢が刺さったの!?」
「かすっただけだと言っただろう!」
怒号に息がつまった。ニィカをにらむするどい目つき。舌打ちが耳に痛い。
ニィカはにげるようにかたい背もたれに身を寄せ、最後にこれだけ、ささやくように訊いた。
「……騎士さんが、やったの?」
答えは「ああ」という短いものだった。