36. ケルーノ
おしゃべりに興じながらも器が空になろうとしていたとき。ガタン、と堅いものがぶつかる音が鳴る。ニィカの右後ろのほうだ。とっさに振り返ると、床の板がぱっくりと切り取られたように四角くはね上げられている。
その見慣れない光景にくぎ付けになる。そっと指先でビビをつついて「ねえ、あれ……」と小声でたずねた。
ビビはおどろくふうでもなく、「ケルーノが帰ってきたみたい」と言ったきりじぶんの器に向き直る。
床にあいた穴から、二本の手がのびてきた。そでは左右それぞれでちがう色をしている。手のひらが床につけられる。
次の瞬間、地面からなにかが飛び出した。
最初にニィカが感じたのは、色だった。右腕、左腕、右脚、左脚、ベストの前身頃に後身頃、ベルト、靴、頭巾、すべてがちがう色の布でつくられている。明るい太陽の下で見たら、目がちかちかするかもしれない。
その人の顔を見上げて、ニィカはぽかんと口をあけた。
オレンジ色の仮面がその人の目元を覆っている。鳥の顔を模したようで、耳元に枯れ草色の羽根をさし、鼻にあたるところには黒く短いくちばしがつんととがっている。仮面の上部は輪郭を太くふちどるように青く塗られていた。
昼間にサラが「ケルーノにいちゃん」というのを聞いていなければ、だぼっとした服装と仮面のせいで、性別を推し量ることもできなかっただろう。
「やあ、ただいま!」
底抜けに明るい若い男性の声がした。
「おかえり、ケルーノ!」
くちぐちに子供たちが応える。
この人が、あのケルーノなんだ。ニィカはぱたん、と床を閉じる彼の挙動をまじまじと見つめていた。
彼は頭のうしろに手をやって、仮面のひもをほどく。手近なイスの背にそれをひっかけて座った。ニィカとおなじ辺の、右の端の席だった。ニィカは身を乗り出すようにして、遠い彼の姿を視線で追いかけた。
「今日は遅かったじゃない、ケルーノ」
マルシャが器を彼の前に置いてたずねる。
「んー、子供がいなくなったらしくって、色々聞かれたんだけど」
ニィカは慌てて彼から目をそらして椅子の上に小さくなった。
「さすがのボクだって、きのう今日来たばっかりの子は知らないし」とケルーノは彼女に気付いたようすもなく、幼いしぐさで頬をふくらませる。
向かいに座るマルシャが、ニィカの居心地悪そうな顔つきを見やる。それから無邪気さをよそおって口をひらいた。
「ねえケルーノ、その子のこと知ってたら、教えてた?」
ケルーノは大きく顔をしかめた。
「まさか。大人のいいように使われるなんてまっぴらだ」
「やっぱりね」
声をあげてマルシャが笑う。ゆっくりとまばたきをして、クスートも口に笑みを浮かべた。
「それ、どんな子か聞いた?」
クスートがたずねる。ケルーノはつまみ上げたかぶを口の中で転がしながら、思いだすように視線を中空へめぐらせた。
「女の子だとは言ってたけど。あとはどうだったかな」
「肌がちょっと浅黒くて?」
「黒い髪で?」
マルシャとクスートの質問に、ケルーノは交互に二人を見る。
「ああ、うん。たしかそうだったと思う。キミたちもあのいけ好かない騎士から聞かれてたの?」
それには答えずに「年はアーロスと同じくらいで」「頭に青い石のついたかざりを巻いてて」と続ける。
「ニィカっていう名前で」
「おさいほうが上手で」
ケルーノはさすがにけげんに感じたらしく、「ちょっと待って」と年長の二人を制した。
「そこまでは知らないよ。どういうこと?」
顔を見合わせて笑うマルシャとクスート。
「きょう、アーロスが新入りを連れてきたの。ほら、そこにいる子」
マルシャがニィカの席を手で指し示す。背もたれに背を押しつけ、椅子の前足を浮かすようにして、ケルーノが目をむける。ニィカはこくりと一度つばを飲んで、その顔を見返した。
「ニィカっていうんだ」
クスートの言葉につづけて「……こんにちは」とくちびるを動かした。
はじめて正面から見たケルーノは、ひげもないつるりとした肌をしていた。髪は金色で、耳の下あたりでくるりと内側に巻いている。ニィカを見つめるオリーブ色の目が印象的で、妙に大きく感じられた。
ケルーノは目をそらさずにニィカにたずねた。
「キミが、騎士たちが揃いもそろってさがしてた女の子?」
ニィカはかすかに首を動かしてうなずく。
「逃げてきたの?」
声音におもしろがるような響きがまじった。
すこし迷いながらも「そんな、感じ」と答える。
一瞬あっけにとられた表情を見せた後、ケルーノは愉快そうに笑いはじめた。
「すごいな、どうやって出し抜いたの? あとで聞かせてよ。参考にするからさ」
「う、うん……」
「ここにいれば大人は手出しできないから、好きなだけいていいよ。ボクたちといっしょに楽しく暮らそうよ。ね?」
最後ににっこりと笑いかけてケルーノはぎいっと音をたてて椅子に座りなおした。
そのほがらかさにニィカはほっと表情をゆるめる。
まわりの子供たちは意外そうな顔ひとつ見せず、ケルーノのことばを至極当然のものとして受け入れていた。