55. 小さな獣
【※軽微な流血表現を含みます】
行きよりも足早になって廃修道院への道を進む。
「もう、ニィカ。そんなに急がなくてもいいじゃない」
マルシャの声の響きもどこか軽い。
角を曲がろうとしたとき、ぬっと人影が現れた。
とっさに飛びのいて「ごめんなさい」と横をすり抜けようとする。
「待て」
腕をつかまれる。ニィカはびくっと身をこわばらせて男の顔を見上げた。頬骨のめだついかつい顔つき。
「ご、ごめんなさい……」
震えるニィカの声が聞こえたそぶりも見せない。
「……まだ残っていたとはな。汝こそが恩寵の御子か」
その口調には覚えがある。頭が思いだす前に心が恐怖に染まった。
「答えぬか。……よかろう。彼処へ連れて行けば知れることだ」
きつく握られた腕を振りほどこうとするが、まるで伝わらない。ニィカから目を離した男は「ほう」と声をあげた。
「今日は幸先がよい。二人も子が見つかるとは」
彼の視線の先には、おびえる目をしたマルシャがいた。
「痛い目に遭いたくなければ、大人しく此方へ来るがよい」
男の唇の端がつり上がる。ニィカはぶんぶんと首をふってさけんだ。
「だめ、マルシャ、にげて!」
マルシャは動かなかった。表情に敵意が燃える。
空いていた男の左手が腰のベルトから短刀を抜いた。
「足の腱を斬られたいか?」
「やだ、やめて!」
体をよじって男の背や腰にめちゃくちゃに挑みかかるニィカ。男は大木のように動かず、ニィカを捕らえる手がゆるむこともなかった。
「よもや友人を見捨てて逃げはしまいな?」
マルシャは視線を落としてじゃり、と一歩足を進めた。その手は固く握られ、胸の前で重ねられている。
「うん……」
「だめだってば!」
のどが割れるほどにさけぶ。マルシャの従順な態度に安心した男は腕を引き、短刀をおさめた。
その瞬間、マルシャの目がぎらりと光った。
その獣じみた表情に男が反応するより早く、マルシャは手の中のものを思いきり投げていた。
「がっ……!」
男が両手で顔を押さえる。解放されたニィカは一瞬よろめいた後、無我夢中でマルシャの元へ駆けた。
カランと音を立てて男の指のあいだからなにかが落ちた。とがった先端を赤く染めた陶器のかけらだった。
「おのれ……」
だらだらと血をながす瞳が少女たちを映すよりも早く、マルシャはニィカの手を引いてその場を逃げ去っていた。
足音や人影におびえながら、やっとのことで廃修道院へ帰りつく。
ばたんと扉を閉めた瞬間にひざが折れた。
なにも言えずにぜえぜえと息を切らす。
痛いほどに気が立っていたが、どうやらあの男は追いかけてきてはいないようだ。
頭はくらくらするし、胸はずきずきと痛む。助けてくれるものがほしくて、思わずマルシャの顔を見ていた。
マルシャは髪を額に貼りつけてあえいでいた。
見ているうちにゆっくりとその顔がニィカにむけられる。
「……だいじょうぶ?」
笑顔が無理をしていた。
「うん……!」
ニィカの目からなみだがぼろぼろとこぼれ落ちる。
こわくて、安心して、ふがいなくて、申し訳なくて。ニィカは声を押し殺して泣いた。